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2024年3月24日 (日)

「どうする財源」と言う本の中で『高橋是清は「信用貨幣論」を概ね理解しており、通貨というものが需要によって創造されるということも理解をしていた』というので、高橋是清をもっと知るべく「野生のひとびと」(城山三郎著)を読んでみた!

本書は、幕末から昭和初期にかけて、“野生”の如く行動し日本を牽引した人物について描かれていた。

それは、

大倉喜八郎(1837天保81023日~1928422日、享年90歳)、武器商人の実業家、財閥

安田善次郎(1838天保91125日~1921928日、享年82歳)、実業家、財閥

渋沢栄一(1840天保11316日~19311111日、享年91歳)、実業家

浅野総一郎(1848嘉永元年413日~1930119日、享年82歳)、セメント王の実業家、財閥。

浅野は、朝は誰も目覚めぬ暗いうちに起きて、東京まで商売に行き、誰もが寝静まった夜更けに汗まみれになって帰ってくる。一日4時間以上寝ると、人間は馬鹿になる。20時間は労働すべきだと考えていた。

また、浅野は、徳川時代の高僧の天海(125歳まで生きたと言われている)の信奉者で、「正直」「日湯」「粗食」「だらり」という天海の長寿の4秘訣を、いつも心がけていた。

「日湯」は毎日湯に入ることだが、浅野、そして渋沢も朝風呂を習慣としていた。

「だらり」とは浅野流に「物事を苦にしないこと」と解釈し、「自分は大の楽天家だから、十分にだらり」だと考えていた。

高橋是清(1853安政元年9月19日~1936年2月26日、享年82歳)、政治家

金子直吉(1866慶応2724日~1944227日、享年77歳)、鈴木商店の大番頭

福澤桃介(1868明治元年813日~1938215日、享年69歳)、電力業界の実業家

松永安左衛門(1875121日~1971616日、享年95歳)、電力業界の実業家

 

ここでは、高橋是清が『日本経済』について、どのように考えていたのかを追っていきたいと思います

高橋は47歳の幕府の屏風絵師が16歳の下女に産ませたいわゆる不義の子であったが、生後まもなく仙台藩の足軽高橋家に里子に出され、ついで、そのまま養子にさせられた。

暗い生い立ちだが、高橋は楽天的な明るい性格であった。

「私は子供の時から、自分は幸福者だ、運のいい者だということを深く思い込んでいった。それでどんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつかよい運が転換してくるものだと一心になって努力して生きてきた。」(高橋是清自伝)

誰の生涯にも、幸運な出来事は一度や二度はあることだが、自らを楽天家に仕立て、いつも希望をもって生きていったところに、高橋のたくましさがあった。

仙台藩からは、選抜されてアメリカ留学をしたが、留学先で奴隷契約を結ばされて、なかなか帰国ができなかったという不幸もあった。明治維新1868年、高橋15歳の頃である。

 

そして、16歳で大学南校(現在の開成高校)教官手伝いとなった高橋だが、茶屋遊び(遊郭の直接的な娯楽とは異なり、客をもてなすための接待や芸能の場、芸者や舞妓による舞や音楽を楽しむ)をおぼえると、若いだけにたちまちそのとりことなり、学校もおろそかにして放蕩にふけった。最後に、芸者の長襦袢を着て、芝居を見に行っているところを同僚の教官に見つかり、退職の破目になった。

高橋は、そのまま馴染みの芸者の家にころがりこみ、昨日の教官手伝いが今日は箱屋の手伝いという身。その中、唐津の英語学校へ赴任することで、ようやく芸者との縁が切れた。

次に唐津では、後の工学博士辰野金吾など優秀な生徒がいたが、高橋自体は、朝、教室へ出る前に冷酒をやり、昼にまた一升酒、夜も同僚を集め鶏の二羽ぐらいつぶしては酒盛りというわけで、一日三升は飲んだ。飲んだ後、手の甲に灸をすえて眠気を払いながら、三時間ずつ漢学の独学をした。

