1955年、当時は55歳定年で、キッパリと三菱製紙高砂工場での会社員人生を離れて、第二の人生、俳人人生を謳歌された。
永田耕衣氏(1900/2/21~1997/8/25、享年97歳)について書かれた本でした
1900 2月21日、兵庫県加古郡尾上村(現:加古川市)に父岩崎林蔵、母りゅうの二男として生まれる。よって、西暦の下2桁が永田耕衣氏の年齢でもありますネ!
1906 尾上村立尾上尋常高等小学校尋常科に入学
1912 尾上尋常小学校高等科入学。国語作文を好んだ
1914 尾上尋常高等小学校高等科卒業。兵庫県立工業学校(現:工業高等学校機械科)入学。俳句に関心を持ち始める
1917 兵庫県立工業高校卒業。三菱製紙所(現:三菱製紙高砂工場)入社
1919 右手を抄紙機(しょうしき、紙を抄(す)くための機械。製紙工場において紙を連続的に抄く機械である)にはさまれ、手甲が組織壊滅、そのため指3本の機能を失った。大変な事故であったが、戦争へ行かずに済んだ
1920 赤坂ユキヱと結婚。毎日新聞兵庫県付録の俳句欄(岩木躑躅選)に投句を始める。
1922 長男正誕生。岩木躑躅を訪問するようになる。
1928 武者小路実篤に傾倒。「新しき村」に入村を志すが、村外会員となる。「新しき村」に小説、自由詩等を発表
1929 原石鼎の「鹿火屋」に投句を始める
1934 第一句集『加古』刊行
1937 文化趣味の会「白泥会」を結成。棟方志功、河井寛次郎、柳宗悦、濱田庄司ら の芸術談を聞く会であった。特に棟方志功とは個人的にも芸術談を交わすほどの間柄となった
1940 石田波郷の「鶴」に投句を始める。(のち同人となる)
1947 西東三鬼(1900/5~1962/4 俳人、歯科医、享年61歳)を神戸山手の三鬼館に訪問。石田波郷の推薦で「現代俳句協会」設立当初の会員となる。6月、「近畿俳話会」誕生。席上で伊丹三樹彦、赤尾兜子らを知る。
1948 西東三鬼の推挙で「天浪」同人となる。山口誓子に傾倒する。
1949 1月、社内で耕衣中心の俳誌「琴座(りらざ)」が生まれる。
1950 1月、母りう逝去、享年91歳。「母の死や枝の先まで梅の花」
1952 三菱製紙高砂工場製造部長に任命される。のち、研究部長を兼務し、多忙な生活であった。
1953 「天浪」脱退。「鶴」に戻る。以降、西東三鬼から怒りを浴びることになる。
1955 三菱製紙高砂工場を定年退職。神戸市に転居。近所には赤尾兜子(あかおとうし 俳人、毎日新聞社記者、男性1925/2~1981/3 享年56歳)がいた。そこで、耕衣は毎日新聞神戸版の俳句選者となる。
1956 近所に住む赤尾兜子が足繁く訪問。俳句談義を交わした。
当時神戸在住の金子兜太(かねことうた 俳人 1919/9~2018/2 享年98歳)を知る。
1959 高柳重信(1923/1~1983/7 享年60歳、肝硬変による静脈瘤破裂、お酒好きであったのかも!?)赤尾兜子らと同人に加わる。
1964 神戸新聞会館文化センターで初の書作展開催。句集『悪霊』で半どんの会文化賞受賞!
1971 実兄の清市が逝去。享年87歳
1974 神戸市文化賞受賞。
1976 金子晋(すすむ)という、新しい仲間が加わった。耕衣よりも32歳年少。小柄で筋肉質。好奇心旺盛で身の動きも、頭の回転も速い。中学の国語の教師であり、教師の傍ら俳句を作った
1977 兵庫県文化賞受賞。
1981 赤尾兜子が急逝。大きなショックを受ける。享年56歳、阪急電車への飛び込み自殺と言われています。一方、神戸新聞平和賞受賞!
1983 「俳句評論」が高柳重信の死により廃刊。
1985 「永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集」が朝日文庫より刊行
1986 「永田耕衣」が春陽堂俳句文庫より刊行
ここ5年ほどの間に句集三冊、文集「濁」(沖積舎)より刊行
1989 高砂文化賞受賞!
