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2024年3月

2024年3月31日 (日)

アカデミー賞13部門でノミネートされて、7部門(作品賞、主演男優賞、助演男優賞、監督賞、撮影賞、編集賞、作曲賞)で受賞した「オッペンハイマー」観てきました~!!

マンハッタンプロジェクトとは

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。1942に立ち上げ、1946年まで続いた。プロジェクトは成功し、原子爆弾が製造され、1945716日世界で初めて原爆実験(The Trinity Test/トリニティの名の由来について、「オッペンハイマーは、よくわからないと言っていました。でも、当時読んでいたジョン・ダンの詩のなかのある1節が記憶に残っていたそうです。『私の心を打ち砕いてください、三位一体の神よ』。そこから、トリニティ(三位一体の意)という名を思い付いたとか」そして、原爆自体を“ガジェット”gadget:一般には道具、装置、仕掛けの意味)とした)を実施した。さらに、広島に同年86“リトルボーイ”、長崎に89“ファットマン”を投下、合計数十万人が犠牲になり、戦後の核兵器開発・核実験競争の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。

科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。

プロジェクトの最高責任者はレズリー・グローヴス1896817 - 1970713日、享年73歳)

 

プロジェクト期間において、

オッペンハイマー(キリアン・マーフィー演)は38歳~42

レズリー・グローヴス(マット・デイモン演)は46歳~50

ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr演)は46歳~50

アインシュタイン(トム・コンティ演)は63歳~67

 

J・ロバート・オッペンハイマー(1904422 - 1967218日。享年62歳)は、アメリカ合衆国の理論物理学者

彼は理論物理学の広範な領域で大きな業績を上げました。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」(Father of the Atomic Bombとして知られています。

戦後、原爆の破壊力や人道的影響、論理的問題に関心をもち、核兵器は人類にとって巨大な脅威であり、人類の自滅をもたらすと考えたため、核軍縮を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。

水素爆弾など、より強力な核兵器開発に反対するようになったため、「水爆の父」(the fathers of the hydrogen bomb)ことエドワード・テラー(ベニー・サフディ演)と対立した。

1954年、オッペンハイマーは、国家反逆罪を問われます。

オッペンハイマーは、米国の核開発の機密情報を、ロシアに流出していたのではないかと尋問されます。

というのも、オッペンハイマーの弟が共産党員で、妻も元共産党員で、元恋人も共産党員で、子守りを頼んだ親友も共産党員だったからです。

特に、この親友は実際にロシアの工作員で1950年にFBIに捜査されてフランスに事実上追放されました。これをシェバリエ事件と言います。

アメリカの水爆開発に反対したことなどから公職追放されました。

1954年当時のアメリカはロシアとの核開発競争の真っ只中で《アカ狩り》が盛んでした。共産党と深いつながりのあるオッペンハイマーはピンチを迎えます!しかし、

1961年、オッペンハイマー57歳、ケネディー44歳のとき

ジョン・F・ケネディが大統領に就任。マクジョージ・バンディ、ディーン・ラスクをはじめとするオッペンハイマー支持者たちがケネディの側近となり、オッペンハイマーの公的名誉を回復させようとする動きが出始める。

1963年、「エンリコ・フェルミ賞」受賞。アメリカ政府はこの賞の授与により、反共ヒステリック状態でなされた1954年の処分の非を認め、彼の名誉回復を図ったとされている

 

キリアン・マーフィーは、オッペンハイマーをどう演じるか考えていたとき、ノーラン監督に「オッペンハイマーは雨粒の間をすり抜けるように自分の道徳意識と折り合いをつけている(Oppenheimer is dancing between the raindrops as to where he stands, morally)と言われて納得したと話していた。

オッペンハイマーはただの善人でもなければ悪人でもなく、原爆開発を後悔したわけでもしなかったわけでもない。良いことをしようと思ったけれども恐ろしい帰結を招いてしまった。恐ろしい帰結を招いてしまったけど良いことをしようとしていた。そういうオッペンハイマーの多面性や矛盾を鋭く突いてる言葉だと思う。

 

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(1917529 - 19631122日、享年46歳)は、アメリカ合衆国の政治家。同国第35代大統領(在任: 1961120 - 19631122日)。名前のイニシャルをとってJFKないし通称であるジャック(Jack)と呼ばれることも多い。在任中の19631122日にテキサス州ダラスで暗殺された

 

ルイス・ストローズ(1896年~19741月、享年77歳)

米国の核政策に多大な影響力を持ったオッペンハイマーの宿敵ルイス・ストローズ氏との確執も描かれる。

熱核兵器の即時開発と「密閉された安全保障」を唱えるストローズ氏に対して、オッペンハイマー氏は水爆の開発に異を唱え、国際的な軍備管理を提唱していた。

ストローズ氏は1953年にアイゼンハワー大統領によってAECの委員長に任命されるが、原子力に関する大統領の特別顧問ともなり、絶大な権力を握る。原子力の取り組みの全てはストローズ氏の承認が必要とされ、膨大な最高機密情報を抱えていたという。

かつて共産主義者と関係のあったオッペンハイマー氏は、1954年に行われたAECの審問の末、最高機密情報にアクセスする資格を奪われ、政府の仕事から追放されることになる。科学者の間では、水爆に反対したオッペンハイマー氏に対するストローズ氏の個人的な復讐と考えられていたという。映画では、ストローズ氏が策謀をめぐらす場面に時間が割かれている。

史実となります裁判の結果は、ストローズは《政治的に狡猾で汚い人物》と判断されて、米国商務長官の審査を落ちました。

「ストローズがオッペンハイマー博士やその他自分の公的立場に反対する人々に対し、個人的な恨みをもって復讐してきたからです」

1959年のストローズに対する公聴会で、ストローズは商務長官として承認されるべきでないと話す科学者デイヴィッド・ヒル(ラミ・マレック演、物理学者フェルミの助手)が、その理由を聞かれてこう答えた。

ヒルは原爆投下に反対していた一人で、ストローズはヒルがオッペンハイマーに恨みを持っている(だからストローズに有利な証言をする)と思っていたけれども、実際にはストローズに不利な証言をした。オッペンハイマーがほかの科学者の支持を得ていたことが示唆される。

映画の中ではこの証言が致命的となってストローズの承認が拒否されることになった。この証言は、実際の公聴会でデイヴィット・ヒルが本当に言ったことらしい。

ちなみに、この審査結果の影響も含めてアメリカはオッペンハイマー追放を過ちだったと認めて、1963年に高名な物理学の賞を授与して名誉回復を図りました。

 

アルベルト・アインシュタイン1879314 - 1955418日。享年76歳)は、ドイツ生まれの理論物理学者、ユダヤ人。スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

それまでの物理学の認識を根本から変え、20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。

アインシュタイン氏でさえも、マンハッタン プロジェクト開始に際して、原爆の製造、利用を承認されています。

アインシュタイン氏は、マンハッタンプロジェクト自体に参加されていません。これは本人の意向もあるようですが、政治的な動きもあったようです。

アインシュタイン氏は語られています。「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合だったからです」と。

元より“反戦主義者”ですので、ドイツ ナチスによるユダヤ人迫害(アインシュタインもユダヤ人になります)と原子爆弾開発の情報を知らなければ、決してプロジェクトの承認をすることはなかったはずです。

戦後は、広島、長崎の惨状を見てとても後悔をされ、その後は、核兵器廃絶運動と戦争廃絶のための世界政府樹立のための活動に半生を捧げることになります。

アインシュタイン氏は平和運動に力をつくしますが、その活動に最も影響を与えたのは、同時代に活躍していた『非暴力(不服従)』の英雄、マハトマ・ガンジー氏といわれています。

2005年に公開された手紙で、アインシュタインは日本人の友人に対し、「わたしは日本に対する原爆の使用を常に非難してきたが、わたしはあの運命の決断を阻止するために何もできなかった」と書いている。

また、1952年には日本の雑誌に「こうした実験が成功すれば、全人類にとって恐ろしい危険となることを十分認識していた」と書いた。

「他の解決法が思いつかなかった」と、アインシュタインは書いている。

 

オッペンハイマー、女性関係は乱脈であったようで、ちょっと!?エッチな場面もあるために、R1515歳未満の方は保護者同伴でも鑑賞できません)でした(笑)

また、内容もちょっと!?難しかったです~汗

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

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2024年3月24日 (日)

「どうする財源」と言う本の中で『高橋是清は「信用貨幣論」を概ね理解しており、通貨というものが需要によって創造されるということも理解をしていた』というので、高橋是清をもっと知るべく「野生のひとびと」(城山三郎著)を読んでみた!

