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2022年1月17日 (月)

“昭和の知性”と言われた加藤周一氏(1919年~2008年)が1966年~67年(47~48歳)のときに朝日ジャーナルに連載、自らの半生を語られたエッセイをまとめた「羊の歌(わが回想)」を読んでみた!

 

中肉中背、富まず、貧ならず。言語と知識は、半ば和風に洋風をつき混ぜ、宗教は神仏のいずれも信ぜず、天下の政事については、みずから青雲の志をいだかず、道徳的価値については、相対主義をとる。

人種的偏見はほとんどない。

芸術は大いにこれをたのしむが、みずから画筆に親しみ、奏楽に興ずるに到らない。

――こういう日本人が成りたったのは、どういう条件のもとにおいてだったか。例を私自身にとって、そのことを語ろうとした。

題して「羊の歌」というのは、羊の年に生まれたからであり、またおだやかな性質の羊に通うところなくもないと思われたからである。

 

 

「しかし、ここには羊の歳に生まれ、戦争とファシズムの荒れ狂う中で、自立した精神を持ち、時制に埋没することなく生き続けた。決して平均でない力強い一個性の形成を見出すことができる」と、

本のカバーに書かれていました。

 

 

~~~立命館大学図書館より~~~

加藤周一(19192008は、戦後日本を代表する国際的知識人。知識人としての加藤の特徴は、ものごとを理解するに専門的な視点だけから見るのではなく、たえず全体的視野のもとに収めようとしたことにある。もうひとつの特徴は、科学者の合理的思考を身につけ、豊かな詩人の感性に満ちていたことである。加藤の書く文章には、論理的明晰さと詩的な美しい表現とが結びついていた。

少年時代から文学に親しむ。第一高等学校を経て東京帝国大学医学部を卒業。

1951年から55年までフランス留学。

1960年以降カナダのブリティッシュ・コロンビア大学、ベルリン自由大学、アメリカのイェール大学などで教鞭をとる。加藤自身がいうように、この十年間は「蓄積の時代」であり、日本文学史・美術史の研究を重ねた。その頃につくられた厖大な「研究ノート」は本文庫に収められる。その「蓄積」が花開くのは1970年代から80年代にかけてのことであり、『日本文学史序説』『日本 その心とかたち』を著した。

加藤の仕事は日本文化史研究だけではなかった。国内外の政治情勢や社会問題に対しても発言を続けた。「政治は嫌いである」といいつつも、加藤はたえず政治に関心を向けた。政治は黙っていれば、向うから押し寄せてきて、土足で入りこんでくるものだと考えていたからである。連載「山中人閒(間)話」24年間続けた連載「夕陽妄語」には、加藤の政治的信条がしばしば述べられたが、政治的無関心を厳しく排し、たえず権力と対峙しようとした。それにもかかわらず、加藤はいかなる権力からも遠くに位置し、多数派の意見に与することはなかった。そういう考え方をしていたからこそ、2004年に「九条の会」の呼びかけ人のひとりに名を連ねたのである。晩年の加藤は憲法九条の擁護に精力を注いだ。

忘れてならないもうひとつの加藤の特徴がある。それは「人生を愉しむ」姿勢である。文学を愉しみ、美術や音楽や演劇に親しみ、友人との交流を悦んだ。どんなときにも「人生を愉しむ」ことをないがしろにすることはなかった。

主著『日本文学史序説』『日本 その心とかたち』『羊の歌』『夕陽妄語』。

 

本書に戻り、

1936226日(226事件)加藤氏16歳のとき

第一高等学校へ入った私は、その頃、理科の学生のためにもうけられていた「社会法制」という矢内原忠雄教授の講義を聞いた。一週間に一時間の講義で、社会制度の技術的な詳細をかたることは不可能だから、矢内原先生は、議会民主主義の最後の日に、その精神を語ろうとされたのかもしれない。内閣の軍部大臣を現役の軍人にするという制度を利用することで、陸軍は責任内閣制を実質的に麻痺させることができる、と矢内原先生はいった。「なるほど陸軍大臣がなければ、内閣はできないでしょう」と学生の1人が質問した、「しかし議会が妥協をしなければ、陸軍もまた内閣をつくることができないわけですね。陸軍が内閣を流産させたら、政策の妥協をしないで、いつまででも内閣の成立しないままで頑張れないものでしょうか」。顔を机にふせて質問をじっと聞いていた矢内原先生は、そのとき急に面をあげると、しずかに、しかし断乎とした声でこういった、「そうすれば、君、陸軍は機関銃を構えて議会をとりまくでしょうね」。

教場は一瞬水を打ったようになった。私たちは、軍部独裁への道が、荒涼とした未来へも買って、まっすぐに一本通っているのを見た。そのとき私たちはいまここで日本の最後の自由主義者の遺言を聞いているのだということを、はっきりと感じた。226事件の意味はあきらかであり、同時に私にとっては精神的な勇気と高貴さとがなんであるかということも明らかであった。

 

 

