書籍・雑誌

2024年2月16日 (金)

新型コロナ禍の2020年6月から2021年6月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載された、小池真理子著「月夜の森の梟」が文庫化されたので、一気に読んでみた~!

 

過去に小池真理子さんの本は「恋する男たち」という複数の著者による短編集で読んだことがあったのですが、内容は忘れていました。

今回、あらためて本エッセイを読んでみて、とても丁寧な言葉づかいで書かれているなと感じました。

とてもよかったです!

 

小池真理子さん(19521028日生)が、夫藤田 宜永さん(よしなが)(1950412 - 2020130日逝去、享年69歳)を喪われてから4カ月目に書き始めたエッセイになります。

エッセイは「月夜の森の梟」という名で、新型コロナ禍の20206月から20216月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載されました。

新型コロナは20204月に最初の緊急事態宣言があって、20235月にインフルエンザと同じ5類感染症に分類されるまで続き、今は少し一息ついたところと思います。

 

2021年11月に単行本となり、20242月に文庫化されました。

 

小池さん自身、夫藤田さんが亡くなられて、すぐに新型コロナの緊急事態宣言となったことは、とても心労が重なったと思いますが、このエッセーを連載することは、小池さんご自身にとっては、救いの一つだったのかもしれませんネ。

 

『月夜の森の梟』とは、ご夫婦共に、太陽よりも月の光のほうが好きなこと。昼間よりも夜。燦燦と光がきらめく水色の空ではなく、無音の星々が瞬く群青色(ぐんじょう)の夜空を見上げている方が、心落ち着くと。そして本エッセイ―の連載第一回目の題が「梟が鳴く」で始まっています。その中で、「梟の声を聞きつけるたびに、私は夫に報せていた」とあったからだと思いました。

小池さんと藤田さんは、1984年にパートナー同志となられて、1990年に軽井沢へ移住をされています。

 

仲のいいご夫婦というよりは、同志のような感じがしました。

夫婦愛、相性の善し悪し、といったこととは無関係である。私たちは互いが互いの「かたわれ」だった。時に強烈に憎み合いながらも許し合い、最後は、苔むした森の奥深く、ひっそりと生きる野生動物の番いのように、互いがなくてはならないものになった。「かたわれ」でなければ、そうはならなかったと・・・

 

~ちょっと可笑しかったところ、興味深かったところ、共感したところ~

 

小池さんの父親は徹底した無宗教者であったため、戒名は絶対不要ということで、ご両親の位牌は俗名のままとのことでした。

自分の父親も新型コロナ禍の20227月に天国へと旅立ちましたが、同じく俗名のままです(笑)

 

そして、新型コロナのせいで動きがとれないことを言い訳にし、相変わらずぐだぐだしながら、夫の墓を用意できずに、遺骨と共に暮らしている。

お墓って、お金もかかるし、安くはないし、どこにするとよいのか難しいですよネ。

 

 

小池さんが子供の頃に大きな茶虎の雄の外猫を飼いならしていたそうですが、或る年の秋、意気揚々と外に出かけて行った彼は、二度と帰ることがなかったと。

うちの実家でも父親が生きている頃に、灰色と白色のブチの外猫(灰色が目立つので“グレ”と呼んでいました)を飼いならしていましたが、やはり、ある日を境にして帰ることがなくなりました。

 

病を得てから、夫は三島由紀夫よりも太宰治の話を好んでするようになった。

三島が太宰治を嫌っていたのは有名な話だが、夫にとっては無関係だったろう。かたちは違えど、三島も太宰も死に向かって書き続けた作家だった。死が近づいた夫は、行動することを美徳とした三島よりも、薄闇の中で蜉蝣(かげろう)のように生きた太宰の心情のほうに、より強い共感を覚えたのかもしれない。

 

余命を意識し始めた夫は、毎日、惜しむように外の風景を眺め、愛でていた。野鳥の鳴き声に耳をすませ、庭に咲く季節の山野草をスマートフォンのカメラで撮影し続けた。どこからか種が飛んできて、駐車場のコンクリートの隙間で成長し、花を咲かせた一本の痩せたタンポポですら大切に扱っていた。

彼は言った。こういうものとの別れが、一番つらい、と。

当たり前のように繰り返されていた季節。止まることなく流れるはずだった時間。美しい天空の法則のすべて。それらと別れねばならなくなるのが、本当につらいんだ、と。

 