本書は、幕末から昭和初期にかけて、“野生”の如く行動し日本を牽引した人物について描かれていた。

それは、

大倉喜八郎(1837天保81023日~1928422日、享年90歳)、武器商人の実業家、財閥

安田善次郎(1838天保91125日~1921928日、享年82歳)、実業家、財閥

渋沢栄一(1840天保11316日~19311111日、享年91歳)、実業家

浅野総一郎(1848嘉永元年413日~1930119日、享年82歳)、セメント王の実業家、財閥。

浅野は、朝は誰も目覚めぬ暗いうちに起きて、東京まで商売に行き、誰もが寝静まった夜更けに汗まみれになって帰ってくる。一日4時間以上寝ると、人間は馬鹿になる。20時間は労働すべきだと考えていた。

また、浅野は、徳川時代の高僧の天海(125歳まで生きたと言われている)の信奉者で、「正直」「日湯」「粗食」「だらり」という天海の長寿の4秘訣を、いつも心がけていた。

「日湯」は毎日湯に入ることだが、浅野、そして渋沢も朝風呂を習慣としていた。

「だらり」とは浅野流に「物事を苦にしないこと」と解釈し、「自分は大の楽天家だから、十分にだらり」だと考えていた。

高橋是清(1853安政元年9月19日~1936年2月26日、享年82歳)、政治家

金子直吉(1866慶応2724日~1944227日、享年77歳)、鈴木商店の大番頭

福澤桃介(1868明治元年813日~1938215日、享年69歳)、電力業界の実業家

松永安左衛門(1875121日~1971616日、享年95歳)、電力業界の実業家

 

ここでは、高橋是清が『日本経済』について、どのように考えていたのかを追っていきたいと思います

高橋は47歳の幕府の屏風絵師が16歳の下女に産ませたいわゆる不義の子であったが、生後まもなく仙台藩の足軽高橋家に里子に出され、ついで、そのまま養子にさせられた。

暗い生い立ちだが、高橋は楽天的な明るい性格であった。

「私は子供の時から、自分は幸福者だ、運のいい者だということを深く思い込んでいった。それでどんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつかよい運が転換してくるものだと一心になって努力して生きてきた。」(高橋是清自伝)

誰の生涯にも、幸運な出来事は一度や二度はあることだが、自らを楽天家に仕立て、いつも希望をもって生きていったところに、高橋のたくましさがあった。

仙台藩からは、選抜されてアメリカ留学をしたが、留学先で奴隷契約を結ばされて、なかなか帰国ができなかったという不幸もあった。明治維新1868年、高橋15歳の頃である。

 

そして、16歳で大学南校(現在の開成高校)教官手伝いとなった高橋だが、茶屋遊び(遊郭の直接的な娯楽とは異なり、客をもてなすための接待や芸能の場、芸者や舞妓による舞や音楽を楽しむ)をおぼえると、若いだけにたちまちそのとりことなり、学校もおろそかにして放蕩にふけった。最後に、芸者の長襦袢を着て、芝居を見に行っているところを同僚の教官に見つかり、退職の破目になった。

高橋は、そのまま馴染みの芸者の家にころがりこみ、昨日の教官手伝いが今日は箱屋の手伝いという身。その中、唐津の英語学校へ赴任することで、ようやく芸者との縁が切れた。

次に唐津では、後の工学博士辰野金吾など優秀な生徒がいたが、高橋自体は、朝、教室へ出る前に冷酒をやり、昼にまた一升酒、夜も同僚を集め鶏の二羽ぐらいつぶしては酒盛りというわけで、一日三升は飲んだ。飲んだ後、手の甲に灸をすえて眠気を払いながら、三時間ずつ漢学の独学をした。

こうした生活のため、高橋は喀血した。健康が回復すると、酒のくさみがいやになっていた。だが、ひとに言われて鼻をつまんで飲んでいる中、また元の大酒のみに逆戻りしてしまった。

19歳のとき、ふたたび上京。文部省の通訳となり、ここで落ち着いたかに見えて、23歳のとき結婚

しかし、その後、東京英語学校に移ると、校長と衝突して、また飛び出した。

その後も、翻訳や予備校教師をしてたくましく生き、明治14年(1881年)、28の高橋はふたたび官界に戻り文部省へ。

ついで、農商務省で専売特許や商標登録に関する規則制定にあたった。

高橋には身分などより、仕事が問題であった

明治18年(1885年)、高橋32のとき、特許制度調査のため、欧米へ派遣された。農省務省内の派閥争いもからんで、一時期追い出された形でもあったが、名を捨て実をとる主義の彼は、屈託がなかった。

1886年、高橋はロンドン、パリ、ベルリンへと廻った。パリでは書記官である原敬を知った。

高橋は特許制度について十分な調査をしたが、ただそれだけでなく、取引所や工場などもしきりに見学し、経済の新知識吸収につとめた。

そして、帰国し、高橋33歳のとき、特許法規を完成し日本ではじめて工業所有権保護制度を作った。

 

1889年、高橋36歳のとき、ペルーへ行って鉱山・農場経営に当たってくれという話が持ち込まれた。

ペルー銀山開発熱の高まりにより、日本も動いたためである。そこで、

特許局長の椅子を投げうって、ペルーへ移住することになった。しかし、だまされて失敗。

壮大な悪夢となり、都落ち。

 

そこで、高橋は、日銀総裁・川田小一郎に呼びだされた。

川田は、くせのある人物だが、人材を集める眼があり、新知識の持主や大学卒業生を進んで採用し、その中から山本達雄、高橋是清、井上準之助など、幾人かの日銀総裁を輩出した。このときも、川田は高橋に一面識もなかったのだが、まわりの話から高橋の人間に興味を持ち、面接するために呼び寄せたのであった。

 

明治271894)年、高橋41歳のとき、日清戦争が始まった。

翌年4月まで10カ月続いたこの戦争の戦費は約2億。戦争直前の財政規模のほぼ2倍半に上る。

川田は、まず日銀の資金を政府に貸し、次いで112百万の国債を発行、公募して戦費をまかなうことにした。果たしてそれだけの公債が売れるかどうか危ぶまれ、政府は外債発行の準備をさせようとしたが、川田は取り合わず、みごと全額を国内で消化した。

この方法は、昭和になって高橋是清によって、形を変えて踏襲される。

ところで、1895417日に下関条約(日清講和条約)が締結されます。講和会議で2億両を日本に支払うことが決まります。

2億両とは当時の日本円にして31000万円に匹敵します。

現在の日本円では約360兆円にもおよぶと考えられています。

よって、日清戦争後は好景気を得ることとなる。

 

明治31(1898)年、山本達雄が日銀総裁になったとき、正金副頭取に出ていた高橋是清は日銀副総裁に任命された。

 

1903(明治36)年、日露戦争開戦の前年、日銀副総裁の高橋是清は、大蔵大臣に呼ばれ、軍需品購入のたまの外貨準備を心がけておくよう、ひそかに依頼された。

ロシア相手の戦争に予想される戦費は45千万円。日清戦争の経験では、戦費の3分の1が外国からの軍需品の購入に使われた。とすると、今回は15千万。これに対し明治36年末における日本の手持外貨は5,200万。1億円相当の外貨不足であった。

現に、そのころ、イギリスに注文してあった二隻の軍艦、日清・春日の代金150万ポンド(約1,900万)の代金支払いさえスムーズに行かず、高橋が乗り出して、ようやく引き渡されたような、心細い状態であった。

1904(明治37)年2月開戦となるや、政府は急ぎ、外債募集の財務官を海外へ出すことになり、高橋是清に全権を与えて任命した。

若い秘書役、深井英五(後の日銀総裁)一人を連れ、アメリカ経由、ヨーロッパへ出発した。

このとき、高橋51歳。心中、悲壮であった。

年内に、二度に分けてもよいから、1,000万ポンド(約13千万)の外債を募集、外貨を調達せよというのが、至上命令である。

 

