« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月

2016年7月31日 (日)

「玄冬の門」(五木寛之著)を読んで

中国では、「一生」を次のように分けている。

青春

朱夏

白秋

玄冬

 

「青春」は、言うまでもなく若々しい成長期で、25歳くらいまでを言う。

「朱夏」は、真っ赤な夏。社会に出て、働き、結婚して家庭を築く。そして社会的貢献を果たす。人間の活動期、フル回転の季節です。25歳から60歳くらいまでを言う。

そして、「白秋」。人生の一通りの役割を果たしたあと、生々しい生存競争の世界から離れて、秋空のようにシーンと澄み切った、静かな境地に暮らす時期のこと。リタイアしてから75歳くらいまでを言う。

「玄冬」は、その後、7580歳以降を言うようです。

 

五木寛之氏は、1932年(昭和7年)生まれですので、現在84歳!

すでに玄冬の門をくぐられているわけですね。

 

どのようにして最後まで自分の意識を保ちながら、落ち着いて最期を迎えられるか、日頃からトレーニングしておくと言うことが大事になってくる。

孤独を嫌がらない。孤独の中に楽しみを見出す。後半生はそういうことが大切だろうと思います。

 

玄冬の門をくぐる上で、心構えの本、と言う感じがしましたヨ♪

 

からだが不自由になってくる。そんな時は、心の世界に遊ぶ。「本を読む」ことは、からだが不自由でもできるのです。夜中に目覚めて本を読む。こんなに貴重に思われる時間はないと思うぐらい面白いのです。本を読んで知識を増やそうとか、どこかで何かの資料に使おうとか、そういう気は全然ありません。活字を読む快楽というか、これはもう、他に代え難い楽しみの一つです。

本を読む。これに勝る楽しみというか、快楽はありません。ちょっとのあいだでも、五分間でも読める。トイレに行くときは本を離したことがないし、トイレにも眼鏡を置いています。トイレに座って、変に力んだりせず、本を読んでいるあいだに、いつの間にか終わっている。暇さえあれば、寝転がって読んでいる。寝る前も読んでいる。夜中に目が覚めるとまた読む。

うちでゴロゴロしていて奥さんに邪魔がられるときは、図書館や記念館に行けばいい。一刻千金ですからね。老後の時間をエンジョイすると言うことに関して言えば、黄金の時間がどんどん流れていくわけだから。そこをきちんとやる必要があると思います。

映像が好きな人は映像でもいいですよね。

誰でも何か必ず、興味が湧く対象はあります。本を読むのも面倒くさいし、音楽にも絵画にも映画にもあまり関心がないとか、いろいろ言う人がいますが、必ず何かありますよ。

 

「子孫のために美田を残さず」に徹する。90歳までに全部使い尽くしてしまおうという計画を立てて、「90歳過ぎたら、もう野垂れ死にでよい」という気にならないといけない。

家族との絆から離れること。自分で部屋を借りて、自分で資産を運用して暮らしていく。肉親、家族にすがるなということは非常に大事だと思いますね。そうすると、そこから、自分に残された日々をどのように生きていこうかというプランも出てくるでしょう。

 

親鸞は62歳のときに京都へ出て、そのときに奥さんはついて来なかった。新潟の実家へ行ってしまった。京都では、本を書いたり、書字に努めたり、和讃を書いたり、作ったり、死ぬまで京都の一角で、じーっと暮らしていました。そして、親鸞が90歳で死ぬ時も奥さんは立ち会っていない。

法然も亡くなるとき弟子に言い遺したことは、「群れ集まるな」

ブッダも、自分が死んでも、葬式に携わるなと弟子たちに言ったそうです。

第一歩は「家族離れ」です。ファミリーからの独立を得て、最後は単独死するのだと言う覚悟。子供たちに看取られて死ぬということは、今はもうあり得ないと覚悟する。最期は独りでこの世を去るのだと言う覚悟を決めたうえで、いろいろな道が開けるような気がします。

 

「君子の交わりは淡きこと水の如し」がよい。本当の親友とは、たまに会うのがよい。

 

高齢になって新しいことを学ぶというのもすごく大事なことです。「再学問のすすめ」です。年をとって勉強するというのは、すごく面白いことですね。

 

自分のからだと対話する

「病院」には行かないが、「健康法」については、白隠禅師から野口整体から、ありとあらゆる健康法を楽しんで試してきました。今日まであまり大きな病気をしていません。

健康そのものが目的ではないけれども、健康であることを自分の楽しみとして健康法を実践するのは大事なことです。少なくとも、余生をエンジョイしていかないと、人間、楽しみがないと生きる気がしませんから。

 

ありがとうございました!