 

Passion(パッション)」には次の意味があります。

熱情。激情。情欲。

また、「パッション」はキリシタン用語でもあり、キリストの受難や苦難を意味することもあります。

人生における「受難」と言うのは、裏を返せば「情熱」の限りを尽くしたことと同じなのではないか、と考えるようになった。熱情は時に深い苦悩に姿を変える。逆も同じである。「受難」と「情熱」は異質のもののようでありながら、実は根っこのところで分かちがたく結びついているのだ。

喪失の悲嘆や狂おしい絶望もまた、烈しいパッションに他ならない。遺された者の苦悩は、おそらく自分では気づかぬ生命の力と背中合わせになっている。

 

I want to hold your handは、ビートルズの初期の代表曲の一つである。

直訳すれば「あなたの手を握りたい」。邦題は「抱きしめたい」である。

「手を握りたい」よりも「抱きしめたい」のほうが強烈な印象を残す。

私も今、強烈に誰かを抱きしめたい。誰かに抱きしめられたい。

不安や恐怖にかられた時、心細い時、哀しみに打ちひしがれている時、誰かにそっと抱きしめられたり、手を握ってもらったりするだけで、いっとき、苦痛から逃れることができる。

冷たく凍えた気持ち、寂寞(せきばく)とした想いの中に、ひとすじの温かな光が射し込まれるのである。

いつの世でも、どんな時でも、人々はそうやって生きてきた。簡単なことだった。抱きしめる。抱きしめられる。手を握る。握り返す。たったそれだけのことが、手に負えない魔物から相手を守り、自分も守られることを私たちは知っていた。

 

生きている以上、人は誰しも例外なく、厄介な自意識に悩まされ続ける。自意識を持たない人間はいないが、同時にそれは漠とした不安や迷い、怒りや哀しみ、果ては孤独感さえ呼び覚ます。希望も絶望も、すべて自意識の産物なのだ。

 

“本物の元気”というものは、作り笑いや、こうあらねばならない、とされる世間の決まり事、有象無象の前向きな考え方、たくさんの予定をこなうこと、大勢の人々と交流すること、旅をしたり、新しいことを始めようとしたりする気分の中にあるのではない。

もっと静かに、その人間の身体の奥底に、あるかなきかの、かすかなおき火のように絶えず控えめにくすぶっていて、ふだんは決して外から見えないものなのだ。

 

 

ありがとうございました!

(_ _)m

 

Tsukiyonomori660370

2024年2月 2日 (金)

「幕末・明治 偉人たちの「定年後」(河合敦著)」、凡々人でありますが定年まで1ヶ月弱となり、幕末・明治には、どんな定年後があったのか、読んでみました!著者自身も50歳で教職を辞して、作家としての第二の人生を始められていました

 

幕末・明治の偉人たちの定年後のため、とくに秀でたところが無く、平々凡々のアラ還世代の自分に役立つのか~!?と思いましたが、読んでみましたヨ~!(笑)

 

やはり!?読後感としては、本書に登場する、ほとんどの皆さまは、第二の人生においても、請われている、求められている。そして、秀でたところを持っている方でした。

一つ教訓としては、第二の人生において、「権力」を持ち続けることは、世の中に悪影響を与える可能性が高くなること。

よって、「権力」からは離れて、少しでも社会に役立つように働くなり、活きるなりを続けることが大事であること。

そして、お金をいただけるだけの並よりも少し優れたことを身につけておけるように努力を続けることも大事なのだと思いました。

 

勝海舟(1823312日~1899119日、享年75歳)

1860年、37歳のとき、日米修好通商条約を批准するため幕府の使節団が渡米する。この際、海舟が咸臨丸の指揮官となり日本人として初めて太平洋を横断した。

1868年、45歳のとき、新政府軍西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城をした。

このとき、西郷の英断と度量の大きさを絶賛している。                                                                

1872年、49歳のとき、新政府に出仕することに同意する。廃藩置県によって藩が消滅していた。仕えるべき藩が消滅したことで、主家に義理立てする必要もなくなり、新政府の期待にこたえる気になったのかもしれない。

1875年、52歳のとき、政府の台湾出兵、清国への賠償請求に反発して、政府から離れた。

 

