「置かれた場所で咲きなさい」 渡辺和子著 を読んで
著者渡辺和子さんのお父さんは、渡辺錠太郎陸軍教育総監。あの「ニ・ニ六事件」で亡くなられたお一人で、その時のことを次のように書かれています。
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父が1936年2月26日に62歳で亡くなった時に、私は9歳でした。その後、母は1970年に87歳で天寿を全うし、姉と二人の兄も、それぞれ天国へ旅立ちまして、末っ子の私だけが残されています。事件当日は、父と床を並べて寝ておりました。70年以上経った今も、雪が縁側の高さまで積もった朝のこと、トラックで乗りつけてきた兵士たちの怒号、銃声、その中で死んでいった父の最期の情景は、私の目と耳に焼きついています。
私は、父が陸軍中将として旭川第7師団の師団長だった間に生まれました。9歳までしかともに過ごしていない私に、父の想い出はわずかしかありません。ただし、遅がけに生まれた私を、「この娘とは長く一緒にいられないから」といって、可愛がってくれ、それは兄二人がひがむほどでした。
(中略)
努力の人でした。小学4年までしか学校に行かせてもらえなかった父は、独学で中学の課程を済ませ、陸軍士官学校に優秀な成績で入学、さらに陸軍大学校では、恩賜の軍刀をいただいて卒業したと聞いております。決して自慢をする人ではなく、これらはすべて、父の死後、母が話してくれたことです。
外国駐在武官として度々外国で生活した父は、語学も堪能だったと思われます。第一次大戦後、ドイツ、オランダ等にも駐在して、身をもって経験したこと、それは「勝っても負けても戦争は国を疲弊させるだけ、したがって、軍隊は強くてもいいが、戦争だけはしてはいけない」ということでした。
「おれが邪魔なんだよ」と、母に漏らしていたという父は、戦争にひた走ろうとする人々にとってのブレーキであり、その人たちの手によって、いつかは葬られることも覚悟していたと思われます。その証拠に、2月26日の早朝、銃声を聞いた時、父はいち早く枕もとの押し入れからピストルを取り出して、応戦の構えを取りました。
死の間際に父がしてくれたこと、それは銃弾の飛び交う中、傍で寝ていた私を、壁に立てかけてあった座卓の陰に隠してくれたことでした。かくて父は、生前可愛がった娘の目の前1メートルのところで、娘に見守られて死んだことになります。昭和の大クーデター、ニ・ニ六事件の朝のことでした。
三十余名の“敵”に囲まれて、力尽きた父。
父と過ごした9年、その短い間に、私は一生涯分の愛情を受けました。この父の子として生まれたことに、いつも感謝しております。
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怒号と銃声、そして「三十余名の“敵”」という書かれ方が、著者渡辺さんの今もある「ニ・ニ六事件」に対する強い想いを感じました。
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「置かれた場所で咲きなさい」について、とても平易な文章でわかりやすく、優しさのある内容でした。
一人の宣教師からいただいた言葉、
Bloom where God has planted you. (神が植えたところで咲きなさい)
「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と続いた詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。
置かれたところで自分らしく生きていれば、必ず「見守っていてくださる方がいる」という安心感が、波立つ心を鎮めてくれるのです。
「置かれたところ」は、つらい立場、理不尽、不条理の仕打ち、憎しみの的である時もあることでしょう。信じていた人の裏切りも、その一つです。
そんな日にも咲く心を持ち続けましょう。
咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと降ろしましょう。
多くのことを胸に納め、花束にして神に捧げるためには、その材料が必要です。ですから、与えられる物事の一つ一つを、ありがたく両手でいただき、自分しかつくれない花束にして、笑顔で、神に捧げたいと思っています。
「死にたいと思うほどに苦しい時、“苦しいから、もうちょっと生きてみようとつぶやいてください」苦しみの峠にいるとき、そこからは必ず下り坂になります。そして、その頂点を通り越すときに味わった痛みが、その人を強くするのです。
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次は、牧師の河野進さんの詩になります。
主は問われる
「何を望むか」、「謙遜を」
「次に何を」、「親切を」
「さらに何を」、「無名を」
「よかろう」
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こまった時に思い出され、用が済めば、忘れられる
「ぞうきん」
台所の隅にちいさくなり、報いを知らず、朝も夜も喜んで仕える
「ぞうきん」になりたい
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笑顔について、「ほほえみ」という詩が書かれていました。
もしあなたが 誰かに期待したほほえみが得られなかったなら
不愉快になる代わりに、あなたの方から ほほえみかけてござんなさい
ほほえみを忘れた人ほど、それを必要とする人はいないのだから
「何もできなくたってもいいのよ。ただ、笑顔でいてくださいね」
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一番つらかったのは、50歳になった時に開いた「うつ病」という穴でした。学長職に加えて、修道会の要職にも任ぜられた過労によるものだったと思いますが、私は、自信を全く失い、死ぬことさえ考えました。信仰を得てから30年あまり、修道生活を送って20年が経つというのに。
入院もし、投薬も受けましたが、苦しい2年間でした。その時に、一人のお医者様が、「この病気は信仰とは無関係です」と慰めてくださり、もう一人のお医者様は、「運命は冷たいけれども、摂理は温かいものです」と教えて下さいました。「摂理」-この病は、私が必要としている恵をもたらす人生の穴と受け止めなさいということでした。そして私は、この穴なしには気づくことのなかった多くのことに気づいたのです。
かくて病気と言う人生の穴は、それまで見ることができなかった多くのものをみせてくれました。それは、その時まで気づかなかった他人の優しさであり、自分の傲慢さでした。私は、この病によって、以前より優しくなりました。
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坂村真民という四国の詩人が、80歳を過ぎて詠んだ詩の中に、
老いることがこんなに美しいとは知らなかった。
老いることは・・・・・・
しだれ柳のように自然に頭がさがること
歳を重ねると、これまで持っていたものを失う。それは悲しいことです。しかし失ったものばかりを嘆いても前には進みません。ふがいない自分としっかり向き合い、そして仲良く生きていことです。自分を嫌うことなく大切にしてあげなくてはいけない。悩みを抱えている自分もまた、いとおしく思うことです。
人間に悩みはつきもの。けれども、神様は試練に耐える力と逃げ道をきっと備えていてくださる。
坂村真民の「冬がきたら」と言う詩の中の「冬」を、「人生の冬」である高齢期に置き換えてみてください。
冬がきたら冬のことだけ思おう
冬を遠ざけようとしたりしないで、むしろ進んで冬のたましいにふれ、冬のいのちにふれよう
冬がきたら冬だけ持つ深さときびしさと静けさをしろう・・・・・・
老いについて、
「人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり・・・・・まことのふるさとに行くために。自分をこの世につなぐ鎖を少しずつ外してゆくこと」かくて「老い」を意識する時、人は柔和で謙虚にならないといけないのです。
相手を生かす、ぬくもりのある言葉を使える自分でありたい。
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とってもよかったです!ありがとうございました~!
m(_ _)m
「まだ見えなくてもあなたの道は必ずある」(古木涼子著)も読んでみたいと思っていますが、なかなか書店では見つからないですネ。
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