 

m(_ _)m

27895050_1

2016年7月30日 (土)

「ポーツマスの旗」(吉村昭著)を読んで その4

ポーツマス条約を結んだ外務大臣「小村寿太郎」の裏の顔について

 

私生活では、大酒し女遊びも激しかった・・・

そして、父親の莫大な借金のため、母親は家を去り、父親の負債は長男の寿太郎に降りかかった。

債権者たちは絶えず家に押しかけて怒声をあげ、役所にもやってきて小村を呼び出し、棒給を奪っていった。

生活は窮した。

友人からは煙草を乞うた。

彼は、借金返済の期日が迫ると家に近寄らず外泊した。同僚や旧知の友人たちの家を泊って歩き、しばしば遊里にも行った。居続けをしながら金も払わぬので、再び行くと素っ気なく追い払われる。役所で弁当を取ろうとしても支払いをしないので断られ、茶を飲んですごすことも多かった。同僚と会食をしても会費を払うことは無く、それでも平然と出席する彼は敬遠された。

債権者の容赦ない督促に、酒を飲み、女を買う荒れた生活が続いた。

 

彼の大きな誤算は、妻の町子であった。かれが町子を妻にめとったのは、その美貌にひかれたからであった。町子は、女子としては珍しく明治女学校卒の高等教育と受けた娘で、留学から帰国したばかりの彼には得がたい娘に思えた。

しかし、結婚後、かれは、妻が家事を一切せぬ女であることを知って愕然とした。女として身につけておかねばならぬ裁縫の針をとることもせず、料理もできない。近くに実家があって、その仕送りで女中を雇い、すべての家事をやらせる。それに、感情が激することが多く荒い言葉を口にしたり、物を投げたりして、小村が腹を立てると、実家の両親の下に行って泣いて訴える。

子供が生まれても、妻の生活態度は変わらなかった。彼女の唯一の趣味は芝居見物で、子どもを女中に託して実家の母などとしばしば外出する。それをなじると、妻は泣き喚いた。町子は幼児のような女であった。食事も気の向いた折にすませ、小村と食膳に向かい合って座ることもない。小村は妻を持て余し、ほとんど口をきくこともしなくなった。

 

小村の家庭生活は無残であった。町子が家事を処理する能力に欠けているため、小村は、夏は浴衣一枚、冬は綿入れを着通し、破れてもつくろってもらうこともない。

小村の給与が増して生活が楽になり女中を雇うようになったが、町子は来客があっても顔を出すことはせず、むろん酒肴の用意もしない。そのため小村は、台所に行って女中に肴を指示し、酒を出させたりしていた。

町子の芝居通いはさらに著しくなって、小学校に通う息子と娘も連れてゆく。役者の錦絵、画本を買い集め、新聞も芝居の欄のみ目を通し、役者の手拭も収集する。町子の趣味は子供たちにも伝わり、役者の所作を真似たり、声色を使って遊ぶ。かれらは、女中や書生に芝居の登場人物や役者の名をつけて興じていた。

小村は、町子と諍いをして時には殴りつけることもあった。が、町子の態度はあらたまらず、息子や娘は母の側について小村に近づこうとしない。女中も町子の指示に従い、僅かに書生たちが小村の身の回りの世話をしたが、町子の冷ややかな態度に辟易して去る者が多かった。

小村は、家庭の空気に堪え切れず芸者遊びにふけった。居続けることもあって、待合から出勤することも稀ではなかった。かれの遊興は省内でも話題になっていたが、家庭の事情からやむを得ないと同情する者も多かった。

町子は、外泊する小村に嫉妬をいだき、しばしば尋常さを欠いた行為をとった。待合の女が月末に請求書を持ってくると、町子は、女性の陰部の名称を口にし、そのようなものに夫が接した代金を支払えぬ、と叫んで追いかえす。