こうした生活のため、高橋は喀血した。健康が回復すると、酒のくさみがいやになっていた。だが、ひとに言われて鼻をつまんで飲んでいる中、また元の大酒のみに逆戻りしてしまった。

19歳のとき、ふたたび上京。文部省の通訳となり、ここで落ち着いたかに見えて、23歳のとき結婚

しかし、その後、東京英語学校に移ると、校長と衝突して、また飛び出した。

その後も、翻訳や予備校教師をしてたくましく生き、明治14年(1881年)、28の高橋はふたたび官界に戻り文部省へ。

ついで、農商務省で専売特許や商標登録に関する規則制定にあたった。

高橋には身分などより、仕事が問題であった

明治18年(1885年)、高橋32のとき、特許制度調査のため、欧米へ派遣された。農省務省内の派閥争いもからんで、一時期追い出された形でもあったが、名を捨て実をとる主義の彼は、屈託がなかった。

1886年、高橋はロンドン、パリ、ベルリンへと廻った。パリでは書記官である原敬を知った。

高橋は特許制度について十分な調査をしたが、ただそれだけでなく、取引所や工場などもしきりに見学し、経済の新知識吸収につとめた。

そして、帰国し、高橋33歳のとき、特許法規を完成し日本ではじめて工業所有権保護制度を作った。

 

1889年、高橋36歳のとき、ペルーへ行って鉱山・農場経営に当たってくれという話が持ち込まれた。

ペルー銀山開発熱の高まりにより、日本も動いたためである。そこで、

特許局長の椅子を投げうって、ペルーへ移住することになった。しかし、だまされて失敗。

壮大な悪夢となり、都落ち。

 

そこで、高橋は、日銀総裁・川田小一郎に呼びだされた。

川田は、くせのある人物だが、人材を集める眼があり、新知識の持主や大学卒業生を進んで採用し、その中から山本達雄、高橋是清、井上準之助など、幾人かの日銀総裁を輩出した。このときも、川田は高橋に一面識もなかったのだが、まわりの話から高橋の人間に興味を持ち、面接するために呼び寄せたのであった。

 

明治271894)年、高橋41歳のとき、日清戦争が始まった。

翌年4月まで10カ月続いたこの戦争の戦費は約2億。戦争直前の財政規模のほぼ2倍半に上る。

川田は、まず日銀の資金を政府に貸し、次いで112百万の国債を発行、公募して戦費をまかなうことにした。果たしてそれだけの公債が売れるかどうか危ぶまれ、政府は外債発行の準備をさせようとしたが、川田は取り合わず、みごと全額を国内で消化した。

この方法は、昭和になって高橋是清によって、形を変えて踏襲される。

ところで、1895417日に下関条約(日清講和条約)が締結されます。講和会議で2億両を日本に支払うことが決まります。

2億両とは当時の日本円にして31000万円に匹敵します。

現在の日本円では約360兆円にもおよぶと考えられています。

よって、日清戦争後は好景気を得ることとなる。

 

明治31(1898)年、山本達雄が日銀総裁になったとき、正金副頭取に出ていた高橋是清は日銀副総裁に任命された。

 

1903(明治36)年、日露戦争開戦の前年、日銀副総裁の高橋是清は、大蔵大臣に呼ばれ、軍需品購入のたまの外貨準備を心がけておくよう、ひそかに依頼された。

ロシア相手の戦争に予想される戦費は45千万円。日清戦争の経験では、戦費の3分の1が外国からの軍需品の購入に使われた。とすると、今回は15千万。これに対し明治36年末における日本の手持外貨は5,200万。1億円相当の外貨不足であった。

現に、そのころ、イギリスに注文してあった二隻の軍艦、日清・春日の代金150万ポンド(約1,900万)の代金支払いさえスムーズに行かず、高橋が乗り出して、ようやく引き渡されたような、心細い状態であった。

1904(明治37)年2月開戦となるや、政府は急ぎ、外債募集の財務官を海外へ出すことになり、高橋是清に全権を与えて任命した。

若い秘書役、深井英五(後の日銀総裁)一人を連れ、アメリカ経由、ヨーロッパへ出発した。

このとき、高橋51歳。心中、悲壮であった。

年内に、二度に分けてもよいから、1,000万ポンド(約13千万)の外債を募集、外貨を調達せよというのが、至上命令である。

 