1990 第二回現代俳句協会大賞受賞
1991 句集『泥ん』で詩歌文学館賞受賞
1995 阪神淡路大震災で被災。家は崩壊。耕衣自身にケガは無かったが、階下に住んでいた息子夫婦は大ケガすることとなった。耕衣自身は、大阪府寝屋川の特別養護老人ホームへ移る。
1996 朝食に向かおうとしてころび、左上腕骨を折る、19歳のときから、文字通り腕一本で働き続けてきたその左腕までが、こうして休養を強いられることになり、口述に頼らねばならなくなった。
1997 自らの意志で「琴座」を終刊し、「琴座俳句会」を解散する
この年、本書の著者城山氏は、永田耕衣と直接会うこととなる(246頁)
耕衣には、後輩の金子晋が付き添っていた
「空海には妙味があった。自己解放的なところが・・・。人生の裏に一つのユーモアを感じて。道元もユーモア的人間になりたいというところがあったろうけど、あまりに自分に厳しすぎて・・・。哲学好きだけど、そこにとどまっていた。茶化すところが無かった。もうちょっと遊んで欲しかった」
「枯草は清潔や。汚れが無い」と話を聞いた。
そして、8月25日、肺炎のため死去。清潔な枯草のように、97歳6ヶ月にわたる生涯を終えた。
逝去地 大阪府寝屋川市
兵庫県加古川市尾上町今福・泉福寺に埋葬される。
戒名は生前に自ら付けた「田荷軒夢葱耕衣居士」であった。
「茄子や皆事の終わるは寂しけれ」
「放せ俺は昔の夕日だというて沈む」
からだ(健康)について
61歳の時、心臓障害で倒れたが、大事には至らなかった、
この三年後、今度は奇病とされた泉熱(いずみねつ、山の湧水や井戸水などの人間の手によって消毒処理がなされていない生水を飲むことによって感染するもので、原因となるものは偽結核性エルシニア菌です。突然の発熱、発疹、腹痛、嘔吐、下痢の症状が現れて、発熱は短期間に二度起こり、およそ1週間程度継続します。治療は抗菌薬の投与となりますが、腎不全を併発した時には人工透析も行われます。)にかかる。
血圧は150-100を保っており、まずまずの健康と言える。
「人生を弾ませ、長生きを導くものこそ好奇心である。筋のいい好奇心を想像してゆきたい」
好きな言葉は
「清忙成養 過閑非養」(『言志耋録』322条のことば、せいぼうせいよう、かかんひよう、清忙は養を成す。過閑は養に非ず。心に清々しく感じる忙しさは養生になる 過閑非養。過閑は養に非(あら)ず。 余りにひま過ぎるのは養生にならない。
72歳の時、右首が痛くなり、筋肉弛緩剤、自律神経安定剤などを服用するようになる
75歳の時、腎臓結石、二日後に放出で収まる
78歳の時、血圧不安定のため、不快感が続く
82歳の時、左コメカミに黒色ほくろが肥大。凍結法で除去
83歳の時、左胸部に二条の白雲状の棚引きが観られたが、問題は無かった
84歳の時、三つちがいの妻ユキエが股関節老化による疼痛に悩まされる。二年後に死去(享年83歳)
耕衣自身は、平均よりやや良いといった健康状態で推移していた
91歳の時、「わたし死ぬような気がしないの」との宇野千代の言葉に発奮したかのように、「125歳まで生きる」と宣言
しかし、ときどき眩暈に襲われたことがあり、歩道の上でごくゆっくりと倒れた。左大腿骨骨折、そのまま入院となり、金属製支柱を埋め込む手術となった。三カ月のう入院生活となったが、ほぼ以前と変わらぬ生活を送れるように回復した(217頁)
96歳の時、朝食に向かおうとしてころび、左上腕骨を折る。19歳のときから、文字通り腕一本で働き続けてきたその左腕までが、休養を強いられることになり、口述に頼らねばならなくなった。
このころより、耕衣のエネルギーも確実に失われていき、腕が回復し、なんとか筆を持つことができるようになってからも、まとまった文章を書くのが、苦痛になった。(237頁)
97歳になり、少しずつ食欲が落ちてゆき、8月25日、耕衣は清潔な枯草のように、97年6ヶ月にわたる生涯を終えた。
永田耕衣のハートについて
「実務に集中」あってこそ「佳句」が得られるというわけで、実務は適当に手抜きし、俳句に全力を、などという生き方を批判する。会社にも作句にも全力投球しろ。それが結局、佳句を生むことになる。
耕衣自身もその自覚を持って生きてきた。(120頁)
「毎日が日曜日」の耕衣にとって、楽しくない時間や不本意に過ごす時間は無かった(156頁)
「出会いは絶景」
60歳の時、健康上、そして経済的な理由により、誓ったこと(161頁)
『理髪 二カ月で一回に
映画館行き やめる
夜の会合 出ない
ビール 毎日小瓶一本』
「道元を改めて学ぶべし」
「“正法眼蔵”と民俗学に力を入れて勉強せん」