さらに、町子は、小村が常時使用する車夫に、遊里へ送った折には必ず自分に告げることを厳命した。或る夜、彼女は、請求書から知った蜂龍という待合に足を向け、小村を待っていた車夫に、なぜ教えぬ、と言って頬を平手でたたき、待合に入った。二階に上った彼女は、小村の笑い声を耳にして部屋の襖をあけ、小火鉢を持ち上げて芸者に投げた。火鉢は背後の金屏風に辺り、炭火と灰が散った。屏風が燃えだし、待合は大騒ぎになったが、その話も蜂龍の女将の口から外務省内に広がった。

小村は、妻や家庭に絶望し、帰宅しても一室にとじこもって家族と顔を合わせることもしなかった。

晩年は、家族とは別居し、激職の末に結核に罹り56歳で亡くなっている。

 

親、そして妻には恵まれなかったが、ここで培った?タフなふてぶてしさが小国日本のために生きた、と言われている。

 

いろいろな人生がありますネ!

ありがとうございました~!

m(_ _)m


2016年7月18日 (月)

昼のセント酒~JR「日暮里」の巻

還暦を迎えた M先輩、50代後半のH先輩、そして50代前半の自分と三人で昼のセント酒~!!!

「これからの生き方を語る会」でもありますネ!!とても楽しかったです!!

 

13時に、JR日暮里駅 北改札口集合!

最初に「谷中銀座」を散策

「谷中銀座」は江戸文化の香り高い谷中地区の商業の中心として景観を大切にしてきている。“夕やけだんだん”をおよそのスタート地点として、全長175m・幅員56m70店舗が両側にひしめいて商いをしている。立ち飲みあり、甘味処あり、揚げ物あり、なんでもありで、古き良きところという感じでした!

また、「日暮里」は、江戸時代に、新堀(にいほり)という地名だったが、享保のころから「一日中過ごしても飽きない里」という意味を重ねて「日暮里(日暮らしの里)」の字が当てられ、1749年(寛延2年)に今の地名となったそうです。

 

散策の後は、昭和13年築の古民家を改築したという「谷中ビアホール“あたり”」へGo!!!

とってもコクのある琥珀色の「谷中ビール」、美味~!いただきました~!!

 

そして、本日のターゲットの一つ「いずみや」へ行きましたが、既に満員で入れず・・・

そこで、あの「野菜たっぷりタンメン」で有名な日高屋さんの立ち飲み屋「焼鳥日高 日暮里東口店」へGO!!!

とてもリーズナブルに飲むことができて、イイかもです!

 

ここで、あまり飲みすぎないうちに、いざ「銭湯~」へ!

 

今回は、センター湯船の「雲翠泉」へ!

赤いタオル(昼のセント酒必見!)を持っての入湯!よかったです!

天井高く!煙突長く!湯船は熱く!(あまり長くは入っていられません)、富士山の絵も素晴らしく! と昭和の香りプンプンとしてました! よかったです!!

 

そして、本日のメイン!

「鳥のぶ」へGo!!!

H先輩に予約をいただいていたので、座ることができましたが、17時の開店と同時に満席になりました!ビックリです!

やはりここでは焼鳥! 鳥刺し! そして刺身も美味しかったです!

日本酒も豊富で「獺祭」あり! そして、H先輩は更に「鳳凰美田」と(今度、飲んでみたいと思います!)、とても美味しい、とても楽しい時間を過ごすことができました!

 

締めは、「一由そば」へ!

立ち食いそばですが、おつゆが美味くてよかったのですが、さすがにお腹が目一杯でした・・・(^-^;

 

最後にエクセルシオールでコーヒーを飲み、少し酔いをさまして、お開きとなりました!

 

楽しい「昼のセント酒」でした~!

 

そして、世代の近い先輩たちと語り合うことで、難しい世代でもある自分たちの生き方、生き様を考えることができてよかったです!!

 

またの機会を楽しみにしています!!

ありがとうございました~!!

m(_ _)m

 

写真は、H先輩よりご拝借~!