「ロンドンで募集の見込になし。今日、正金銀行には、びた一文の信用無し」というロンドンの正金支店長からの電報が届けられた。

不利な中でも交渉を進めた結果、最高発行限度300万ポンド、6分利付、発行価額は額面の92%、抵当には日本の関税収入を当てるというものであった。

300万ポンドでは、絶対の目標である1,000万ポンドの3分の1に過ぎない。高橋はさらに交渉して500万ポンドの線にこぎつけた。

すでに4月に入っていたが、このとき、アメリカの資本家シフから大口引受の申出があった。シフはユダ人会会長であり。ロシアのユダヤ人虐待に対して強い反感を抱いていた。

事態は好転した。

イギリスだけでなく、アメリカも参加することになった。

そこへ、鴨緑江会戦(1904430 - 51日、おうりょくこうかいせん、日露戦争において日本陸軍第一軍が鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、これを阻止せんと待機していたロシア陸軍との間で起こった一連の戦い。日本が勝利する)での日本軍の勝利のニュースが入ったため、511日の発行日には、発行額の数倍を上回る申込が殺到した。

高橋は、その後半年ロンドンにとどまり、2億円(1,600万ポンド)の公債を発行、すべて消化した。

必要とされた外貨は十二分に調達したので、1905(明治38)年1月、1年振りに帰国した。

だが、戦争はまだ続き、戦費もとどまるところを知らず、ふくれ上がっていた。戦争とは本来そういうものなのである。このため、高橋は日本にいることわずか1ヶ月で、ふたたび外債募集を命じられ、イギリスへ旅立った。

政府の要請もエスカレートして、起債目標は、一挙に3,000万ポンドという巨額。しかも利子は引き下げて4分半にせよという。

高橋たちの努力は続いた。

度重なる日本公債の募集に不安がる向きも出てきており、これであと1年の戦費を十分まかなえるのだと説いて回った。発行日直前、奉天会戦での日本陸軍勝利の報せが入ったこともあって、この難題も無事消化することができた。

ところが、さらに日本政府は3,000万ポンドの外債募集を高橋に命じてきた。

高橋は苦境に立たされた。1年分の戦費をまかなうと言ってから、まだ3ヶ月しか経っていない。

そこへ、日本海海戦の勝利の報せが入ってきた。だが、そのことで、海外では講和への期待が強まり、日本はむしろ外債の整理にかかるべきだと言われた。

高橋としては、ロシアは日本が戦費で行き詰るという観測をしており、その観測を打ち破り、否応なしに講和談判に引きずりこむために、もう一度、戦費の調達が必要なのだと、説いて回った。また、日本は戦争継続を望むものではなく、その公債による資金も、撤兵費用や国債の整理などに充てる含みなのだと、説いた。高橋は腹を切る覚悟で話をまとめて、今回の外債募集も成功させた。

高橋の仕事は、まだ終わらなかった。

講和成立後も、外債整理・戦後経営のための資金として、また、外債募集を命じられ、講和条件に不満の民衆の東京での暴動事件の報せなどで、ふたたび日本の評判が下落する中で、起債を続けなければならなかった。

こうして開戦以来、戦後経営に至るまでの間に高橋が担当した外債は、実に13,000万ポンド(約13億円)に達した。

なお、戦費は予想では45,000万円であったが、実際は、その3倍の15億円であった。

 

日露戦争は、1904年(明治37年)2月から19059にかけて大日本帝国(日本)とロシア帝国との間で行われた戦争で、日本が勝利した

 

奉天会戦は、1905221日から310にかけて行われた、日露戦争における最後の大規模な会戦である

双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満洲の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。日本が勝利するも、この戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。

参加兵力は大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン

 

日本海海戦は、1905年(明治38年)527日から528にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊によって日本海で行われた海戦である。

 

高橋是清大蔵大臣(第1次1913/2/20-1914/4/16)

 

1914(大正3)年7月、第一次世界大戦(~1918(大正7)年11月まで)が勃発した。後にはすさまじい好景気となるのだが、当時、日本の経済は慢性的な国際収支の赤字に伴う不景気続きで沈滞しており、戦争が起こってからも海上輸送の途絶などのため市場が混乱し、先行不安で経済は萎縮していた。

しかし、1915になると、米英仏をはじめとする同盟国から兵器や軍需品、食料などが自国では供給できなくなり、同盟国らは日本にそれらを求めたのです。

さらに、アジアやアフリカでもヨーロッパからの輸入品が途絶えたため、日本に綿糸や綿布、綿織物を求めてきたことで、大戦景気が訪れた。

 

ところが、第一次世界大戦末期、1918(大正7)年夏には、不況が到来、生活費の高騰、米の不作が重なり、民衆には厚く重苦しい夏になった。

 

高橋是清大蔵大臣(第2次1918/9/29-1922/6/12)

 

原敬内閣で高橋は2度目の大蔵大臣を務めた。

戦後不況に対し、高橋は積極的な財政政策によってテコ入れすべきだと考えており、海運界救済にも応じた。

また、大戦をきっかけに、各国が金本位制を離脱する中、日本も1917年に金輸出を禁止し、金本位制から離脱した。

 

1918(大正7)年~1920(大正9)

スペインかぜが大流行し22万人を超える犠牲者が出た。生命保険会社は保険金を支払うことでその使命を果たした。

 

1921(大正10)

戦後不況とスペインかぜ大流行による不景気と立憲政友会の関係する汚職事件も続発した。政党政治の腐敗に憤激した一青年によって、原敬首相が刺殺された。

後継首相は、原に代わって政友会首相となった高橋是清(1854-1936)が組織したが短命に終わり、かわって海軍大将加藤友三郎(1861-1923が以後約2年間にわたって非政党内閣が続いた

(日本史教科書より)

 

1923(大正12)

関東大震災では死者10万人に及んだ。生命保険会社は保険金を支払うことでその使命を果たした。

所得税の生命保険料控除制度が新設された。

 

1926(大正15)

省令改正(省令とは、各省の大臣が制定する命令です。省令は、税法上は、主に「・・・施行規則」という名前で出てきます(例えば、今で言えば、保険業法施行規則と考えている))。

当時の商工大臣 片岡直温氏(元日本生命社長として、1903年より1919年までの17年に渡り2代目社長を務めた)から提案された案に基づいてなされたもので、その目的は生命保険会社の資産の充実、軍事費の節約、競争の緩和及び契約者利益の擁護をはかることにあった。

その提案がなされた1925年末当時は、生保会社44社中純保険料式積立を行っていた会社はわずか4社で、大多数の会社は全期チルメル式積立を行っていた。

そこで、19264月改正がなされている。

これは、責任準備金の積立方式の問題は単なる数理の問題というより事業経営上、或いは社会政策上の問題として捉えているところが注目できる。

(生命保険会社の計理より)

とても崇高な政策と考えましたが、一方で片岡直温氏は、1927314の衆議院予算委員会にて、大蔵大臣として「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と実際には破綻していなかったにも関わらず失言する。これが“昭和金融恐慌”の引き金となり、これを機に取り付け騒ぎが発生。

若槻内閣は総辞職に追い込まれている。

 

1927(昭和2)

“昭和金融恐慌”が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中義一に請われ、高橋是清が自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。有名な話と思います。【ウイキペディア】

“昭和金融恐慌”では、一部財務体質の弱い会社は大きな打撃を受けたが、大多数の生命保険会社は昭和12年日中戦争が始まるまではその配当率を継続した。【生命保険会社の計理より】

 

高橋是清大蔵大臣(第3次1927/12/13-1927/6/2)

 

1929(昭和4)

世界経済で一人勝ちを続けてきたアメリカ・ニューヨークのウォール街で、株価が大暴落を起こした。アメリカの経済は大混乱をきたし、実に1000万人が失業し、失業率は25%を記録した。国民の4人に1人が働き口を失ったのである。

アメリカの大不況は日本やヨーロッパなど全世界に波及、これを“世界恐慌”と呼ぶ。恐慌はドイツをも捉え、失業者は700万人、3人に1人が確たる就職先を持たず、国民生活は激しく疲弊した。国民は、強力なリーダーを求めた。

“世界恐慌”の翌年の1930年、ドイツの総選挙でナチスは党勢を9倍に伸ばす大躍進を記録した。ナチスの強力なリーダーシップを求める国民の声を受けて、1933年、ヒトラーはついに首相の座を手に入れた。

第一次世界大戦後、各国が金本位制に復帰する中、日本は1927年に昭和金融恐慌に見舞われたこともあって、復帰が遅れていた。

1929年に成立した浜口雄幸内閣は、金解禁(金本位制への復帰)を目指した。

 

1930(昭和5)

そして、浜口雄幸内閣は井上準之助を大蔵大臣に任命し緊縮財政を実行し、1930年に金解禁を断行

緊縮財政は、同年の“昭和恐慌”を招き、倒産や失業が急増、農民と中小企業者には深刻な打撃となりました。

そして、浜口雄幸は暗殺、1932年には井上準之助が暗殺されました。

 

“昭和恐慌”  ※昭和金融恐慌≠昭和恐慌である!