「ロンドンで募集の見込になし。今日、正金銀行には、びた一文の信用無し」というロンドンの正金支店長からの電報が届けられた。

不利な中でも交渉を進めた結果、最高発行限度300万ポンド、6分利付、発行価額は額面の92%、抵当には日本の関税収入を当てるというものであった。

300万ポンドでは、絶対の目標である1,000万ポンドの3分の1に過ぎない。高橋はさらに交渉して500万ポンドの線にこぎつけた。

すでに4月に入っていたが、このとき、アメリカの資本家シフから大口引受の申出があった。シフはユダ人会会長であり。ロシアのユダヤ人虐待に対して強い反感を抱いていた。

事態は好転した。

イギリスだけでなく、アメリカも参加することになった。

そこへ、鴨緑江会戦(1904430 - 51日、おうりょくこうかいせん、日露戦争において日本陸軍第一軍が鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、これを阻止せんと待機していたロシア陸軍との間で起こった一連の戦い。日本が勝利する)での日本軍の勝利のニュースが入ったため、511日の発行日には、発行額の数倍を上回る申込が殺到した。

高橋は、その後半年ロンドンにとどまり、2億円(1,600万ポンド)の公債を発行、すべて消化した。

必要とされた外貨は十二分に調達したので、1905(明治38)年1月、1年振りに帰国した。

だが、戦争はまだ続き、戦費もとどまるところを知らず、ふくれ上がっていた。戦争とは本来そういうものなのである。このため、高橋は日本にいることわずか1ヶ月で、ふたたび外債募集を命じられ、イギリスへ旅立った。

政府の要請もエスカレートして、起債目標は、一挙に3,000万ポンドという巨額。しかも利子は引き下げて4分半にせよという。

高橋たちの努力は続いた。

度重なる日本公債の募集に不安がる向きも出てきており、これであと1年の戦費を十分まかなえるのだと説いて回った。発行日直前、奉天会戦での日本陸軍勝利の報せが入ったこともあって、この難題も無事消化することができた。

ところが、さらに日本政府は3,000万ポンドの外債募集を高橋に命じてきた。

高橋は苦境に立たされた。1年分の戦費をまかなうと言ってから、まだ3ヶ月しか経っていない。

そこへ、日本海海戦の勝利の報せが入ってきた。だが、そのことで、海外では講和への期待が強まり、日本はむしろ外債の整理にかかるべきだと言われた。

高橋としては、ロシアは日本が戦費で行き詰るという観測をしており、その観測を打ち破り、否応なしに講和談判に引きずりこむために、もう一度、戦費の調達が必要なのだと、説いて回った。また、日本は戦争継続を望むものではなく、その公債による資金も、撤兵費用や国債の整理などに充てる含みなのだと、説いた。高橋は腹を切る覚悟で話をまとめて、今回の外債募集も成功させた。

高橋の仕事は、まだ終わらなかった。

講和成立後も、外債整理・戦後経営のための資金として、また、外債募集を命じられ、講和条件に不満の民衆の東京での暴動事件の報せなどで、ふたたび日本の評判が下落する中で、起債を続けなければならなかった。

こうして開戦以来、戦後経営に至るまでの間に高橋が担当した外債は、実に13,000万ポンド(約13億円)に達した。

なお、戦費は予想では45,000万円であったが、実際は、その3倍の15億円であった。

 

日露戦争は、1904年(明治37年)2月から19059にかけて大日本帝国(日本)とロシア帝国との間で行われた戦争で、日本が勝利した

 

奉天会戦は、1905221日から310にかけて行われた、日露戦争における最後の大規模な会戦である

双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満洲の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。日本が勝利するも、この戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。

参加兵力は大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン

 

日本海海戦は、1905年(明治38年)527日から528にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊によって日本海で行われた海戦である。

 

高橋是清大蔵大臣(第1次1913/2/20-1914/4/16)

 

