「ダイヤモンドダスト」 (南木佳士著) を読んで その2
この本は短編集となっています。所収されているのは、次の通りです。
・冬への順応 「文学界」 1983年5月号
・長い影 「文学界」 1983年8月号
・ワカサギを釣る 「譚」 1986年9月
・ダイヤモンドダスト 「文学界」1988年9月
書き留めておきたいことを記しておきます。
「冬への順応」の中での「冬」とは、日々起こる「患者の死」、それに順応しなければ、医者は勤まらないのではないか、でも、そこに順応できない自分がいる、その心のうごき(葛藤)の物語のように思いました。
「長い影」、カンボジア難民医療に携われたときのこと。
薬はあったが、検査機材がほとんどなかった。専門の医者がそろわなかった。日本の、高度に近代化された総合病院から派遣されたぼくたちにとっては、足りないものだらけの野戦病院だった。人や物が足りたいために病人が死ぬ。今の日本では起こりにくいことが、あの暑い国の国境地帯ではありふれた出来事だった。並みの感受性を持つ者ならだれでもこれでいいのか、と思った。泣いたり、怒ったり、胃潰瘍になったり、病的に食って肥満したりした。・・・後略
「ダイヤモンドダスト」より。
なにげない笑顔のあった一日のなかで、「この家にこんな幸福そうな絵柄が出現したのは久しぶりだったから、彼は扱い方を想い出せなかった」、と・・・。
そして、「あとがき」より。
・・・(前略)内面となると、いまだにつま先を立てたがる自分がある。
小説を書き終えるたびに、そんな自分が顔をだしていないかと、心して検証してみる。結局、書く、と言う行為は、内面の浮きあがろうとする足を大地につけさせるための作業だったのかもしれない。
これからも書き続けたいと思いますが、やはり「いつかは自分の番だ」という視点での“死”というのを、もう少し書いてみたいと思っています。
そういう視点で書き進めて、もう少し固まれば、意外に“死”が暗いものでは無いんじゃないか、というところに到達できるような気がしてならないんです。最近、日本人は死ぬとどこへ行くのだろうというので、宗教関係の本を読んだことがありますが、割と暗くなくて、むしろ明るいものが書けるんじゃないか。しかも、作品の中に死んでいく姿とかそういうものがなくて、どこかに“死”を予感させながら明るいというようなものが書けないかな・・・・まあ夢みたいな話で、無理かもしれないなという気がしますけれどね。
地方とか田舎では、踵を地面に下ろして生活ができるという気がするんですね。私は中学・高校ぐらいしか東京にいなかったのですが、東京はやや踵を浮かして爪先を立てないとやっていけない所で、疲れてしまうのではないかという気が、いつもありました。だから、踵を下ろしている人達をかきたいなと。
「やさしさ」が伝わる言葉だと思いました。
それでも、この約1年後に著者は心の病をされています。
沈思黙考・・・
« 各国の公的年金制度 (日本を除く) | トップページ | 「ポータビリティ」について その2 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 瀬戸内寂聴さん(1922年5月15日~2021年11月9日、享年99歳)が51歳で得度される前年に出版、40歳から50歳までに書きためられたエッセイ「ひとりでも生きられる」を読んで(2025.03.16)
- 瀬戸内寂聴さん、70歳のときのエッセイ「孤独を生ききる」を読んで(2025.02.01)
- 瀬尾まいこ氏の著書は「あと少し、もう少し」、「図書館の神様」に続く、約6年ぶりの3冊目、2019年の本屋大賞にも選ばれた「そして、バトンは渡された」を、試験後の癒しとして読んでみました~!(2024.12.21)
- 岩波文庫「読書のすすめ」第14集、岩波文庫編集部編。非売品。最近、読書量が減っているので、薄いけど面白そうでしたので、古本屋さんで200円でしたので、買って読んでみました!うん、面白かった!!(笑)(2024.12.01)
- 新型コロナ禍の2020年6月から2021年6月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載された、小池真理子著「月夜の森の梟」が文庫化されたので、一気に読んでみた~!(2024.02.16)
コメント