“昭和恐慌”は、1929年秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた。戦前の日本における最も深刻な恐慌。

第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊によって、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。

Wikipediaより)

 

司馬遼太郎のエッセイ集「以下、無用のことながら」の最初の「新春漫語」に昭和恐慌(1930年代の日本のパニック)のことをつづっているのが興味を引いた。司馬さんが小学校低学年ながら、おびえのこもった記憶として体にのこっていると記している。

私もその時代に少年期を過ごしたのだが、殆ど記憶になかった。いまの飽食の時代に育った人たちには想像もつかない時代であった。かけそば一杯の時代であり、失業率20%の時代であった。司馬さんの文章を少しばかり引用してみよう。

後年調べてみると、身の毛のよだつような時代だった。倒産や夜逃げはざらで、失業した人は故郷に帰ろうにも旅費がなく、野宿をしながら歩いたりした。

十五世紀の"応仁の乱"と同様、日本史上の大事態だった。不況は世界を覆い、震源地のアメリカを始めどの国もなかなか出口が見いだせなかった。

こんにちに似ていなくもない。決定的に違う点もある。例えば、私の家で預かっていた娘さんが、去年、いかにも幸せそうな男の児を生んだ。その赤ちゃんの福耳をみて、私が、「この児は、きっと食いっぱぐれが無さそうだ」とほめると、その若い母親が、怒りはじめた。そんなばかなほめ方はありませんよ、と笑い喋りにしゃべるのである。

人間ならたれでも食べるものぐらい、食べられるじゃありませんか。

おなじ不況でも昭和恐慌の時代と比べると、これだけ国民経済の底があがっているのである

林芙美子は、夏に着るものをすべて売りつくして海水着を着ていたという。

こんにち、大不況下ながら、そんなことはありえない。・・・・・・・・・・

昭和恐慌は左翼をつくり、次いで反作用として右翼をつくり、右翼的部分がひろがって満州事変(1931)という冒険をやらせ、うわべだけの解決を見た。」

 ・・・・・・・・・・

私は決して安心しろというつもりはないが、一部の人達は今後悪いくじを引くことがあるのを避けられないが、少しは我が国の未来に希望を抱いて構造改革を進めようではないか。

(浅谷さんブログ 2001/3より)

 

 

1930(昭和5)年代の大恐慌

大恐慌、あるいは世界恐慌は、192910月のアメリカの株価暴落によって始まり、ほとんどの主要国を巻き込み、経済の混乱は、33年、見方によれば、40年代初めまで続いた。

第一次大戦(1914年~1918年)後、アメリカは産業競争力の向上と輸出の増加によって「永遠の繁栄」を謳歌していた。しかし、欧州諸国の経済復興と共に生産や設備の過剰が表面化した。

当時の国際金融システムは金本位制に基づいており、主要各国は20年代末から30年代初めに金本位制に復帰した。ところが、アメリカは流入した金を不胎化(金保有に連動して貨幣を増やさなかった)した。そのため、その他の国は金流出を抑制するため、金利を引き上げることで不況に陥ったり、金準備が枯渇したドイツ、オーストリアでは大銀行が倒産するなどの金融危機が発生した。

日本でも金本位制への復帰による金の流出を契機の一つに“昭和恐慌”となった。

 

その後、各国は金本位制度から離脱したが、植民地を持っていた英米仏は高関税による経済のブロック化によって、自国の産業保護に努めた。

これが、日本、ドイツの膨張主義を助長する要因ともなった。

こうした展開となった背景として、英仏を中心とした世界から覇権国がアメリカへ移行する過程で、アメリカにその用意が無かったことを重視する見方もある。

また、当時、恐慌は蓄積された市場のゆがみを調整するために必要不可欠な現象とも捉える向きが多く、政府による財政出動によって有効需要を作り出すという考えは力を得なかった点を強調する見方もある。

さらに、アメリカなどにおける過度の金融引き締めにその理由を求める見方もある

世界恐慌の根本原因は、各国金本位制度によるお金の流通量減少によるのか!?

ほかにも複合的な部分があるのでしょうねえ・・・(ひとり言)

(世界経済図説第4版より)

 

1931(S6)

9月、満州事変

苦境にある国民を救うことよりも、財政規律を優先させ、国債発行を禁じ手とするような頑迷な健全財政が悲惨な戦禍を招いたのかもしれません

 

12月、犬養毅内閣が成立

高橋是清大蔵大臣(第4次1931/12/13-1934/7/8、大蔵大臣空き期間を置いて、第5次1934/11/27-1936/2/26)に任命

そして、大きな方向転換が行われた。

高橋蔵相は、金本位制から離脱して、積極財政へと転じ、国債を発行したのです。

1932年から1936年までの間に、GNP5%を超える財政出動を継続しました。

1931年から1936年にかけて、国民所得は60%増加し、1936年には完全雇用を達成しましたが、消費者物価は18%の増加、物価は安定していました。

こうして日本は、世界恐慌の下にあった当時、世界で最も早く恐慌から脱出することに成功したのです。

高橋財政は、財政赤字の拡大をもたらしました。このため、当時、財政赤字の拡大を心配して、増税を求める声が上がっていました。

しかし、高橋は1933年に次の発言をしている。

「現内閣が時局匡救(じきょくきょうきゅう、匡救とは“悪を正し、危難から救うこと”)は、財界回復のために全力を傾注しつつあるこの際、増税によって国民の所得を削減し、その購買力を失わせることは、折角伸びようとしている萌芽を剪除する結果に陥るので、相当の期間までこれを避けることを認める次第であります」

高橋是清は、信用貨幣論を概ね理解しており、通貨というものが需要によって創造されるということも理解をしていた。

 

1932(S7)

515事件

犬養首相が射殺された

これにより、政党内閣は崩壊、太平洋戦争終了後まで復活しなかった

 

1936(S11)

226事件

高橋是清は、2・26事件で暗殺された。

高橋財政の末期、軍部からの軍事費の要求を拒否して、軍部と激しく対立したが、それが暗殺の引き金になったのではないかと言われています。

高橋財政の時、荒木貞夫陸軍大臣は、軍事費の拡張のための財源を確保するため、高橋蔵相に対して、増税を要求していましたが、高橋は増税を拒否していた。高橋は

「予算も国民の所得に応じたものを作らねばならぬ。財政上の信用というのは無形のものである。その信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに専念して、悪性インフレをひきおこし、その信用を破壊するがことがあっては、国防も決して堅牢とはなりえない。軍部もこの点はよほどよく考えてもらわねば行かぬ。自分はなけなしの金を無理算段して陸海軍に各1,000万円の復活を認めた。これ以上は到底出せぬ。」と軍部予算増額を拒否した

 

そして、高橋亡き後、日本は、国債発行による野放図な軍事費の拡張を加速させ、戦争への道を突き進んでいくことになります。

 

ありがとうございましたー!!!

m(_ _)m

 

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2024年3月12日 (火)

渋沢栄一氏(1840年3月16日~1931年11月11日、享年91歳)のことを調べてみるために、『渋沢史料館』、『晩香盧(ばんこうろ)』、『青淵文庫(せいえんぶんこ)』、『紙の博物館』へ行って来ました~!!