1914(大正3)年7月、第一次世界大戦(~1918(大正7)年11月まで)が勃発した。後にはすさまじい好景気となるのだが、当時、日本の経済は慢性的な国際収支の赤字に伴う不景気続きで沈滞しており、戦争が起こってからも海上輸送の途絶などのため市場が混乱し、先行不安で経済は萎縮していた。

しかし、1915になると、米英仏をはじめとする同盟国から兵器や軍需品、食料などが自国では供給できなくなり、同盟国らは日本にそれらを求めたのです。

さらに、アジアやアフリカでもヨーロッパからの輸入品が途絶えたため、日本に綿糸や綿布、綿織物を求めてきたことで、大戦景気が訪れた。

 

ところが、第一次世界大戦末期、1918(大正7)年夏には、不況が到来、生活費の高騰、米の不作が重なり、民衆には厚く重苦しい夏になった。

 

高橋是清大蔵大臣(第2次1918/9/29-1922/6/12)

 

原敬内閣で高橋は2度目の大蔵大臣を務めた。

戦後不況に対し、高橋は積極的な財政政策によってテコ入れすべきだと考えており、海運界救済にも応じた。

また、大戦をきっかけに、各国が金本位制を離脱する中、日本も1917年に金輸出を禁止し、金本位制から離脱した。

 

1918(大正7)年~1920(大正9)

スペインかぜが大流行し22万人を超える犠牲者が出た。生命保険会社は保険金を支払うことでその使命を果たした。

 

1921(大正10)

戦後不況とスペインかぜ大流行による不景気と立憲政友会の関係する汚職事件も続発した。政党政治の腐敗に憤激した一青年によって、原敬首相が刺殺された。

後継首相は、原に代わって政友会首相となった高橋是清(1854-1936)が組織したが短命に終わり、かわって海軍大将加藤友三郎(1861-1923が以後約2年間にわたって非政党内閣が続いた

(日本史教科書より)

 

1923(大正12)

関東大震災では死者10万人に及んだ。生命保険会社は保険金を支払うことでその使命を果たした。

所得税の生命保険料控除制度が新設された。

 

1926(大正15)

省令改正(省令とは、各省の大臣が制定する命令です。省令は、税法上は、主に「・・・施行規則」という名前で出てきます(例えば、今で言えば、保険業法施行規則と考えている))。

当時の商工大臣 片岡直温氏(元日本生命社長として、1903年より1919年までの17年に渡り2代目社長を務めた)から提案された案に基づいてなされたもので、その目的は生命保険会社の資産の充実、軍事費の節約、競争の緩和及び契約者利益の擁護をはかることにあった。

その提案がなされた1925年末当時は、生保会社44社中純保険料式積立を行っていた会社はわずか4社で、大多数の会社は全期チルメル式積立を行っていた。

そこで、19264月改正がなされている。

これは、責任準備金の積立方式の問題は単なる数理の問題というより事業経営上、或いは社会政策上の問題として捉えているところが注目できる。

(生命保険会社の計理より)

とても崇高な政策と考えましたが、一方で片岡直温氏は、1927314の衆議院予算委員会にて、大蔵大臣として「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と実際には破綻していなかったにも関わらず失言する。これが“昭和金融恐慌”の引き金となり、これを機に取り付け騒ぎが発生。

若槻内閣は総辞職に追い込まれている。

 

1927(昭和2)

“昭和金融恐慌”が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中義一に請われ、高橋是清が自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。有名な話と思います。【ウイキペディア】

“昭和金融恐慌”では、一部財務体質の弱い会社は大きな打撃を受けたが、大多数の生命保険会社は昭和12年日中戦争が始まるまではその配当率を継続した。【生命保険会社の計理より】

 

高橋是清大蔵大臣(第3次1927/12/13-1927/6/2)

 

1929(昭和4)

世界経済で一人勝ちを続けてきたアメリカ・ニューヨークのウォール街で、株価が大暴落を起こした。アメリカの経済は大混乱をきたし、実に1000万人が失業し、失業率は25%を記録した。国民の4人に1人が働き口を失ったのである。

