2010年発行の非売品ということですが、面白く読ませていただきました!!
各方面でご活躍の本好き(岩波文庫に絞ったところもありますが)の方々がエッセイとして寄稿されていました。
荒俣宏氏:1947年生まれ、博物学者・小説家・翻訳家・タレント
荒俣氏は博物学者でもあられますので、博物学の本が好きなようです。
岩波文庫のジョン・バラック著「自然美とその驚異」、アリストテレース著「動物誌」などご推薦!
すいません、自分には興味が高くないため、よく分かりませんでした・・・汗
江川紹子氏:1958年生まれ、神奈川新聞社会部記者を経て、フリーのジャーナリスト
数年前、ある殺人事件の遺族Mさんのお話を伺った。私は某大学でメディア・リテラシーについての講座を持っていて、そのゲストとしてお呼びしたのだ。
妻と幼い子どもを殺害されたMさんは、裁判で犯人の死刑判決を求め、テレビでも犯人や弁護人に憤りを語った。常に毅然とした姿ばかりが報じられる彼だったが、実際には、とても柔らかい表情の優しい青年だった。Mさんは、事件後、悲しみと絶望と怒りと苛立ちの中で、何冊も本を読んだ、という。そして、最も感銘を受けた本をいくつか、学生たちに紹介してくれた。その中に、太宰治の「人間失格」があった。
それまで、私はMさんに、この小説の主人公とは対極的なイメージを抱いていた。もっと強くて、もっと対人関係が上手に作れて、味方もたくさんいる。しかし、妻子を守れなかった運命を呪い、生きていることすら悔やまれ、犯人への復讐すら叶わない無力さを嘆き、自分自身を責め続けていた時期があったのだろう。この本について語る言葉に、私は想像を絶する彼の苦しみの深さを思った。
Mさんは、小説の一部を読み上げた。
友人から「女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間がゆるさないからな」と説教された主人公が、「世間」について自問する場面だ。のど元から出かかった「世間というのは、君じゃないか」という言葉を引っ込め、へらへらと作り笑いする。しかし内心、こんな自問自答が続く。
(それは世間が許さない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事すると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない、あなたでしょう?)
自分の不満や苛立ちを、「世間」に紛れ込ませて、一般化する欺瞞。「社会が」「みんなが」「国民は」など、自分をぼやかし、責任を曖昧にするのに都合がいい言葉は、ほかにもいくつもある。
「世間」に流され、自分で考えることを放棄すれば、角が立つことも無く、安穏と生きることも可能かもしれない。そんな個人が個人として生きにくい中、「世間が」ではなく、「あなたは」どう考えているのか、「私は」どう生きるのか・・・・。以前にさらりと読み流してしまった作品を、年月を経て、改めて読み直してみることの意味を教わった気がした。
鹿島茂氏:1949年生まれ、フランス文学者、元明治大学教授
読書には速効性の効能は無いが、遅効性のサプリメント的な効能がある。
ここ迄の人生を振り返って総括すると、読者は少なくとも私には役に立ったということだ。
読書の効能は「事後的」にしか確認できないことにある。
事後的には効能は明らかだが、事前的には効能を明示できないものをどう勧めたらいいのか。
読書の効能が事後的である以上、それを事前的に説明することはやめて、
「理由は聞かずにとにかく読書しろ!!」
亀山郁夫氏:1949年生まれ、ロシア文学者、名古屋外国語大学学長
わたしはいま、若い時代にあれほど恐れていた還暦という時を現実に迎えながら、この世界に生きて、人並みに“感情できる老い”の喜びをかみしめている。人の悲しみや苦しみにも素直に同化できるような気がする。
乱読の喜びは、偶然との出会いの喜びでもある。40数年振りに漱石の「こころ」を読み返した。
これほどまでにも凄まじい緊張感をはらんだドラマだったかと、驚きを新たにした。
「こころ」を読み終えた土曜日の午後、わたしは、その数日読みさしになっていた大江健三郎の「水死」を再び手にとった。「こころ」の余韻もあったのか、しばらく失われていた集中力が蘇り、これまた圧倒されてしまった。凄い、凄まじい、と呟きながら、最後の頁を閉じた。
わたしの感動を倍化してくれた理由はほかでもない、「水死」が「こころ」のパロディとして構築されていたことである。
パロディには、時として、過去の伝統に対する、密やかなリスペクトが息づくこともあるのだ。
還暦を迎えてはじめて「斜陽」を手にし、主人公直治の「手記」を読み進めるうち、魂が洗われるようなすがすがしいノスタルジーの訪れを受けることになった。
「奥さんはお嬢さんを抱いてアパートの窓縁に、何事もなさそうにして腰をかけ、奥さんの端正なプロフィルが、水色の遠い夕空をバックに・・・」