場所は北区王子にあります。これは、

明治維新後、渋沢栄一は、あらゆる事業を盛んにするためには、人々の知識を高める書籍や新聞などの印刷物の普及が必要で、そのためには安価で大量印刷が可能な洋紙製造をすべきと考えます。そして、明治6年、抄紙会社(後の王子製紙株式会社 現・王子ホールディングス株式会社の前身)を創立します。

それが、北区王子にある理由となるようです。

 

『渋沢史料館』より

身長は5尺(151.5cm)、雅号は「青淵」

趣味は特にないが、読書は好きであり、また「書」を書くことは非常に多い

猟・釣りはほとんどせず、「撃剣」は若い時にすこしたしなんだ

碁と将棋は好きだったが、仕事が忙しく時間の無駄になるために我慢をして、明治20年(1887年)頃、渋沢氏47歳の頃にやめた。義太夫や芝居を好む

性格は温和で「怒ということを忘れられたのではないか」と評されることもある

食事は好き嫌いなく何でも食べ、

「旨い不味いは分かるし、料理のことも多少は知っている」

晩年は芋や茄子を好み、オートミールは毎日食べる

また甘いものは好きで、をよく食べる

煙草は若い時に「日本煙草」をたしなんだが病気を患ってやめた

は一橋家出仕時代やフランスから帰国後に少し飲んだが、元々あまり好きではなく、以後は全く飲まなくなった

 

道徳経済合一説(どうとくけいざいごういつせつ)

渋沢氏は、会社を発展させて国を豊かにするために、幼いころから親しんでいる「論語」を拠り所として、道徳と経済の一致をいつも心がけた。そこで、「道徳と経済」「論語と算盤」にたとえ、一見不釣合なこれらは必ず一致しなければならないものであると広く呼びかけた

 

渋沢栄一氏の70歳以降の活躍の源泉となった健康法、食事法は一体どのようなものだったのか、孫の渋沢華子氏の一文にあった。

 

渋沢栄一76歳の時、「実業の世界」(大正5年8月号)の『現代名士の養生ぶり』と題する健康法のアンケートに、筆まめな栄一本人が書いている。

質問は

①平生実行している健康法

②食物の中で何が一番嫌いか。

③朝食はどんなものでご飯は何ばい食べるか。

④昼食は。

⑤夕食は。

⑥お酒は飲むか、何酒が好きか、晩酌はどのくらい飲むか。

以上である。渋沢栄一の答は次の通りである。

 

①『別に特種の健康法はしていないが、事物に屈托せざるのが(ある一つのことばかりが気にかかって他のことが手につかなくなること、くよくよすることをしない)が私の健康法です。

時に、家庭内の意の如くならないことがあり、会社、事業の損失などもありますが、かくの如きは不如意(思うままにならないこと。特に、家計が苦しいこと)は、それが人生なのだと達観し、如何なる不幸に会おうとも決して屈托せず、です。』

②『甘味、脂肪分多い食物を好み、時に菓子をとり、夕食にはテンプラ、ウナギ、ケンチン汁を好んで食するも、又,イモ、ナスなどの野菜を好む。昨今は肉類よりも野菜類を好んでいる。

③『朝食はスープ皿の三分の一ほどにオートミールクリーム約一合(180ミリリットル)をかけ、砂糖を十分に加えて甘くしているものと、スープ一合、玉子の半熟2個、トースト2枚、紅茶、果物等とを食べる。

④「正午は毎日、兜町事務所に出勤するを以て、昼食は第一銀行にて行員と共に食する場合多し。その際は洋食にして鳥、獣の肉一皿、魚肉一皿、麺麹等を摂取するが、果物はたべない。」

⑤「夕食は和食になることあり、洋食なることもあるが、洋食の場合は多く自ら進んで遊食のためにいくのではなく、殆ど毎夜何等かの会合あって招かれるため、日本食は常盤、新喜楽、瓢家等、洋食は帝国ホテル、築地及び上野精養軒、中央亭等にて会食す。」

⑥「日本食の際は米飯三椀を食べるのが普通で、みそ汁もとる。酒類は全く飲まない。」

 この回答を見ると、76歳の老人とは思えない活動ぶりと健啖ぶりである。しかし、この時代はもちろん農薬、防腐剤、添加物などはない、ほんとの自然食品だったし、空気汚染もなかったろうから、今より健康的な日常生活ができたわけであるーと渋沢華子は論評している。

 

渋沢栄一の晩年の日常生活と健康を東大の医学部教授が書いています。

第一は普段の仕事です。1日に15時間仕事をしていました。

第二は節制です。仕事が無理になり過度にならないようにしていました。

性格は春がすみのような笑顔で、快活に愉快に過ごしていたようです。

酒は飲まぬ、タバコは40才頃止めました。

食べ物はえり好みしない。

時間があれば経書(四書五経、「四書」とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つの書物です。 「五経」とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つを指します。を読む。

 

80代からストレッチ運動で健康を維持

 

『晩香盧(ばんこうろ)』より

1917年に渋沢氏の喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設)より贈られて洋風茶室

渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用された

 

『青淵文庫(せいえんぶんこ)』より

1925に渋沢氏の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、竜門社(渋沢氏を師として集まった学びと集団、現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈。書庫にステンドグラスや装飾タイルが彩を与えています。かつ渋沢氏の書庫として、とても堅牢(鋼鉄製書庫)に建てられています

 

渋沢氏は、王子製紙の工場を眼下にする飛鳥山に、明治121879)年、別荘を構え、内外の賓客を招く館として活用、さらに明治341901)年から亡くなる昭和61931)年までは家族と過ごす日常の生活の場にもなっていました。

その居館は「曖依村荘(あいいそんそう)」(空襲で焼失)と呼ばれ、渋沢氏も飛鳥山をこよなく愛していました。

 

「紙の博物館」では、日本における最初の紙幣について、知ることができました。

それは、「山田羽書(やまだはがき)」

山田羽書は日本最古の紙幣で、1610年頃、神都伊勢山田(現伊勢市)の町衆によって生み出され、明治時代まで約250年間に渡り、神都伊勢周辺で流通した紙幣です。

なぜ「山田羽書」が伊勢の地で生まれたのか?

伊勢のまちはその歴史的・地理的な特殊性もあって早くから商業が発達し、また御師(おんし)の信用力が大きく、信用経済的な萌芽の素地が形成されていた。

特に室町時代以降、当地は御師を中心に自治が行われ、神都伊勢の風土に培われた信用力と、自治都市運営に対する町衆の力が相まって、地域経済上、個人の手形的なものが次第に紙幣の形態を整え、独自の紙幣「山田羽書」が生み出されたのであろう。

関東の金遣いと上方の銀遣いという貴金属貨幣の使用の東西差があった江戸期、東西の結節点である伊勢では金銀貨をいずれも使用するという状況下にあり、秤量(しょうりょう)貨幣(かへい)であった丁(ちょう)(ぎん)(慶長銀)の切(きり)銀遣(ぎんづか)いが禁止になった17世紀初頭に小額銀貨の補完を主目的として預(あずかり)手形(てがた)の様式を応用・発展させる形で発生したと考えられる。

 

どうもありがとうございました~! m(_ _)m

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2024年3月10日 (日)

2024年の『初映画』、3月になってしまいましたので!?ダブルヘッダーで臨みました~! 1本目は本屋大賞も受賞された「52ヘルツのクジラたち」、2本目は面白そうでしたので「カラオケ行こ」を観ました~ヨ(笑)

 

52ヘルツのクジラたち」は原作を読んでいましたので、それに基づきながら、上手く2時間の映画に凝縮していたように思います。本もそうでしたが、映画も泣けました!

本の感想はコチラです!

「52ヘルツのクジラたち」(町田そのこ著)、2021年の本屋大賞受賞作品もあって、ミーハー的に手に取りましたが、作品名からこころが動いたのも事実です!とても良かったです!: 保険会社勤務、ある中高年サラリーマンの陽だまり (cocolog-nifty.com)

 

映画では、

三島貴瑚(みはらきこ)役は杉咲花さん、この物語の主人公で、通称キナコ

 

岡田安吾(おかだあんご)役は志尊淳さん、通称、アンさん。上手にトランスジェンダーを演じられていました!

岡田典子(おかだのりこ)役は余貴美子さん、安吾さんのお母さん

余さんは1956年生まれで、67歳になられていたんですね・・・汗

 

牧岡美晴(みはる)役は小野花梨さん、貴瑚の親友になります

 

村中真帆(むらなかまほろ)役は金子大地さん、れっきとした男子!

村中サチエ役は倍賞美津子さん、真帆の祖母役。倍賞美津子さんも77歳・・・汗汗

 

新名主税(しいなちから)役は宮沢氷魚(みやざわひお)さん、貴瑚を愛人とし、暴力も振るう、とんでもない男役を上手く演じられていました

 

品城愛(しなぎいとし)、52役は、子役の方でしたが、台詞無を上手に演じられていました

品城琴美(しなぎことみ)、52の実母役は、西野七瀬さん、嫌な女役を上手に演じられていました。仮面ライダーでは、ハチオーグと悪役、そして悪女をよく演じられていますネ~。偉いと思いました!