その後は、相変わらず海舟自身は多くの妾や子供と同居しているうえ、個人的には私財をだして徳川旧臣に援助していたこともあり、かなり生活は苦しかったようだ。篤姫との不倫もあったようです。

それでも政府の招きには決して応じようとしなかった。

 

188764歳のとき、それまでの功績が大きく評価され伯爵となり、宮内省から35千円という大金が入り、海舟本人も枢密院(天皇の諮問機関)顧問官に就任した。

189168歳のとき、嫡男小鹿を失う。海軍軍人となって少佐までのぼったが、病弱のため前年には予備役に編入をしていた。

海舟は慶喜に書簡を送り、「慶喜公の末っ子を養子として勝伯爵家にもらい受け、その血筋に爵位をお返しした」と申し入れた。

海舟には長崎時代の愛人に産ませ、手元で育てた梅太郎がおり、彼に伯爵を継がせる事も出来たが、敢えて慶喜の子を貰い受けることにしたのである。おそらく福沢諭吉の「やせ我慢の説」に対する海舟の返答だと思われる。

潔い決断だと言えるだろう。

1897年、73歳のとき、上野に建てられた西郷隆盛像の除幕式に参列。

西郷のことを「ごく優しい奴だったよ。アハハなどと笑ってね、温和しいひとだったよ」などと評した。

1899年、75歳のとき、風呂から出たところで急に倒れ、間もなく亡くなった。最期の言葉は「これでおしまい」と伝えられている。

 

榎本武揚(1836105日~19081026日、享年72歳)

1868年、32歳のとき、江戸城は無血開城したが、武揚は新政府軍への旧幕府艦隊の引き渡しを拒み、軍艦8隻を引き連れて品川を脱し、新政府に敵対する東北諸藩を海上から支援、その後、仙台に集まった旧幕府方の人びとを乗船させて蝦夷地へ渡った。旧幕府軍は松前藩や新政府軍を駆逐して蝦夷全島(北海道)を制圧し、函館の五稜郭を拠点に政権を打ち立てた。

しかし、箱館戦争の首謀者として新政府に降伏することとなった。

意外なことに武揚をはじめ五稜郭政府の閣僚たちは、投獄されたものの、最終的には全員が命を長らえた。

箱館戦争で新政府の参謀として活躍した黒田清隆が、武揚はじめ旧幕府軍の助命を強く主張したためであった。

1872年、36歳のとき、新政府の官僚(北海道の開拓使)に登用されることになった。

このほか松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助らもみな、開拓使に出仕することになった。

その時の、開拓使次官は黒田清隆であった。

1875年~1877年、39歳から41歳のとき、ロシアとの交渉の結果、ロシアとの領土交渉に臨み、樺太を放棄する代わりに千島列島すべてを日本領とし、さらに10年間のクシュンコタンの無税化や近くでの漁業権を獲得、樺太千島交換条約を結んだ

1879年、43歳のとき、外交手腕を買われて外務次官に登用され、44歳には海軍卿となった。46歳には、駐在特命全権公使に任じられて清国に赴任。

1884年、48歳のとき、伊藤博文を補佐して、天津条約締結を果たした

武揚の李鴻章と肝胆相照らす仲になっていたから、と言われている。武揚は人に好かれる質であった。

正直さと誠意、これが武揚を立身させた最大の要因だったのだろう。

1894年、58歳のとき、農省務大臣になる

1897年、61歳のとき、足尾銅山の鉱毒による被害農民の代表と会い、さらには現地へも視察に出向いた。そして、その被害の大きさに衝撃を怯え、政府に鉱毒調査委員会を設置する。だが銅山側と政府高官が結託していたのか、なかなかそれ以上の対応が難しく、責任を感じた武揚は大臣を辞職、以後、政府の要職から去った。

1898年、武揚の嫡男・武憲が結婚した。27歳。その妻となった梅子は、黒田清隆の娘であった。

その二年後、黒田清隆逝去(享年61歳)

その八年後、榎本武揚逝去(享年72歳)

 

副島種臣(18281017日~1905131日、享年76歳)

佐賀藩に生まれた。

幕末に政治活動をしていた数少ない佐賀藩士であった種臣は、すぐに政府に登用されて参与となり、さらに参議(いまでいう閣僚)に上った。漢学の素養が深く英学もかじっていたので、