「南京虐殺」のことを知ったのは、日本の軍国主義が崩れ去った1945年以後のこと。「南京虐殺」だけではなく、私はそのときまで、強制収容所や、ドウレスデンや、広島で何人の婦人・子ども・非戦闘員が殺されたのかも知らなかった。いや、最近になって、ある新聞記事を読むまでは、南ベトナムの子どもたちがどれほど殺されたのかということも、ほとんど知らなかった。「1961年から1966年まで、ナパームで爆撃された南ベトナムの村では25万人の子どもが死んだ」とその新聞の記事は報告していた、「75万人が手肢をもぎとられ、負傷し、火傷を負った。」そこに書かれていた数字は、正確ではなかったかもしれない。しかし、故意に誇張されていたのではなかったろう。たとえ殺された子どもが25万人ではなく、実は20万人であったとしても、30万人であったとしても、そのことの意味に変わりはない。それをどうすることも私にできない。とすれば、なんのために、遠い国のみたこともない子どもたちのことを、私は気にするのであろうか。

その「何のために」に、私はみずからうまい返答を見出すことができない。

「知ったところで、どうしようもないじゃないか」 たしかに、どうしようもない。

しかし「だから知りたくない」という人間と、「それでも知っていたい」という人間とがあるだろう。

前者がまちがっているという理屈はない。ただ私は私自身が後者に属するということを感じるだけである。

彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する、また少なくとも、出発することがある、ということにすぎない。25万人の子ども・・・・役に立っても、立たなくても、そのこととは係りなく、その時の私には、はるかな子どもたちの死が気にかかっていた。全く何の役にも立たないのに、私はそのことで怒り、そのことで興奮する。・・・・

 

 

私がいちばん影響を受けたのは、戦争中の日本国に天から降ってきたような渡辺一夫助教授からであったにちがいない。渡辺先生は、軍国主義的な周囲に反発して、遠いフランスに精神的な逃避の場を求めていたのではない。そうするためには、おそらくフランスの文化をあまりによく知り過ぎていたし、また日本の社会にあまりに深く係わっていた。

日本の社会の、その醜さの一切のさらけ出された中で、生きながら、同時にそのことの意味を、より大きな世界と歴史のなかで、見定めようとしていたのであり、自分自身と周囲を、内側からと同時に外側から「天狼星(シリウスの中国名。おおいぬ座で最も明るい恒星で、全天211等星の1つで、太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星である)の高みから」さえも、眺めようとしていたのであろう。

それはほとんど幕末の先覚者たちに似ていた。攘夷の不可能を見抜き、鎖国の時代錯誤を熟知し、わが国の「後れ」を単に技術の面だけではなく、伝統的な教育とものの考え方そのものに認めて、その淵言を日本国の歴史のなかにもとめ・・・・・もしその抜くべからざる精神が、私たちの側にあって、絶えず「狂気」を「狂気」とよび、「時代錯誤」を「時代錯誤」と呼び続けるということが無かったら、果たして私が長い戦の間を通して、とにかく正気を保ち続けることができたかどうか、大いに疑わしい。

日本国の状況を外から眺めようとしても、私は実際に国の外に出たことがなかったし、外の世界についても知識にも乏しかった。

この「狂気」は“遠い異国の過去”であったばかりでなく、また日本と日本をとりまく世界の現代でもあった。資料の周到な操作を通して過去の事実に迫ろうとすればするほど、過去のなかに現在があらわれ、また同時に、現在のなかに過去が見えてくるということを、渡辺先生は身をもって、私たちに示していた。

 

このおそろしく聡明で敏感な学者は、幕末の志士に似たその面影を、常に味深い皮肉と逆説の影にかくし、露骨な表現は、文明ではない、と言っているように見えた。ラシーヌの舞台では、主人公の死が報じられるが、血の流されることはない。

 

“遠い異国の過去”とは、16世紀の宗教戦争の時代であり、異端裁判の時代であり、観念体系への傾倒が「狂気」に近づいた時代であって、従ってまた何人かのユマニスト(人文主義者とは、ルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと。特に、15世紀-16世紀に活動したフランス人の影響が大きいため、日本ではフランス語のまま「ユマニスト」と表現されたりもする)たちが「寛容」を説いてやまなかった時代でもあった。

※渡辺一夫 「狂気について」岩波文庫 暴力に対する嫌悪、人間の機械化に対する嫌悪,そして人間に対する愛を心に抱いて生きること――ユマニスムを生涯の思想とした著者(一九〇一―七五)の静かな祈願のことばは,読む者の胸に深い感動を呼び覚ます.真の知性の眼をもって人間性の根源を洞察するエッセイ・評論二十三篇を収録.(解題 清水 徹/解説 大江健三郎)

 

 

ありがとうございました!!

m(_ _)m

 

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