 

次に「カラオケ行こ」は、原作は漫画(すいません、読んでおりませんm(_ _)m)となりますが、脚本はテレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」も手掛けた野木亜希子氏になります。

面白そうですよネ!はい、面白かったです!!(笑)そして、泣けました(笑)

中学3年生の岡聡実(斎藤潤氏演)と四代目祭林組若頭補佐の成田狂児(綾野剛氏演)との奇妙な友情を描いた物語。

コンクールの日、成田狂児は歌を教えてほしいと合唱部部長の聡実をカラオケに拉致する。狂児のいる組では毎年組長(北村一輝氏演)の誕生日にカラオケ大会が開かれ、そこで“歌ヘタ王”になると組長に刺青を彫られるという。組長の下手な刺青が嫌な狂児は何としてでも“歌ヘタ王”を回避すべく、カラオケで聡実の指導のもと特訓を始める。

また、岡聡実くんは中学校の“合唱部”に所属しながら、“映画を見る部”にも幽霊部員として所属しており、昔のモノクロ映画を鑑賞されていました。イングリットバーグマンが出てきましたが、今の中学生はホントに知っているのでしょうかネ~(笑)

 

ありがとうございました~!

(_ _)m

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2024年3月 5日 (火)

「どうする財源~貨幣論で読み解く税と財政の仕組み」中野剛志著を読んでみた!あなたはリフレ政策(現代貨幣理論(MMT))派、それとも財政健全化(緊縮財政)派!?『現代貨幣理論』、半分は正しいと思いましたヨ!(笑)

“財源”をどうするか、に焦点を絞って論じていました。

例えば、防衛費の金額の妥当性や、防衛費の中身については議論から外しています。


以下、青字部分は私見(感想)になります

「商品貨幣論」とは、貨幣にはもともとは金貨や銀貨のように、それ自体に価値があるモノを交換手段した考え方

 

「信用貨幣論」とは、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債であるとした考え方

要するに、貨幣というものは、単なる信用と負債の関係を記録する計算単位にすぎないということ(P42

 

本書では、貨幣物々交換から生まれたのではなく(そのような史実がないため)、紀元前3,500年頃のメソポタミア文明において、信用と負債の関係の記録として生まれたことから、「信用貨幣論」が正しいとされています。

また、現代経済において流通する貨幣の大半は、現金ではなく、銀行預金です。

例えば、日本でも、貨幣のうち、現金が占める割合は2割未満しかありません。

 

民間銀行はいかにして貨幣を生み出すか

民間銀行は、貸出しによって、預金という通貨を生み出すのです。

これを「信用創造」あるいは「貨幣創造」と言います。貸出しが貨幣(預金通貨)を創造するのです。

そして、反対に債務が返済されると、貨幣は破壊されます。

 

201944日の参議院決算委員会において、西田昌司議員と黒田東彦日銀総裁の間で、次のような、やりとりがありました。

西田委員「銀行は信用創造10億でも100億でもお金を創り出せる。借入れが増えれば預金も増える。これが現実。どうですか、日限総裁」

黒田日銀総裁「銀行が与信行動をすることで預金が生まれることはご指摘の通りです」

 

しかし、実際には、民間銀行の貸出しには制約があります。

それは、貸出先である企業に、返済能力がなければならないという制約です。

民間銀行は、貸出にあたっては、企業に対して与信審査を行い、将来、債務を返済できるのに十分な収入が見込めるかどうかを、厳しくチェックします。

逆に言えば、貸出先の企業に返済能力がある限り、民間銀行は、いくらでも貸出を行うことができ、貨幣を創造することができるということになります。

 

20世紀最大の経済学者の1人と言っていいジョセフ・アロイス・シュンペーターは、資本主義とは、次の3つの特徴を有する産業社会のことであると定義しました。

 

①物理的生産手段の所有

②私的利益と私的損失責任

民間銀行による決済手段(銀行手形あるいは預金)の創造

この3つの特徴のうち、③の「民間銀行による決済手段の創造」こそが、資本主義の定義の中でも特に重要であるとシュンペーターは行っています。

 

「資本」を自ら生み出す経済システムだから「資本主義」と呼ばれると言えるのでしょう

 

資本主義においては、民間銀行が貸出しによって預金という貨幣を創造し、その貨幣が取引や貯蓄の手段としても使われ、経済の中を巡り巡っていきます。

その資本主義における貨幣の循環に着目したのが、「貨幣循環理論(Monetary Circuit Theory)」です。

①企業への支出が先で、返済のための財源となる収入は後

②企業の財源とは、企業の需要である

③企業の収入により返済がされると、貨幣は破壊する

すべての企業が完済してしまうと、貨幣がこの世から消えてしまう

 

デフレ(デフレーション)とは、一般的には、一定期間にわたって、物価が持続的に下落する現象のこと

インフレ(インフレーション)とは、一般的には、一定期間にわたって、物価が持続的に上昇する現象のこと

 

デフレとは、経済全体の需要(消費と投資)が、供給に比べて少ない状態が続くことで引き起ります。

企業の需要が無ければ、民間銀行は貸出し(貨幣の創造)ができません。貨幣が創造されなければ、企業は支出できず、従業員の給料も増えません。経済は成長できずに、縮小していくことになります。

また、貨幣の破壊もすすむことになります。

デフレになると、銀行は貸出し(貨幣の創造)ができず、企業は返済(貨幣の破壊)に走らざるを得ないので、貨幣がこの世から消えていってしまうおそれがあります。

そういうデフレのときに、政府までもが財政支出を抑制し、政府債務の削減(財政健全化)に努めたら、貨幣がさらに消えて、デフレが悪化します。

政府が債務を負って支出を増やすことは、貨幣を創造し供給することになるのです。

 

戦後、唯一、日本だけが、1998年にデフレに陥り、しかもそれから20年以上も、デフレから抜け出すことができなくなりました。

 

一方、2022年あたりから物価が上がって、デフレというよりはインフレになっていますが、日本経済は成長し始めているのでしょうか。

これについてはP145で、世界インフレとしては、コロナ禍による労働者不足、ロシアのウクライナ侵攻を契機とする食料やエネルギーの供給制限、経済安全保障の強化を挙げられていました。

 

それが、日本の2021年から2022年にかけての日本のインフレの原因と言われていました。

いわゆる、「スタグフレーション」だと思いますが、果たして、そうでしょうか。それだけでしょうか!?

日本の場合、2013年から続く超低金利と異次元的金融緩和(貨幣の創造に相当)によるところもあると思っています~!

 

 

政府部門を考慮に入れた貨幣循環について

①政府支出が先、税収が後

②政府の財源=中央銀行(日本銀行)による貨幣創造=政府の需要

③税は、政府支出の財源確保の手段ではない

④政府の徴税と返済が、貨幣を消滅する=財政健全化とは、貨幣の破壊である

⑤すべての企業と政府が債務を完済すると、この世から貨幣が消えてしまう

 

 

日本政府は、貨幣(円)を創造し、徴税権力もある政府です。

したがって、日本の財政が破綻する(債務不履行に陥る)ことはありません。

→徴税権力があるから、日本政府は破綻しないって、現実的にはいくらでも徴税できるわけではないので、これだけで債務不履行となることはないと言及するには弱くないでしょうか!?