Cnderlaueaeqpcc

谷中ビール!
Cnderlcueae27zb

Cndzec0vyaem1be

 

「雲翠泉!」

Cneklisvuaa5zmw

絶品!「鳥のぶ」
20160716024

Cnee2y0vuaat5yt

Cnegtgusaa6av9

締めの「一由そば!}
Cne_sqfuiaaxm4h

2016年7月10日 (日)

第3号被保険者について

国民年金法 第七条(被保険者の資格)より、

2号被保険者(厚生年金保険の被保険者)の配偶者であつて、主として第2号被保険者の収入により生計を維持するもの(第2号被保険者である者を除く。以下「被扶養配偶者」という)のうち二十歳以上六十歳未満のものを「第3号被保険者」という。

つまり、

3号被保険者とは、会社員や公務員など国民年金の第2号被保険者(夫あるいは妻、事実婚可)に扶養される配偶者の方(20歳以上60歳未満)が対象となる。

(参考)

・第1号被保険者:自営業者や学生等

・第2号被保険者:厚生年金保険の加入者(会社員等)

 

3号被保険者に留まるための要件

配偶者(第2号被保険者)が退職などにより厚生年金の加入者でなくなった場合や本人の収入の増加(年収が130万円以上になると見込まれる場合)となる場合、配偶者の扶養から外れることになる。

この場合、第1号被保険者になるため、上記要件を満たさないようにすることが、第3号被保険者に留まるための要件になる

 

ちなみに、130万円以上になると、被扶養者でなくなり、税金及び社会保険料がかかってくる

 

次に、201610月の法改正により、現在の社会保険の加入要件は週の労働時間で決まりますが、週の労働時間だけでなく、106万円以上の年収が“要件”となる。

現行の週30時間以上(所定労働時間の4分の3以上)の“要件”に変わり、

①週20時間以上

②月額賃金8.8万円以上(年収106万円以上)

③勤務期間1年以上

④学生は適用除外

⑤従業員501人以上の企業

これらの要件を満たした短時間労働者は、社会保険の対象となり、第3号被保険者に留まれなくなる。

 

当面は、従業員数501人以上の大きな企業に1年以上勤務する人に限られるが、今後、更なる対象の拡大を予定している。

 

これからの時代は、第3号被保険者に留まるのではなく、飛び出す方が懸命に思えます・・・

 

m(_ _)m

 

2016年7月 9日 (土)

吉祥寺 「天下寿司」へ!!  

久しぶりに、B野さんと一緒に吉祥寺の「天下寿司」へ!

 

あの「孤独のグルメ」で五郎氏も訪れた、駅前すぐにある「天下寿司」ですネ!(「孤独のグルメ」では「天国寿司」です)

 

毎年来ていますが、いつも、早くて、安くて、美味い!の三拍子が揃った回転寿司

生ビールと一緒に、出来たてのお寿司を堪能しました!!

 

もちろん、その後は、せんべろ定番の「いせや総本店」へGo!!!

今回は2階の4人用Box席に通してもらい、2人でゆったりと飲み過ごすことができました!

この日は雨でしたが、雨の効用ですネ!ラッキーでした!

 

ちょっと平日の疲れが残っていたのか、酔いが早く回ってしまいましたが、とてもよい一日を過ごすことができました!

 

ありがとうございました~!!!

 

そして、7/10(日)は選挙へ行ってきましたヨ!

 

m(_ _)m

150x150_square_24102836

P1200726s1

P1200726s2

P1210028s

Ddff85ed5f75314c24331b0dee4f66a9

2016年7月 3日 (日)

「独立記念日」(原田マハ著)を読んで

原田マハさんの著書は「キネマの神様」に続いて2冊目!

 

迷いや悩みを抱えた幅広い年代の女性たちの人生のターニングポイントを切り取った24の短編集!

 

ここで、原田マハさんが“女性”であることを認識しましたヨ!

 

原田マハさん自身も山あり谷ありの人生を結構楽しみながら生きておられるように見えましたヨ!

1962年生まれ、

1985年、関西学院大学卒業。卒論は「谷崎潤一郎:痴人の愛」。就職先がみつからなかったので、そのまま西宮に居残り、バイトをしながら専門学校を卒業

 

1986年、広告プロダクション二か所で勤務するも、あまりの激務に音を上げ、退職。

もともと好きだった現代アートの世界に目覚め、独学で現代アートを学ぶ。

 

1988年、原宿でたまたま通りすがりにオープンの準備をしていた「マリムラ美術館」(現在は閉館)に行き当たり、飛びこみで「雇ってください」と訴える。その度胸を買われて、まんまと就職。美術展の展示、コレクションの管理、広報、受付と幅広い活動をし、美術館の実務を経験。