何という美しい情景だろう。わたしはそれから改めて「人間失格」に向かい合うことになった。心穏やかだった。
ロバート・キャンベル氏、1957年生まれ、東京大学名誉教授、早稲田大学特命教授
幸田露伴の「努力論」
硬質でややいかめしいタイトルが興味をひく。「努力」とは何か、人は何のために努力するのか。露伴はエピソードを散りばめながら理路整然と、深い情理を掘り下げ、読み応えのある啓蒙書に仕上げていた。
愉快かつ大真面目に人間の幸せを説いている。その中心が「幸福三説」というもので、人間が幸せになるカギを、順番に
「惜福(せっかくの幸せを浪費し使い果たしてしまわないこと)」
「分福(福を他人に分け与えこと)」
「植福(人々の福利を増進すること)」
と分類して考え、分析している。
「惜福」を別として、「分福」と「植福」については他者に対するポシティブな行いが、いかに己の幸福を左右するかを述べる。露伴はとくに「分福」を重視するようだ。
津村記久子氏、1978年生まれ、作家
読書が好きだ。
岩波文庫では、たくさんの良い古典を読める。この文では、「カフカ短編集」と中島敦「山月記、李陵、ほか9編」、そしてロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」を取り上げる
「カフカ短編集」。20編が収められている。どの小説も、短くてとても楽しい。読む前と読んだ後で、確実に頭のスイッチが切り換わっている短編たちは、まさに珍味と言える。頭の掃除をしてくれるようでもある。自分のちっぽけな妄想が頭から押し出されてゆく。それは、とても新鮮な体験である。それを、電車に少しのってから降りるまでの間に味わえるのは贅沢なことだと思う。
「山月記・李陵・他9編」には、11編の中短編が収められている。どれも素晴らしい。
その中でも「李陵」、運命に深手を負わされながら、なおも自分の信じることころを貫き通す人々の力強い物語。自らの意志を貫き通す李陵、司馬遷、蘇武の三人の姿に打たれる。三人の主人公の不器用で並外れた生き様だけがあるのだが、彼らの物語に感嘆することは、何らかの生きる力になるはずだ。
ロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」は全三冊である。読書そのものにも似ている。すなわち、誰も傍らにいなくても、本を開けばトリストラムが語りだすように、読書はそこにある。世界が自分を見放したと思う時にすら、本を読んでいる間は、物語と作者はあなたとだけ対話している。そこには、とても個人的で親密なやりとりがあり、遠く見えた世界に分け入る感覚がある。
藤井貞和氏、1942年生まれ、詩人。日本古典文学。国文学者。
父、藤井貞文(歴史学者)が折口信夫(日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった)門下であり、影響を受けられているようです。
詩人でもあるので、岩波文庫「歌の話・歌の円寂する時 他一編」を推薦。
山室信一氏、1951年生まれ、日本の歴史学者・政治学者、京都大学名誉教授
伊藤博文を暗殺した韓国の安重根はすさまじい読者家であったという。
自ら揮毫「一日不読書 口中生荊棘(一日、書を読まなければ、口の中に荊棘(けいきょく)を生じる)」
を残されている。
暗殺はよくないが、キリスト教信者でもありながら、人を殺すなど複雑な事情があるようである。
この読書への飢えにも似た想いは、罪を犯した後、投獄されている中で、毎週10冊近い本を読破しながら、その目次と内容を几帳面に書き写した死刑囚、永山則夫に近いものであったかもしれない。
死を前に平静な気持ちで読書に集中できる自信はないが、読書が時間との格闘であることは逃れ難い宿業であると言えそうである。
三木清は『読書と人生』において、「読書とは一種に技術である」として、読書の楽しみや何を読むべきかという以前に、習慣化する技術の修得の必要性を説き、その技術とはまず時間の確保にあるとして、「人生において閑暇は見出そうとさえすれば何処にでもあるものだ。読書の時間が無いというのは、読書しないための口実に過ぎない」と喝破した。
中国の魏の時代の薫遇(とうぐう)は「読書百遍義自ずから見(あらわ)る」と説いたことで知られるが、やはり時間が無いと訴える人に対して、暇がないとは不勉強の言い訳に過ぎないとしている。
「学ばなければ忘れない」というバスクの処世訓がある。忘れるということは、読み、学んで初めてできることであり、読まなければ忘れる事さえできない。
ほか、森鴎外『高瀬舟』、芥川龍之介『杜子春』、中島敦『山月記』、吉川英治『宮本武蔵』も面白かったようである。
どうもありがとうございました!!
m(_ _)m
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