1871年、43歳のとき、外務大臣となり、ロシアとの国境問題の解決、日清修好条約(初めての対等条約)を批准した。

1874年、46歳のとき、西郷隆盛が下野すると、これに同調して政府を辞めて、板垣退助らと民選議院設立の建白書を提出した。

1879年、51歳のとき、漢学的素養と篤い尊王思想を買われて“宮中”に入った。

1886年、58歳まで、明治天皇を英君とすべく全霊をこめて講義を続けた。

1904年、75歳まで、明治天皇に請われて、枢密院顧問官を務めた。

1905年、76歳、逝去

 

板垣退助(1837520日~1919716日、享年82歳)

1899年、62歳のとき、党利党略による醜い争い、政治家の金権体質など政治の世界にほとほと愛想をつかし、政界を引退した

1900年、63歳のとき、西郷従道(隆盛の弟)とともに中央風俗改良会を立ち上げた。

家庭の改良、自治体の改良、公娼の廃止、小作や労働者問題の改善、といった、社会のさまざまな問題を解決して、日本全体をより良くしていこうという非常に幅の広い活動であった。

1919年、82歳で亡くなるまで、私財を投げ出して、社会問題に取り組んだ。

 

山県有朋(1838614日~192221日、享年83歳)

1889年、51歳のとき、1898年、60歳のときの二度、総理大臣の大命が下り、内閣を組織した。

2度目のときには、社会主義運動を取り締まる治安警察法、政党の軍や官界への進出を防ぐための軍部大臣現役武官制度や文官任用令の改正を断行した。

1900年、62歳のとき、首相を辞任し、この後は天皇の補佐役、元老として、伊藤博文、黒田清隆の中に加わった。彼らは元老会議を開いて、次の首相候補を決め、天皇に推薦する。それを天皇が拒否した例は無いから、実質的に内閣首班を指名できる権限を有していた。

1901年、63歳のとき、自分の配下である桂太郎を首相にして内閣を組織させた。

桂太郎は愛想がよく人間関係に長けていた。が、多数の社会主義者を検挙、幸徳秋水をはじめ無実の社会主義者を多数処刑・処罰した。これを「大逆事件」と呼ぶ。

そして、権力に固執し、後継者育成に失敗。

“桂太郎”のほか、“寺内正毅”や、清濁併せ呑む“原敬”がいたが、いずれも有朋よりも先立ってしまう。

“原敬”が刺殺された翌年に、体調を崩し、回復することなく死去。享年83歳。

有朋の最大の趣味は造園であった。有朋は金にまかせてあちこちに別荘をつくったが、その庭園はすべて自らが指揮してつくり上げている。まことに見事なものである。今でも私たちは、東京目白に彼のつくった名庭を目にすることができる。そう椿山荘である。

また、東邦生命の母体となった、徴兵保険株式会社も、有朋の陸軍における圧倒的な権力によって、明治29年、1896年に創業した。

 

高橋泥舟(1835315日~1903213日、享年67歳)

高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟は、「幕末の三舟」と呼ばれた幕臣として知られている。

1871年、36歳のとき、廃藩置県によって、藩が消滅した。勝海舟と山岡鉄舟は新政府に仕えることになり、海舟は新政府の閣僚、鉄舟は宮中に入って明治天皇の側近となる。

ところが、泥舟だけは、新政府に出仕しなかった。

泥舟は第二の人生をあえて栄達を求めない生き方を選んだ。一切政治的な発言を控えた。すなわち、徳川家の滅亡と共に己の存在を消し去ったのである。

徳川慶喜への恩義、「ニ君に仕えず」という士道を決意し、矜持を大事にした。

「世の人。名誉心のために、日夜に地獄を作り出すこと愚かなり。さて、死に支度として、生前人道に背かぬように、万事心がけ、生きて神仏に恥無きように、死に至るまで怠らず、たゆまず生き遂げてこそ、よき死に支度であろう」

いくつもの歌や名言を残して、67歳でこの世を去った。

 

前島密(まえじま ひそか、183524日~1919427日、享年84歳)