 

1990年、結婚。マリムラ美術館を退職し、知人から誘われていた民間のアートマネジメント学校のディレクターとなる。が、肩書に憧れて引き受けたものの、ボランティア活動に近く給与もない。現状打破をもくろみ、その学校にたまたま視察にきた伊藤忠商事新規事業室の人物を頼って、ほぼ飛び込みで「企業とアートの新しい関係」についてプレゼンさせてもらう。またもや度胸を買われて、めでたく伊藤忠商事に中途入社が決まる。

 

1991年、伊藤忠商事株式会社新規事業開発室で仕事を始める。全国の地方自治体や企業の「アート、文化に関するコンサルティング」が主な業務。新しく美術館を開設する際のコンサルティングや、コレクションの売買、展覧会のプロデュースなどを手掛ける。営業で、全国の都道府県を飛び回る。世界中のコレクターやギャラリスト、美術館との交渉も、語学力はなくとも度胸だけでなんとか奇跡的にやり抜く。

 

1993年、当時顧客の一人だった森ビルの森稔社長より「六本木に巨大な都市開発をするのだが、そこに美術館を造ろうと思う。相談にのってくれますか?」と頼まれ、チーフコンサルタントとして「森美術館」の構想策定に乗り出す。

 

1994年、「美術コンサルタントもいいけれど、いつかキュレーターになりたい…」と思い始め、早稲田大学第二文学部の美術史科を学士受験(三年から編入可能)。当時、新宿区西早稲田に住んでいたため、早稲田の二文(夜間と土曜日のみ授業)ならば会社勤めしながら通えると判断した。昼夜を分かたず猛勉強し(人生最高の勉強量!)40倍の倍率をくぐり抜け、合格。専攻は20世紀美術、卒論は「ル・コルビュジエの絵画論」。学芸員の資格を取得。

 

1995年、森社長のお誘いを受け、伊藤忠商事を退職、森ビル株式会社に入社。本格始動した森美術館の設立準備室に所属。以後、世界中の美術館を森社長夫妻と視察。またもや度胸だけで世界中のアートセレブと会いまくる。以後、六本木ヒルズのブランディングや、美術館設立にまつわるほぼすべての業務に関わる。

 

1996年、早稲田大学卒業。

 

2002年、「人生でほんとうにやりたいことは何か?」と考える。おりしも40歳になる年だったので、「女の人生は40代がプライム。いちばんやりたいことを40代でなしとげる」と考え、またもや度胸で退職。実はなんの展望もなかったが、直観だけで独立。

 

2004年、アート、都市コンサルタントの仕事をしながら、取材で沖縄の女性社長をインタビューすることになり、沖縄へ出向く。なんとなく文章を書きなれてきて、「ひょっとしてそろそろ小説書いてもいいかもな…」と漠然と考えていた時期だった。那覇で取材をしたのち、ぶらぶらとやんばるへ行き、そこで泊まった民宿のおかみさんから「伊是名という島がいいところらしいよ」と聞き、行ってみることにする。このときには、人生を変える運命がその島に待ち受けているとは思いもよらず。

伊是名島に渡り、浜辺で遊ぶ男性とラブラドール犬に出会う。もちまえの好奇心から、「何て名前のワンちゃんですか」と聞いたところが、「カフーっていうんです」と。「どう言う意味ですか?」「沖縄の言葉で、『幸せ』という意味です」・・・・・・

その瞬間、何かが、どーんと下りてきた。沖縄の離島の浜辺で、幸せという名の犬に出会ってしまった・・・・・。

帰りのレンタカーの中で、すっかり小説のプロットができあがっていた。

もし、あの犬の名前が「シーサー」だったら、小説を書くことはなかっただろう。飼い主の名嘉民雄さんの名付けセンスに感謝。

 

2005年、「カフーを待ちわびて」で日本ラブストーリー大賞受賞し、その後に小説家デビュー!

 

わが人生のキーワードは「度胸と直感」だとわかった。

 

↓より詳しくはコチラ!

http://haradamaha.com/profile/

 

事実は小説よりも奇なり!