アメリカの大不況は日本やヨーロッパなど全世界に波及、これを“世界恐慌”と呼ぶ。恐慌はドイツをも捉え、失業者は700万人、3人に1人が確たる就職先を持たず、国民生活は激しく疲弊した。国民は、強力なリーダーを求めた。

“世界恐慌”の翌年の1930年、ドイツの総選挙でナチスは党勢を9倍に伸ばす大躍進を記録した。ナチスの強力なリーダーシップを求める国民の声を受けて、1933年、ヒトラーはついに首相の座を手に入れた。

第一次世界大戦後、各国が金本位制に復帰する中、日本は1927年に昭和金融恐慌に見舞われたこともあって、復帰が遅れていた。

1929年に成立した浜口雄幸内閣は、金解禁(金本位制への復帰)を目指した。

 

1930(昭和5)

そして、浜口雄幸内閣は井上準之助を大蔵大臣に任命し緊縮財政を実行し、1930年に金解禁を断行

緊縮財政は、同年の“昭和恐慌”を招き、倒産や失業が急増、農民と中小企業者には深刻な打撃となりました。

そして、浜口雄幸は暗殺、1932年には井上準之助が暗殺されました。

 

“昭和恐慌”  ※昭和金融恐慌≠昭和恐慌である!

“昭和恐慌”は、1929年秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた。戦前の日本における最も深刻な恐慌。

第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊によって、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。

Wikipediaより)

 

司馬遼太郎のエッセイ集「以下、無用のことながら」の最初の「新春漫語」に昭和恐慌(1930年代の日本のパニック)のことをつづっているのが興味を引いた。司馬さんが小学校低学年ながら、おびえのこもった記憶として体にのこっていると記している。

私もその時代に少年期を過ごしたのだが、殆ど記憶になかった。いまの飽食の時代に育った人たちには想像もつかない時代であった。かけそば一杯の時代であり、失業率20%の時代であった。司馬さんの文章を少しばかり引用してみよう。

後年調べてみると、身の毛のよだつような時代だった。倒産や夜逃げはざらで、失業した人は故郷に帰ろうにも旅費がなく、野宿をしながら歩いたりした。

十五世紀の"応仁の乱"と同様、日本史上の大事態だった。不況は世界を覆い、震源地のアメリカを始めどの国もなかなか出口が見いだせなかった。

こんにちに似ていなくもない。決定的に違う点もある。例えば、私の家で預かっていた娘さんが、去年、いかにも幸せそうな男の児を生んだ。その赤ちゃんの福耳をみて、私が、「この児は、きっと食いっぱぐれが無さそうだ」とほめると、その若い母親が、怒りはじめた。そんなばかなほめ方はありませんよ、と笑い喋りにしゃべるのである。

人間ならたれでも食べるものぐらい、食べられるじゃありませんか。

おなじ不況でも昭和恐慌の時代と比べると、これだけ国民経済の底があがっているのである

林芙美子は、夏に着るものをすべて売りつくして海水着を着ていたという。

こんにち、大不況下ながら、そんなことはありえない。・・・・・・・・・・

昭和恐慌は左翼をつくり、次いで反作用として右翼をつくり、右翼的部分がひろがって満州事変(1931)という冒険をやらせ、うわべだけの解決を見た。」

 ・・・・・・・・・・

私は決して安心しろというつもりはないが、一部の人達は今後悪いくじを引くことがあるのを避けられないが、少しは我が国の未来に希望を抱いて構造改革を進めようではないか。

(浅谷さんブログ 2001/3より)

 

 

1930(昭和5)年代の大恐慌

大恐慌、あるいは世界恐慌は、192910月のアメリカの株価暴落によって始まり、ほとんどの主要国を巻き込み、経済の混乱は、33年、見方によれば、40年代初めまで続いた。

第一次大戦(1914年~1918年)後、アメリカは産業競争力の向上と輸出の増加によって「永遠の繁栄」を謳歌していた。しかし、欧州諸国の経済復興と共に生産や設備の過剰が表面化した。