「郵便の父」と呼ばれている。

1881年、46歳のとき、役人を依願退職したが、1887年、53歳のとき、官僚へ復帰する。

当時の逓信省初代大臣榎本武揚に請われて、逓信次官となった。

郵便電信局や郵便電信学校を創立、電話事業を官業として成立させた。

しかし、短気なこともあり、1891年、57歳で、またもや退職。

その後は実業界でも活躍した。

1902年、67歳のとき、華族となり、69歳で貴族院議員となったが、75歳で、これまた辞職。

その後、76歳から84歳で亡くなられるまで、神奈川県横須賀市の山荘で作庭を楽しみながら静かに暮らした。

 

北里柴三郎(1853129日~1931613日、享年78歳)

1914年、61歳のとき、北里研究所(現在の北里大学病院)を立ち上げる

1917年、64歳のとき、慶応義塾大学医学部創設にも関わることになる

ほかにも生活困窮者を救済するための済生会創設にも関わり、大日本医師会(現在の日本医師会)の創設、公衆衛生や健康保険制度の実現にも尽力した。

そして、1931年、78歳で死去。

突然の死であった。前日まで何の変化もなく、翌朝、なかなか起きてこないので、家族が寝室に様子を見に行ったところ、すでに息を引き取っていたのである。まるで眠っているように、ふとんも着衣も乱れていなかったという。見事な大往生であった。

 

東郷平八郎(1848127日~1934530日、享年86歳)

19055月、57歳のとき、日露戦争における連合艦隊艦長として、ロシアのバルチック艦隊を撃破して勝利に導いた。

同年10月、軍艦三笠が、佐世保港内で事故により沈没、いまだに原因は不明だが、339人という大きな犠牲が出た。日本海海戦のじつに3倍もの死者であった。

1913年、65歳のとき、元帥となった。これにより、死ぬまで現役となったのである。

そして、73歳まで東宮御学問所の総裁となって、昭和天皇の教育に努めた。

80代で軍縮条約をめぐる抗争、軍縮の調印に反対な勢力の中心となった。

結果として、太平洋戦争への起点のひとつになってしまった。

 

渋沢栄一(1840316日~19311111日、享年91歳)

言わずと知れた実業家となりますので、その点はのぞきます。

主君であった慶喜の功績を正しく評価してもらうため、25年の年月をかけて『徳川慶喜公伝』全8巻を完成させた。

晩年の活動として特筆すべきは、アメリカとの民間親善外交を推進した。栄一は生涯に4度、渡米している。1902年、62歳のときには、セオドア・ルーズベルト大統領とも会談した。

「平和こそが経済を発展させ人びとを幸せにするのだ」という信念を持っていた。

そこで、日米同志会、日米協会、日本国際児童親善会などをつくって民間の立場からアメリカとの関係改善に尽力し続けた。

1931年、91歳で死去。

残念ながら、それから10年後、日米両国は全面戦争に突入・・・

 

秋山好古(185929日~1930114日、享年71歳)

日露戦争で活躍した日本騎兵の父。

1923年、64歳のとき、予備役に編入となり定年となった。

「男児は生涯において一事を成せばよい」が口癖であり、

「人は一生働き続けるものだ」が信念であった。

好古は士官になる前は教師であった。

好古が本当にやりたかったのは軍人ではなく、教師ではなかったのか。

そう思えるくらい、定年後に校長となってからの好古は熱心に生徒たちの指導にあたった。

糖尿病で亡くなる半年前まで校長を勤め続けた。

 

福地源一郎(1841513日~190614日、享年64歳)

明治10年代、自由党、立憲改進党、立憲帝政等と呼ばれる初期三政党が成立した。

福地源一郎は、そのうちの立憲帝政党と立ち上げた人物である。

このことは全ての日本史の教科書に掲載されている。

頭はよいが、職を転々として、借金はするし、道楽もすごいので、ちょっと参考にはならないと思いました。

 

林忠崇(はやし ただたか、1848826日~1941122日、92歳)

18歳の若さで上総請西藩主であったが、大政奉還で江戸幕府が消滅、新政府軍に敗れて降伏した。死一等は免れたが、親類大名である唐津藩の小笠原家にお預けとなった。

1872年、24歳のとき、ようやく自由の身となった。

その後は職を転々としながらも、1893年、45歳のとき、林家は華族に列せられ、忠崇も従五位なった。しかし、妻チエの病気により、帰郷をするために、職を辞することになった。

