« 2023年5月 | トップページ | 2023年7月 »

2023年6月

2023年6月28日 (水)

日本映画で初めてカンヌ映画祭「クィア・パルム賞」を受賞した『怪物』を鑑賞~~~! 「クィア・パルム賞」はカンヌ国際映画祭の独立賞の一つで、LGBTやクィア(既存の性のカテゴリに当てはまらない人々の総称)を扱った映画に与えられる賞になります。m(_ _)m

オムニバス形式で、お母さん(早織、安藤サクラ)の視点、先生(保利先生、永山瑛太)の視点、生徒(子ども)(湊:早織の一人息子、星川依里:父親に虐待を受けている)の視点で、

『人は見たいものしか見ない』(ユリウス・カエサル)のか・・・

子ども同士の湊と依里との“同性愛”について、本人たちも、まだ小学校5年生のため、当惑し、葛藤があるために、傍からは、湊が依里をいじめているようにも見えてしまいます。

 

お母さん(早織)は、そんなはずはない。いじめているのではなく、逆に、先生にいじめられていると見る

先生は、湊が依里をいじめていると見てしまう

そして、当人同士はどう思っていたのか、同性愛に関する無知からの当惑、葛藤があるものの、結局惹かれ合っていった。

 

日本映画で初めてカンヌ映画祭「クィア・パルム賞」を受賞した作品でした。

「クィア・パルム賞」はカンヌ国際映画祭の独立賞の一つで、LGBTやクィア(既存の性のカテゴリに当てはまらない人々の総称)を扱った映画に与えられる賞で、2010年に創設され、第63回カンヌ国際映画祭から授与が始まっています。

 

誰もが怪物であったのかもしれません。

『人は見たいものしか見ない』(ユリウス・カエサル)から、人の心に「怪物」を生み出してしまうのは、依里の父親のような不寛容、湊を溺愛するあまりに周りが見えなくなって感情的になる、いじめを見逃す無関心、人と“違う”ということへの偏見、無知、当惑、葛藤などが原因ではないでしょうか。

「嘘」を発端として、誰もが「怪物」になりえるのです。

 

ちょっと複雑な物語ではありました~!!!

m(_ _)m

Images_20230628211701

2023年6月17日 (土)

「人間の限界」 霜山徳爾著を読んで。霜山氏はヴィクトール・フランクル『夜と霧』(みすず書房、1956年)の翻訳をされた方として、存じ上げておりましたが、霜山氏ご本人、55歳のときの著書を初体験!滅茶苦茶難しかった~・・・

 

著者、霜山徳爾(しもやま とくじ、191975 -2009107日、享年90歳)は日本の臨床心理学者。

 

東京生まれ。東京大学文学部心理学科卒。ボン大学留学 (Ph.D.を取得)。上智大学文学部名誉教授。ヴィクトール・フランクルの名著『夜と霧』(みすず書房、1956年)『死と愛』(みすず書房、1957年)の訳者として著名であり、自身もフランクルの友人であった。キリスト教信者。

 

1919年 75日 出生

1942年 東京帝国大学文学部心理学科卒

1950年 上智大学文学部助教授、成蹊大学講師

1951年 聖心女子大学講師を兼任

1953年~1955年 ボン大学に留学

1957年 上智大学文学部教授

1969年 東京藝術大学大学院客員教授

1980年 日本女子大学大学院、東京医科歯科大学講師を兼任

1983年 東京藝術大学大学院客員教授

1989年 東洋英和女学院大学教授を兼任

1990年 上智大学名誉教授

2009年 107日 ご逝去(享年90歳)

 

霜山氏55の時に書かれた「人間の限界」59歳の自分が読ませていただきましたが、よく分かりませんでした・・・(大大汗)

 

人間の限界を諦念(道理を悟って迷わない心。また、悟って、諦める心)をもって受け止めているという人がいる。

しかし、たいていは立派な偽善(本心からではない,うわべだけの善行)である。

執着(強く心がひかれ、それに囚われること)とルサンチマン(弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情。ニーチェのキリスト教批判における中心概念で、「恨み」や「妬み」を意味する。『道徳の系譜』(1887)において、ニーチェは、キリスト教の起源をユダヤ人のローマ人に対するルサンチマンに求め、キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたゆがんだ価値評価にあるとした)のかたまりこそ「人間の真実」であり、限界の意識に常にからまっている。

 

「浮遊を天地に寄す。渺(びょう)たる滄海(そうかい)の一粟のみ」

広い世界のうちで、人間はかげろうのようなはかない命であり、大海にただよう一粒の粟の実のようなものだ、という意味である。少しでも人生の辛酸をなめたものには素直な実感となるであろう。

 

しかし、またわれわれは、

一日の生活(いのち)を

まことに生きる者の上に

光あれ

 

という詩人の言葉にも感動する。だがそのような人は稀であろう。

われわれの多くが過ごすのは、歯切れの悪い、生ぬるい毎日の人生である。

 

「ここにおいて、愚が中の極愚、狂(おう)が中の極狂、塵禿(じんとく)の有情、低下(ていげ)の最澄」

伝教大師最澄の出立する場所であった。彼はそこから「限りないもの」を求めていった。

その「限りないもの」人間の限界という問題を考える時、いつでも胸に浮かぶのは、ミケランジェロの未完の彫刻、ロンダニーニのピエタ像である。92歳の垂死(すいし、今にも死にそうな状態。瀕死)の孤老が最後までとりくんで、途中で彼の手から鑿(のみ)が落ちた、この未だおぼろげな彫刻は「今を限りの」作品でありながらあらゆる彼の他のピエタ、他の名作よりも、「限りないもの」への深い感動を与えずにはいない。それは何故だろうか。恐らく答えが損しないこのような問で、われわれは「人間」を見つめてみよう。

ここまでが序章でした。そして、


「人は夢まぼろしのやうなる世に誰か止まりて悪しきことを見、よきをも見思うべき」
(堤中納言物語)

Google先生でも、ピッタリとくる訳がみつかりませんでしたので、私訳となりますが、

人は夢のようなこの世界に、誰も永遠にとどまることはできませんが、そのような世界で間違ったこと、正しかったことを見て思うことが大切であると・・・やっぱり難解・・・

※堤中納言物語:日本の平安時代後期以降に成立した短編物語集。編者は不詳

 

また、現代の人間は、肩をそびやかした「勇姿」は強調され、行動は「予測」され、「進歩」は礼讃されても、人間存在の限界への謙虚な反省はなされなくなった。

 

「しらゆきの 日ごとにふれば わがやどは ゆききのひとの あとさへぞなき」(良寛)

毎日雪が降れば、行き来のひとたちの跡はなく、何ごともなかったようだ、というように思いますが、

何ごともなかったように“生きる”、これは「戦争」などと言うことがあるよりは、何ごともないことが望ましいということのように思いました。

 

人間には、最後には「死」という“限界”はあるものの、間違ったこと、正しかったことを見聞きし、自らも経験をしながら、そして“謙虚”に生きることが大切なのではないか?と問うているように思いました。

 

ありがとうございました~! m(_ _)m

31lz0otgzl_sx307_bo1204203200_

« 2023年5月 | トップページ | 2023年7月 »

フォト

最近の記事

2024年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

最近のコメント

最近のトラックバック

ウェブページ

無料ブログはココログ

Twitter

  • twitter

このブログ内で検索