原田マハさんのデビューまでの人生は「独立記念日」の物語よりも奇なり!かもしれません。

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

51lyc2xfp4l

2016年7月 2日 (土)

「ポーツマスの旗」(吉村昭著)を読んで その3

『日露戦争は、明治維新と太平洋戦争を結ぶ「分水嶺」』について

司馬遼太郎氏は、「このくにのかたち」の中で、

1905年から1945年を「大勢でこんなバカな40年を持った国があるだろうか。」と言っていた。

・・・・・

そこに、巨大な青みどろの不定形なモノが横たわっている。その粘着質にぬめったモノ、両眼が金色に光り、口中に牙もある。牙は、折れている。かたちは絶えず変化し、とらえようがない。

君はなにかね、ときいてみると、

驚いたことにその異胎は、声を発した。

「日本の近代だ」というのである。

ただし、そのモノがみずからを定義したのは、近代といっても、1905年(明治38年)以前のことではなく、また1945年(昭和20年)以後ということでもない。その間の40年間のことだと明晰にいうのである。つまりこの異胎は、日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの時間が、形になって、山中に捨てられているらしい。

「おれを40年とよんでくれ」と、そのモノはいった。

「君は、生きているのか」

「おれ自身は死んだと思っている。しかし見る人によっては、生きていると言うだろう」

もっとも人里へ降りて行って害をもたらすことはもうあるまいが、ともいった。

歴史もまた一個の人格として見られなくもない。日本史はその肉体も精神も、十分に美しい。ただ、途中、何かの変異がおこって、遺伝学的な連続性を失うことがあるとすれば、

「おれがそれだ」

と、その異胎はいうのである。

そのモノは気味悪く蠕動(ぜんどう)していて、うかつに踏んづければ、そのまま吸い込まれかねない感じもある。私は十分距離を置き、子どものような質問をした。

日本は、日露戦争の勝利以後、形相を一変させた。

「なぜ日本は、勝利後、にわかづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に適合した小さな海軍にもどさなかったのか」ということである。

日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるを得なかったことは、「坂の上の雲」を書いたわたしとしては、十分わかっているつもりである。ロシアのウラジオストックにおける艦隊を討ち、かつ欧露から回航されてくる大艦隊を戦うには、やむなく大海軍であることを必要とした。その応急の必要にせまられて、日本は開戦前、78年の間に、世界有数の大海軍を建設した。

ロシア海軍はこれによってほぼ壊滅し、再建には半世紀以上かかるだろうと言われた。

「戦後、多数の海軍軍人が残った」

そのモノは、ただそれだけで答えた。

日本海海戦のような近代海戦史に類の無い勝利をおさめた栄光の海軍が、みずからの両手にかかえてしまった大海軍を減らすはずが無く、むしろ組織というのは、たとえ目的が無くても細胞のように自己増殖をのみ考えるものだ、という意味のことを言っているのだろうか。

 

参謀本部は、ロシアがかならず報復のための第二次日露戦争を仕掛けてくると思っていた」

日露戦争が終わり、明治41年(1908年)、参謀本部は、関係条例が大きく改正され、内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて、参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上、統帥権は超憲法的である)を持つにいたるのだが、この時期にはまだこの思想はそこまでは成熟していない。だから、日韓合併の時期では、のちの満州事変のように、国政の中軸のあずかり知らぬうちに外国に対する侵略戦争が“参謀”たちの謀略によっておこされるという具合ではなかった。

しかし、将来の対露戦の必要から、韓国から国家であることを奪ったとすれば、そういう思想の卸元は参謀本部であったとしか言いようがない。

(中略)

要するに、日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。

調子狂いはここからはじまった。

大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。

講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。

ついに日比谷公園で開かれた全国大会は、参集する者3万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令をしかざるを得なくなったほどであった。

私は、この大会と暴動こそ、むこう40年の間の季節への出発点ではなかったかと考えている。

この大群衆の熱気が多量に・・・たとえば参謀本部に・・・蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。

一人のヒトラーも出ずに、大勢でこんなバカな40年を持った国があるだろうか。

・・・・・

自分も国民の一人として、情報を正確に捉え、好戦家にはならず、非戦論者としてありたいと思いました!

 

ありがとうございました~

 

m(_ _)m

 

41jfnb99q7l

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

フォト
2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

最近のトラックバック

ウェブページ

ライフネット生命

無料ブログはココログ

Twitter

  • twitter