「年をとると、生きている喜びが深くなる。私にあっては、旅をすることでもなく、世間に存在を媚びることでもない。古人今人の秀れた文章を毛穴から読みとることである」(192頁)
多くの子どもと同様に、耕衣も母寄りの子に育ち、父親よりも母親に、よいイメージを持った
最後に松岡正剛氏の千夜千冊より
37歳のころ、「白泥会」をつくった。柳宗悦に共感したためで(これは実篤への共感よりずっといい)、工楽長三郎という素封家が世話人になって、『陶器事典』全六冊で知られる岡田宗叡が目利きとなったもので、ここに棟方志功や河井寛次郎も呼べた。このあたりから耕衣は飛びはじめる。戦時中に石田波郷の「鶴」の同人となり、西東三鬼と交わり、やがて「琴座」を主宰した。
耕衣は老いてからだんだん凄まじい。そういう老人力というものは昔から数多いけれど、ぼくが接した範囲でも老人になって何でもないようなのはもともと何でもなかったわけで、たとえば野尻抱影、湯川秀樹、白川静、白井晟一、大岡昇平、野間宏‥‥みんな凄かった。なんというのか、みんな深々とした妖気のようなものが放たれてくる。正統の妖気である。
実際にも、耕衣は老いるにつれて「平気」ということをしきりに言うようになっている。それとともに以前から好きだったらしい盤珪の不生禅(☆)の底力のようなものが加わってきて、なんだか事態を見据えてしまったのだ。いや、精神は事態を見据えて、そのぶん俳諧が静謐な「バサラ」(☆)になっている。
☆盤珪永琢(ばんけいようたく)
「不生禅(ふしょうぜん)」という教えを唱え、多くの人に仏法を説いた禅僧であり、逸話も多い。
盤珪禅師は、自身の永年にわたる生死をかけた厳しい禅修行を「無駄骨を折った」とあっさりと否定し、そんなものは一切不要であると言い切られるのです。ありのままの自分でいい。なぜなら、「仏心」は生まれながらに私たちに具わっているもので、けっして生まれるものでも、死んでなくなるものでもない。このことに私たちが気付きさえすれば、心安らかに人生を歩んでいけると背中を押してくださるのです。
無理をすることは必要ではない。ありのままでいい。できることなら皆には、厳しく辛い修行をすることなく気付いて欲しい。誰もが幸せに生きて欲しい。ここに私は、宗教家・盤珪禅師の深甚たる慈悲の心とも言うべき「願い」を感じずにはいられないのです。
腹の立ち方に3種あり
仏教には、腹を立てるということに関して人には3つのタイプがあるとする考え方がある。
そのタイプとは、次の3つである。
岩に刻んだ文字のような人
砂に書いた文字のような人
水に書いた文字のような人
岩に刻んだ文字のような人とは、腹を立てたその怒りがまるで岩に刻まれた文字のようにいつまで経っても消えることがなく、延々とくすぶり続けている人。
砂に書いた文字のような人とは、腹を立てたその怒りがある程度頭に記憶されるが、時間の経過とともに薄れていき、あたかも風に吹かれて消えていく砂の文字のように、やがて怒りが消滅する人。
水に書いた文字のような人とは、腹を立てたその怒りにこだわりを持たない人。
人から馬鹿にされても、「何を言っているんだか」と呆れることのできる人。
怒りの本質は、自分を可愛がる気持ちにあることを知っている人。
私がこの考え方を面白いと思ったのは、この3タイプはいずれも腹を立てた後の「怒り」の変化を表しているのであって、誰もが腹を立てるということに関しては一緒なのだということだ。
腹を立てない人はいない。
よく、修行をすれば腹を立てることもないというような、聖人のようなイメージを持たれることがあるが、そうではない。
腹は立つ。
ただ、立った腹がどう変化するかは、人によって違いがある。
水に書いた文字のような人であれとは、怒りという気持ちと無縁な人間になれと言っているのではない。
そんなありもしない理想を言っているのではなく、心のコントロールに責任を持てと言っているのである。
自分の心に責任を持つことが、精神における子どもと大人の違いにほかならないからだ。
☆ばさら
日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。「婆娑羅」など幾つかの漢字表記がある。
身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識であり、室町時代初期(南北朝時代)に流行し、後の戦国時代における下克上の風潮の萌芽ともなった。ただし戦国時代の頃になると、史料には「うつけ」や「カブキ」は出てくるが、「婆娑羅」およびそれに類する表現は全くと言っていいほどなくなった。
ありがとうございました~!!!
m(_ _)m
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