当時の国際金融システムは金本位制に基づいており、主要各国は20年代末から30年代初めに金本位制に復帰した。ところが、アメリカは流入した金を不胎化(金保有に連動して貨幣を増やさなかった)した。そのため、その他の国は金流出を抑制するため、金利を引き上げることで不況に陥ったり、金準備が枯渇したドイツ、オーストリアでは大銀行が倒産するなどの金融危機が発生した。

日本でも金本位制への復帰による金の流出を契機の一つに“昭和恐慌”となった。

 

その後、各国は金本位制度から離脱したが、植民地を持っていた英米仏は高関税による経済のブロック化によって、自国の産業保護に努めた。

これが、日本、ドイツの膨張主義を助長する要因ともなった。

こうした展開となった背景として、英仏を中心とした世界から覇権国がアメリカへ移行する過程で、アメリカにその用意が無かったことを重視する見方もある。

また、当時、恐慌は蓄積された市場のゆがみを調整するために必要不可欠な現象とも捉える向きが多く、政府による財政出動によって有効需要を作り出すという考えは力を得なかった点を強調する見方もある。

さらに、アメリカなどにおける過度の金融引き締めにその理由を求める見方もある

世界恐慌の根本原因は、各国金本位制度によるお金の流通量減少によるのか!?

ほかにも複合的な部分があるのでしょうねえ・・・(ひとり言)

(世界経済図説第4版より)

 

1931(S6)

9月、満州事変

苦境にある国民を救うことよりも、財政規律を優先させ、国債発行を禁じ手とするような頑迷な健全財政が悲惨な戦禍を招いたのかもしれません

 

12月、犬養毅内閣が成立

高橋是清大蔵大臣(第4次1931/12/13-1934/7/8、大蔵大臣空き期間を置いて、第5次1934/11/27-1936/2/26)に任命

そして、大きな方向転換が行われた。

高橋蔵相は、金本位制から離脱して、積極財政へと転じ、国債を発行したのです。

1932年から1936年までの間に、GNP5%を超える財政出動を継続しました。

1931年から1936年にかけて、国民所得は60%増加し、1936年には完全雇用を達成しましたが、消費者物価は18%の増加、物価は安定していました。

こうして日本は、世界恐慌の下にあった当時、世界で最も早く恐慌から脱出することに成功したのです。

高橋財政は、財政赤字の拡大をもたらしました。このため、当時、財政赤字の拡大を心配して、増税を求める声が上がっていました。

しかし、高橋は1933年に次の発言をしている。

「現内閣が時局匡救(じきょくきょうきゅう、匡救とは“悪を正し、危難から救うこと”)は、財界回復のために全力を傾注しつつあるこの際、増税によって国民の所得を削減し、その購買力を失わせることは、折角伸びようとしている萌芽を剪除する結果に陥るので、相当の期間までこれを避けることを認める次第であります」

高橋是清は、信用貨幣論を概ね理解しており、通貨というものが需要によって創造されるということも理解をしていた。

 

1932(S7)

515事件

犬養首相が射殺された

これにより、政党内閣は崩壊、太平洋戦争終了後まで復活しなかった

 

1936(S11)

226事件

高橋是清は、2・26事件で暗殺された。

高橋財政の末期、軍部からの軍事費の要求を拒否して、軍部と激しく対立したが、それが暗殺の引き金になったのではないかと言われています。

高橋財政の時、荒木貞夫陸軍大臣は、軍事費の拡張のための財源を確保するため、高橋蔵相に対して、増税を要求していましたが、高橋は増税を拒否していた。高橋は

「予算も国民の所得に応じたものを作らねばならぬ。財政上の信用というのは無形のものである。その信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに専念して、悪性インフレをひきおこし、その信用を破壊するがことがあっては、国防も決して堅牢とはなりえない。軍部もこの点はよほどよく考えてもらわねば行かぬ。自分はなけなしの金を無理算段して陸海軍に各1,000万円の復活を認めた。これ以上は到底出せぬ。」と軍部予算増額を拒否した

 

そして、高橋亡き後、日本は、国債発行による野放図な軍事費の拡張を加速させ、戦争への道を突き進んでいくことになります。

 

ありがとうございましたー!!!

m(_ _)m

 

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