ここは、定性的な意見となり、申し訳ございません。m(_ _)m

 

現代貨幣理論(Modern Monetary Theory、通称MMT

MMTは、政府と中央銀行を一体として「統合政府」とみなした上で、財政支出と徴税の流れを説明しています。

MMTは、政府(統合政府)が貨幣を創造したものとします。

あとは、「貨幣循環理論」と共通しています。

両方とも、“税”は貨幣を成立させる上で必要ではあるが、政府支出の財源を確保する手段ではないとしています。

 

政府の財政支出は、無限に行うことはできません。

政府の財政支出を制約しているのは、資金の制約ではなく、ヒトやモノといった実物資源の利用可能量となります。

 

増税によって財源を確保しようが、倹約(歳出改革)によって財源を確保しようが、領民経済は成長しません。

それは、徴税により、領民から奪ってきた貨幣を支出せずに貯め込むことであり、領主が支出していれば得られたであろう貨幣が、領主の倹約により手に入らなくなるためです。

“増税”や“歳出改革”によって財源を確保するという発想は、資本主義以前の社会における封建領主の発想になるのです。

 

実際の政府は、不況で経済成長率が鈍化した時こそ、財政支出を増やしています。

いわゆる「景気対策」です。

例えば、2008年の世界金融危機(リーマンショック)の際、各国は、巨額の財政出動を行いました。経済成長率が著しく低下したから、財政支出を増やしたわけです。

さらに、2020年に新型コロナウイルス感染症でパンデミックが起きて、深刻な不況に陥った際も、各国は財政支出を急激に増やしました。いずれも経済が成長しなかったから、財政支出を増やしたのです。

 

「健全財政」の方が経済成長するのであれば、経済成長率は高いが、財政支出の伸び率は低い国があってもよいはずですが、ありません。

「健全財政」の模範とされるドイツは、財政支出の伸び率は相対的に低いですが、同時に、経済成長率も相対的に低くなっています。

 

実物資源の量の制約は、どのようにして計測するのでしょうか。

その指標のひとつとなるのは、インフレ率(物価上昇率)です。

そこで、政府は、インフレ率が高くなり過ぎないように、財政支出を制限する必要があります。

インフレ率など、国民経済に与える影響を基準にして運営するという考え方を「機能的財政」と言います。

MMTも、この「機能的財政」の考え方を組み込んでいます。

 

自ら貨幣(自国通貨)を創造できる政府は、予算の収支を均衡させる「健全財政」を目指す必要はない。

その代わりに、財政支出を増やすか減らすか、課税を軽くするか重くするか、国債を発行するかしないか、と言った判断は、それらが国民経済に与える影響を基準にすべきである。

これが、「機能的財政」です。

 

「健全財政」と「機能的財政」、2つの考え方

例えば、「健全財政」では、財政赤字は常に悪いものとみなされています。そして、財政黒字は常によいものとみなされます。

しかし、「機能的財政」では、財政支出を増やしたり減税したりして、景気がよくなり、失業がへるのであるならば、その結果、財政赤字になったとしても、その財政赤字は良いものなのです。

ただし、財政支出の増加や減税によって、景気が過熱し、需要が増えすぎて供給が追い付かなくなり、高インフレになって、国民は苦しむ結果となったとします。この場合、財政赤字は、高インフレを引き起こしたからという理由で、悪いもの、減らすべきものだと判定されるのです。

「機能的財政」では、財政赤字(or黒字)が国民を幸福にするなら善、不幸にするなら悪となります。

 

結果として、デフレが続いていた日本は、財政支出が全然足りなかったということです。

言い換えれば、利用可能なヒトやモノがあったのに、利用されずに放置されていたということです。

 

「機能的財政」における税の考え方

“税”というものは、政府支出の財源を確保するための手段ではなく、国民経済を望ましい姿にするための政策手段なのです。

たとえば、税は所得格差を是正する上では、効果的な政策手段です。

より平等な社会を実現するための政策手段として、必要になります。

富裕層の所得や贅沢品の消費には、課税をより重くし、貧困層の所得や生活必需品の消費に対しては、非課税あるいは税率の軽減とすれば、所得格差が是正されるため、です。

一方で、デフレ下での消費税増税は、消費を抑制することになり、まったく意味が無いと言っています。

 

また、最近の防衛財源の確保のために、(経済成長を前提とした)増税に頼るのではなく、国防に必要な財源として、政府が債務を負って貨幣を創造すれば財源を確保できるとも言っています。

但し、追加的な税の負担はしなくてもよいのですが、実物資源の制約により、高インフレという負担がかかってくることになります。これは、「今を生きる世代全体が分かち合っていくべき」ものとなります。

 

MMTは、機能的財政に基づき「財政支出は、高インフレにならない限り、拡大できる」と論じています

 

固定為替相場制という制約

政府の通貨供給には、固定為替相場制という制約が課せられている場合があります。

固定為替相場制の下では、政府は、自国通貨との交換の要求に応えるために外貨を常に準備しておかなければなりません。つまり、自国通貨の発行量には外貨準備という制約が課せられているのです。

19世紀から20世紀前半にかけて、金本位制という固定為替相場制が存在していた頃は、各国政府の通貨発行と財政支出には、金準備という制約が課せられていました。

また、第二次世界大戦後から1973年までは、資本主義諸国は、ブレトンウッズ体制という固定為替相場制の下にあったので、各国の財政政策には、ドル準備という制約が課せられていました。

 

1971年、戦後のブレトンウッズ体制から続いてきたアメリカドルを基軸通貨とした固定相場制の世界経済が崩壊

 

日本政府は、自国通貨と外貨(あるいは金)との交換比率が固定されていない変動為替相場制の下であれば、制約はありません。

政府は、無制限に自国通貨を発行する能力を持つことができるのです。

そこで、日本政府は財政破綻(債務不履行)に陥ることはないのです。

たとえば、アルゼンチンやギリシャの財政危機や高インフレは、多額の外貨による対外債務(非自国通貨建て債務)に該当します

 

但し、ここでも実物資源の供給の制約はあります。

 

政府支出を野放図に拡大し続けると、いずれ、実物資源の供給制約にぶつかることになります。

財政支出が実物資源の供給制約を超過すると、高インフレが引き起こされるでしょう。

高インフレとは、実物資源の供給がその制約に達したことを示すサインなのです。

 

2つのインフレ

「デマンドプル・インフレ」

需要が実物資源の供給制約を超えた原因が、需要の増大にあるインフレ

財政支出による需要の増大(例えば、公共事業、公共工事などの増大でしょうか)実物資源(ヒト、モノ)の供給制約を超えることで起きるインフレ

少なくとも、戦後の先進民主国家で、過剰な財政支出を続けて「デマンドプル・インフレ」が止まらなくなった例は無いとのこと。

「デマンドプル・インフレ」が止まらなくなって国民が苦しんでいるのに、なお過剰な財政支出を続けるような愚かな政権は、民主国家では、有権者の支持を得られるはずが無いからです。

 

「コストプッシュ・インフレ」

実物資源の供給制約がより厳しくなったことに起因するインフレ

例えば、1970年代の石油危機のように産油国が原油を輸出制限したため、エネルギー価格が高騰してインフレになった場合

→言葉の意味で恐縮ですが、「コストプッシュ・インフレ」とは「スタグフレーション(景気が下がり物価が上昇すること)」のことではないでしょうか!?

この場合の対策は、短期的には省エネルギーの徹底や、既存の原子力発電の稼働、長期的には新たなエネルギー源の開発が必要になるでしょう。

コストプッシュ・インフレ対策に必要なことは、政府による、的を絞った公共投資になります。

 

政府の赤字財政支出により、民間貯蓄が減るのではなく、その反対に増えるのです。

 

2002に、海外の格付け会社が日本国債の格付けを引き下げました。すると、当時の財務省は、格付け会社(ムーディーズ、S&P、フィッチ)宛てに、公開質問状を発出した。

そこには次のように書かれています。

貴社の格付け判定は、従来より、定性的な説明が大宗である一方、客観的な基準を欠き、これは、格付けの信頼性にも関わる大きな問題と考えている。従って、以下の諸点に関し、貴社の考え方を具体的・定量的に明らかにされたい。

日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか。

 

このように、財務省は、自国通貨建てである日本国債のデフォルト(債務不履行)は考えられないと認めています。

 

アメリカでは、政府債務の上限が法定されていますが、議会の承認が得られれば、上限を超えて国債を発行することができます。

ドイツは憲法(基本法)によって、連邦政府は、対GDP比財政収支を原則マイナス0.35%以内にしなければならないと定めています。但し、不況時には新規国債発行の増加が認められ、好況時にはその減少(または財政収支の黒字化)が求められるといったように、景気の好不況に配慮しています。さらに「自然災害又は国家の統制が及ばず、国家財政に甚大な影響を与える緊急非常事態の場合」には、財政ルールの適用を停止できることとされています。実際、2020年とその翌年には、コロナ禍に対応するため、この一時停止措置が発動されました。

日本においても、アメリカやドイツと道央に、法定の財政規律が存在します。それは、「財政法」です。

 

財政法第4条

国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。

但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる

二、前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない

三、第一項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない

 

日本において、アメリカやドイツの財政規律に対応するのは、財政法第4条であります。

財政法第4条は「但書」はあるものの、国の歳出の財源を国債に頼ってはいけないという健全財政が原則であると規定しています。

 

