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2012年6月21日 (木)

「悩む力」 著者 姜 尚中 を読んで

アマゾンの書評では賛否両論のようですが、自分としては、読めてよかったでした。

 

目次は、

序章「いまを生きる」悩み

第一章 「私」とは何者か

第二章 世の中すべて「金」なのか

第三章 「知ってるつもり」じゃないか

第四章 「青春」は美しいか

第五章 「信じる者」は救われるか

第六章 何のために「働く」のか

第七章 「変わらぬ愛」はあるか

第八章 なぜ死んではいけないか

終章 老いて「最強」たれ

 

本書は、文豪夏目漱石、ドイツの社会学者マックス・ウエーバーを多く例にあげて語られており、また、生と死のことでは、精神医学者のV.E.フランクルも登場してきます!

V.E.フランクル氏は、好きで自分のブログネームに、大変申し訳ないのですが、使わせていただいております。

本書より、とくに印象に残ったこと

*****

漱石(1867-1916)やウエーバー(1864-1920)が生きたのは19世紀末から20世紀にかけてであり、われわれは20世紀末から21世紀にかけてを生きています。つまり、100年の開きを挟んだ「2つの世紀末」ということになりますが、私がいまあらためて漱石とウエーバーに注目するのは、2つの世紀末がいろいろな意味で似通っているのではないかと思うからです。

 

たとえば、19世紀末、長期不況と内乱状態に見舞われていたヨーロッパ諸国は、事態の打開を求めて盛んに他国へ進出しました。そして日本も、右へ倣えで満州などへ出て行きました。いわゆる「帝国主義」です。

帝国主義はその後、第二次世界大戦によって“リセット”されましたが、いま世界を見渡すと、国境を越えた「グローバルマネー」が世界を縦横無尽に徘徊し、その暴走に歯止めがかからない状態が続いています。世の中を見まわしてみれば、ニートやフリーター、非正規雇用の人々があふれ、深刻な社会問題になっています。機能不全の社会となり、多くの人々が打ち捨てられようとしているのです。100年前の日本でも「神経衰弱」と言う名の心の病が社会問題となりました。漱石の小説によく登場するのですが、それに類似したものを感じます。

 

現代、既にできあがってしまっている時代の中で生まれた者には、世の中の矛盾ばかりが目につき、それを創った世代に対して不満を感じます。そして、「頑張っても何も変わらないさ」的に、どこか虚無的になりがちです。これを「末流意識」(逆に、戦後から高度経済成長を活きた人達や、明治新国家誕生にかかわった人達を「創始者意識」といいます)とでも呼ぶことができるでしょう。

漱石もまた、明治新国家の誕生にかかわった当事者ではなく、その後の時代を生きた人間でした。だから、漱石は「末流意識」を持って時代の中を生きる人々を描いた、と言うことができると思います。

漱石の小説の主人公を見ると、共通しているのは、みな時代に対してなにがしかの不満を持ち、不満を持ちながら、どこかあきらめているということです。そして、彼らはみな、世の中で幅を利かせている資本主義というものに疑問の眼を向けながら、同時にどこか達観したところがあります。つまり、「金次第の世の中というのは汚いものだ、いやなものだ」と思いながら、同時に「そう言っても、時代の趨勢であり、やむをえない」とも思っているわけです。

『三四郎』の中には、『それから』の代助のようにニヒルに時代を批評する人物はいませんが、多かれ少なかれ、それと同じような思いを抱いた人々が登場します。すなわち、

「時代は不幸な方向に向かっている。その流れを変えることは出来ない。自分も所詮はこの中で生きていくしかない。そうは言っても、どうしたらいいのかわからない」といった思いです。私は、漱石文学の登場人物の中に、不満と不安のようなものを抱えて、何か非常に「さまよっている」イメージを感じるのです。

ウエーバーが『それから』の代助を地で行ったような人だったこともあるでしょうが、ウエーバーの本を読み込んでいくうちに、生きづらい世界の中で人間はどう生きていくのかを、ウエーバーがもがきながら必死に問いかけているのが伝わってきました。私は彼の知への渇望のようなものに共感したのです。

ウエーバーも漱石も、その青春時代の生きざまを見ると、答えの出ない問いに苦しみつづける「青白い苦悩」といったようなものを感じます。報われることは無いとうすうすわかっている青春を、多少の空しさとともに生き、それでもどうしても意味を問わずにはいられない欲求に揺り動かされていた。そのことに、当時の私は「私だけではない、この人たちもそうなのだ」と、励まされるような思いを抱いたのです。

私は青春のことから自分へ問いかけを続けてきて、「結局、解は見つからない」とわかりました。と言うより、「解は見つからないけれども、自分が行けるところまで行くしかないのだ」という解が見つかりました。そして、気が楽になりました。何が何だか分からなくても、行けるところまで行くしかない。今も相変わらずそう思っています。

*****

 

「悩む力」、“悩むこと”は大事なこと、と思います。

 

ところで、

日本の夏目漱石氏が逝去されたのは、1916年。ドイツのウエーバー氏が逝去されたのは、1920年。

お二人とも、その後も良くない方向に進み続けた「ドイツ」、「日本」共に悲惨な出来事、第二次世界大戦を前に逝去をされています。

姜氏は、この悲惨な出来事により“リセット”されたと言われています。

 

次は一体何なのでしょうか?

 

決して“リセット”ではなくて、一人一人が、悩み続けることで一つ一つ解いていくことが必要なのかな、と思いました。

 

失礼しました。

m(_ _)m

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