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2022年3月22日 (火)

“昭和の知性”と言われた加藤周一氏(1919年~2008年)が1966年~67年(47~48歳)のときに朝日ジャーナルに連載、自らの半生を語られたエッセイをまとめた続編「続 羊の歌(わが回想)」を読了~!とても母親思いの加藤氏を発見!!

 

1949年、加藤氏30歳のとき。

母は、心臓を病み、時折、自律神経失調の複雑な症状を呈していた。そういうことが続いたあとで、母は胃癌を患った。本郷の大学病院で手術をし、手術は、心臓の障害にも拘わらず、上手くいった。

しかし、そのときに転移の有無を知ることはできなかった。転移が無ければ、母はまだ若かったから、どれほど長く生きたか分からない、転移があれば、数カ月の寿命で、助ける方法は無かった。

そのとき私は、父と相談して、本人には、手術の結果が癌でなかったと説明することにした。それは医者の常識にすぎない。しかし退院して目黒区の借家に帰り、思ったより元気に、手術後を養っている母の顔を見ると、私には病気の話をするのが苦痛であった。「胃潰瘍のあとがあって、そこから胃癌になることもあるから、念のため切り取ったのですよ」と私は言った。

「それならまもなくよくなるだろうね」「もちろん、よくなるさ」といいながらも、私は転移の可能性を考えていた。つかの間の生命、であるかもしれないということを、私だけが知っていた。

 

母の病状は、手術から充分に快復しきらぬうちに、悪化しはじめた。

もはや希望的な観測をする余地はなかった。転移があり、その症状が現れてきたので、病人を救う道はない。

「だんだん苦しくなる」といわれると、私には返す言葉がなかった。

母の苦痛をいくらかでも和らげるために、また少しでも長くその生命をひきのばしておくために、そもそもその二つの目的を調和させるという不可能な仕事に、私は精魂を使い果たした。

見るに忍びない苦痛を見ることで、私の考えは乱れ、父と相談して辛うじて当座の処置を決めると、もはやほかの何を考えることもできなかった。

そういう数週間が続き、苦しみの果てに母が死んだとき、私は自分の内側が空虚になったように感じた。よろこびも悲しみも感ぜず、ただ全身に拡がる疲れだけを感じ、しばらくの間、放心していた。

葬式をほとんど覚えていないのは、周囲におこる何事にも関心を失っていたからだろう。まもなく本郷の病院へ通って仕事を続けていたにちがいないが、その記憶も、はっきりしない。

はっきりした記憶は、夜ひとりになると、その顔や、その言葉が、秩序なく蘇り、そのすべてを失ったということ、そのすべてがかえらぬということが、実に堪え難く感じられたということだけである。

私の世界からは、無限の愛情の中心が消えてなくなり、世界はもはや私にとってどうなってもよいものにすぎなくなった。

(中略)

しかし、時が経つにつれて、私は母の死をも落ち着いて考えることができるようになった。

そのときはじめて烈しい後悔がやって来た。これをしておけばよかった、あれをしてやればよかった、という考えは尽きず、その一部は、とうてい不可能であったとしても、少なくとも他の一部は、私にその気さえあればできたはずだと繰り返し思った。私は自分自身を憎み、且つ軽蔑した。

しかし、それだけではなかった。私はまた同時に、私自身の生涯を、母の死を境として、その前後に別けて考えるようになったのである。

母を失ってしばらく経って後、私は無条件の信頼と愛情のあり得た世界から、そういうものの二度とあり得ないだろうもう一つの世界へ自分が移ったことをはっきりと感じた。

信頼はあらためてつくりだし、愛情はあらためて探しもとめなければならない。

 

母の臨終には神父が立ち会って、しかるべき手続きをふんだ。

母はキリスト教信者であった。

「おまえたち(加藤氏と加藤氏の妹)が二人とも信者になってくれればいいのに」と母は冗談めかしていうことがあった、「死んでもまた天国で会えるからね」

「だって、天国に行けるかどうかわからない・・・」と妹は言った。

「いいえ、心のよい人は、きっと天国へ行けると思うよ」と母は言っていた。

そこから、信仰があっても、なくても、心のよい人、行いの正しい人が、天国へ行けるだろうという考えまでは、遠くなかったろう。

事実、妹も私もカトリック信者にならないことがはっきりして後、母はそういう考えに傾いていたように思われる。子どもたちの善意をかたく信じていたので。

私自身はそうする(信仰する)なんらの必要も認めず、不幸にして母と同じ信仰をもつことができない、と考えていた。

母が死んで何年も経った後にも、私はしばしば、自分の死を考えるときに、何の理由もないのに癌で死ぬのだろうと思い、そればかりではなく、もし天国というものがあるとすれば、母はそこにいるにちがいなく、もう一度そこで母に会えるかもしれないと考えることさえあった。

 

ここで、時代は2008年まで飛ぶと・・・

 

加藤周一(19192008)さんは、亡くなる約5か月前にカトリックの洗礼を受けた。

加藤さんは20085月に体調を崩したため検査を受け、進行性胃がんと診断される。819日に自宅にて東京都世田谷区のカルメル修道会上野毛カトリック教会(加藤さんの自宅から歩いて5分の所にある)の大瀬高司神父からカトリックの洗礼を受けた。

洗礼名はルカ。新約聖書の「ルカの福音書」を書いたルカも加藤さんと同じ医者であった。

12月5日午後2時5分に多臓器不全のため東京都世田谷区の有隣病院で亡くなった。

89歳だった。

12月7日に上野毛カトリック教会で近親者のみの通夜が行われた。棺には3冊の書が納められた。フランス語版「聖書」、ドイツ語版カント「実践理性批判」、岩波文庫「論語」である。「これだけあれば退屈しないと思って」と妻の矢島翠さんはつぶやいたという。

 

間違いなく、加藤氏はお母様と天国で再会できたと思っている!

 

ありがとうございました!!

m(_ _)m

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