この規定は、赤字財政は戦争につながるという論理から来ているとのこと。

財政法の起案者となった大蔵省法規課長であった平井平治氏は、こう解説しています

「戦争と公債がいかに密接不離の関係にあるかは、各国の歴史を紐解くまでもなく、わが国の歴史を観ても公債なくして戦争の計画遂行の不可能であったことを考察すれば、明らかである。また我が国の昭和7年度以来の公債を仮に国会が認めなかったとするならば、現在の我が国は如何になっていたか言わずして明らかである。換言するならば、公債のないところに戦争はないと断言しうるのである。従って、財政法はまた、憲法の戦争放棄の規定を裏書保証せんとするものとも言い得る」

 

護憲派が憲法第9条を変えたら、日本人は侵略戦争に突き進んで破滅するのではないかと心配しているように、健全財政論者たちは、国債の発行を許したら最後、日本人は破滅への道へと突き進むのではないかという不安にかられているのではないか。

 

一方、2022年、日本は、ついに防衛費を大幅に拡充しなければならないという事態に陥りました。

憲法第9条と財政法第4条の問題が一度に噴出した。

我が国は、まさに歴史的に大きな岐路にさしかかっているのです。

 

 

さらに日本の場合には、財政法第4条に加えて、閣議決定により、プライマリーバランス黒字化目標という財政収支ルールが課せられます。

 

これは、ドイツの財政収支ルールと同じようにも見えますが、ドイツよりも厳しい財政規律となっています。

ドイツのルールは、財政収支の対GDP比を目標として設定しています。従って、例えば、財政支出を拡大してもGDPが成長した場合には、数値は改善するという余地があります。

これに対して、日本のプライマリーバランス黒字化目標は、対GDP比ではないため、GDPが成長することで数値が改善するという余地がありません。

財政収支のルールを財政規律にする場合は、対GDP比財政収支とするのが一般的であり、EU諸国も対GDP比財政収支のルールを採用しています。

日本の対GDP比ではない「プライマリーバランス黒字化目標」の財政規律こそガラパゴスと言えるでしょう。

 

第一次世界大戦をきっかけに、各国が金本位制を離脱する中、日本も1917年に金輸出を禁止し、金本位制から離脱しました。

戦後、各国が金本位制に復帰する中、日本は1927年に(昭和)金融恐慌に見舞われたこともあって、復帰が遅れていました。

1929年に成立した浜口雄幸内閣は、金解禁(金本位制への復帰)を目指しました。

そして、井上準之助を大蔵大臣に任命し、緊縮財政を実行し、1930年に金解禁を断行しました。

この緊縮財政は、同年昭和恐慌を招き、倒産や失業が急増、農民と中小企業者には深刻な打撃となりました。

さらに、浜口雄幸は暗殺されました。

そして、金本位制への復帰を果たした後の19319月に満州事変も勃発

苦境にある国民を救うことよりも、財政規律を優先させ、国債発行を禁じ手とするような頑迷な健全財政が悲惨な戦禍を招いたのかもしれません。

 

193112月、犬養毅内閣が成立し、高橋是清が大蔵大臣に任命されると、大きな方向転換が行われました。

高橋蔵相は、金本位制から離脱して、積極財政へと転じ、国債を発行したのです。

1932年から1936年までの間に、GNP5%を超える財政出動を継続しました。

1931年から1936年にかけて、国民所得は60%増加し、1936年には完全雇用を達成しましたが、消費者物価は18%の増加、物価は安定していました。

こうして日本は、世界恐慌の下にあった当時、世界で最も早く恐慌から脱出することに成功したのです。

高橋財政は、財政赤字の拡大をもたらしました。このため、当時、財政赤字の拡大を心配して、増税を求める声が上がっていました。

しかし、高橋は1933年に次の発言をしている。

「現内閣が時局匡救(じきょくきょうきゅう、匡救とは“悪を正し、危難から救うこと”)は、財界回復のために全力を傾注しつつあるこの際、増税によって国民の所得を削減し、その購買力を失わせることは、折角伸びようとしている萌芽を剪除する結果に陥るので、相当の期間までこれを避けることを認める次第であります」

 

高橋是清は、信用貨幣論を概ね理解しており、通貨というものが需要によって創造されるということも理解をしていた。

 

しかしながら、高橋是清は、1936年、226事件で暗殺された。

高橋財政の末期、軍部からの軍事費の要求を拒否して、軍部と激しく対立したが、それが暗殺の引き金になったのではないかとも言われています。

高橋財政の時、荒木貞夫陸軍大臣は、軍事費の拡張のための財源を確保するため、高橋蔵相に対して、増税を要求していましたが、高橋は増税を拒否していました。

そして、高橋亡き後、日本は軍事費の拡張を加速させ、戦争への道を突き進んでいくことになります。

 

次に終戦直後の激しいインフレは、どうして起きたのでしょうか

終戦直後のインフレ処理を実際に経験し、かつ高度成長を実現した池田勇人内閣のブレーンとして活躍した下村治氏が、その原因を次の3つと言われていました。

第一は、戦争による「異常な生産力破壊という状況」にあったこと

第二は、当時の税務当局の徴税力の欠陥

国家の徴税権力が弱ければ、通貨の価値も暴落し、激しいインフレになると

第三は、当時は労働組合の政治力がきわめて強く、賃金上昇圧力が過大であったため

この3つの原因のうち、最大のものは、戦争による生産力の破壊がもたらした供給不足であると下村は判断しています。

つまり、終戦直後のインフレは「コストプッシュ・インフレ」だということです。

そこで、下村は、「実際の生活水準を落とすのではなく、生産力を高めて生活水準に適合させていくというのが現実的な方策である」と考えました。

当時、大蔵大臣であった石橋湛山も同じ考えでした。

この石橋湛山の積極的な財政金融政策について、下村は、需要増による一時的なインフレ悪化という弊害はあるものの、生産力を強化するものであるとして、これを支持したのでした。

このとき、下村が得た「歴史の教訓」は、「生産増強以外にインフレ収束の途はない」というものでした。

つまり、積極財政によって、供給力を増強し、実体経済の需給不均衡を解消するのが、正しいコストプッシュ・インフレ対策ということです。

 

財源を“徴税”によって確保しなければならないとか、“歳出改革(倹約)”によって捻出しなければならないとか言った考え方は、資本主義以前の、貨幣を創造する能力を持たない封建領主の考え方なのです。

 

(感想)

人の批判はせずに、純粋に持論を展開されれば、よりよかったと思いました。

 

また、本書の考え方はアリと思いましたが、“はじめに“で書かれていました、財源をどう利用するかを問うていないことが、経済対策を考える上で、十分ではないように思いました。

 

例えば、2013年から続く「異次元的金融緩和」は十分な財政支出(日銀の負債残高は2013年時点で200兆円弱でしたが、現在は約800兆円です)であったと思います。

大半が株式市場に資金投下がされていて、最近ようやく日経平均株価がバブル期を上回り、インフレ傾向にありますが、生活格差(金持ちはより金持ちに、そうでない人はそれなり(以下)に)が拡大するだけで、一般庶民の生活には悪影響があっても好影響はないと思っています。

これは、金融緩和(財政支出)先、あるいは方法に問題があったためではないでしょうか?

 

防衛費確保のためにも、財政支出をすればよいとのことですが、防衛費のみに財政支出をして、経済成長するのでしょうか!?軍事産業のみ反映するかもしれませんが、生活のための経済成長が制約されれば、デマンドプル・インフレが起きるのは、本書にも書かれている通り、間違いないとは思いました!

 

また、1988年の平成バブルは、“金利政策”による過去最低の公定歩合2.5%が原因の一つとして引き起こされました。

その後、過熱したために、公定歩合を5%まで引き上げたこともあって、最終的にはバブルが弾けました。

その後景気回復のために、公定歩合を2.5%よりもさらに低く、0.3%まで引き下げましたが、二度と平成バブルのようなことは起きませんでした。

これを「現代貨幣理論」に基づき、財政支出が少なかったため、と言い切れるのでしょうか。

おそらくですが、その時点時点で周辺環境も異なっているため、過去の経済対策を、同じように実施しても、同じ結果にはならない、この点も考慮する必要があるのだと思いました。

 

本書のさらなる改定を望んでおります!どうもありがとうございました!!

m(_ _)m

 

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