その後、妻は無くなるが、娘のミツと共に会社を経営し、好きな絵や和歌に没頭して悠々自適の生活を送られた。

92歳で眠るように逝った。

「最後の大名」であった。

 

新選組隊士

永倉新八(1839523日~191515日、享年75歳)

斎藤一(1844218日~1915928日、享年71歳)

新選組の歴史を後世に伝えたと言われています。

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

 

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2023年12月31日 (日)

もう間もなく還暦ですが、外山 滋比古氏(とやま しげひこ、1923年~2020年)の『50代から始める知的生活術』「人生二毛作」の生き方を読みました~。外山氏は英文学者でありながら、知の巨人です。心にとめておきたいことを記載致します~!


人生は二毛作がいい

人生の二毛作を志すなら、隠居生活などは、たとえどんなに資産があるとしても、考慮の埒外です。

 

送別会という習慣。ことに定年退職者の送別会には、欺瞞の空気が漂っています

一見、送られる側の人間の労をねぎらっているかのようですが、出席者がみな、本心からそう思っているとは限りません。忙しいさなかに、なんでこんな宴会に出なくちゃいけないのかと感じている若手もいるでしょう。

現役優位の構図がそこにはあるのです。会社にまだ貢献できる現役組と、そうではなくなった定年組。現役組は定年組を哀れむ。優位にある送る側が、送られる側への惜別の情を演じる場。それが定年退職者送別会です。

退職時の宴会は、送る側も送られる側も、腹に灰汁のようなものが残っていて、互いに居心地の悪さを感じます。その灰汁を取り除いて(1年くらい時間を置いて)、スッキリした思いで杯を酌み交わすのが、やさしい文化、礼節であるとも思います。

 

江戸時代の儒学者、幕府の儒官もつとめた佐藤一斎が、『言志四録』という随想録でこんな言葉を残しています

若くして学べば、則ち壮にして為すことあり

壮にして学べば、則ち老いて衰えず

老いて学べば、則ち死して朽ちず

かつて、小泉純一郎元首相が、国会で引用したことが知られていますが、この

『老いて学べば、則ち死して朽ちず』の心意気がいいではありませんか。

 

「淡交」のススメ

雑談・放談が体調維持に効果がある。雑談・放談は、人生の最大の楽しみであり、人間が発見した最高の元気の素ではないでしょうか。若返りの秘薬といってもいいかもしれません。

 

「ホスト(host、主)」のススメ

人を招いておもてなしをすること。豪華な宴を設けるわけではありません。文字通りの粗餐、ささやかなものではあるのですが、会食のホストになることが、これほど心楽しいものであるとは思いませんでした。

 

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」

とくに「義理を欠け」は、年をとったら、ときに浮世のじがらみを振り切る勇気がいります。

 

「留学しなくたって研究はできる」

「源氏物語」を英訳して世界に知らしめたアーサー・ウェイリーは日本に招聘されたとき、「自分の愛する日本は昔の書物のなかにある」と、辞退したそうです。

アメリカの文加人類学者、ルース・ベネティクトは戦時中、日本の研究をしました。もちろん、日本を訪れたりはできません。それで『菊と刀』という名著を書き、戦後の日本人を驚かせました。

 

「考えは寝かせる」

論語に、「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」という言葉があります。この「時にこれを習う」というのが、思考を寝かせることに通じるのです。

アイデアを時間かけて温める

眠っている時、夢を見ている時、歩いている時、アイデアが浮かぶ。すぐに書き留められるように枕元にも紙と鉛筆を置いておく。書き留められ、温められたアイデアは10年後かもしれないが形になる。

・とにかく書き出してみる。それを数日後など、時間をおいて眺めてみること。

 

「三上」と「三中」

・昔から良い考えが浮かぶのは「三上」といって、馬上、枕上、厠上の三つ。要するに馬の上、床の中、トイレの中ということだが、馬上はいまの時代でいえば通勤途中ということになる。

・「三中」の状態も思考の形成に役立つと思う。これは夢中、散歩中、入浴中である。人間はその気になればいたるところで学び、考えられるということだ。

 

「忘却曲線」でしられるドイツの心理学者、エビングハウスによれば、人は20分後に42%を忘却し、1時間後には56%を、さらに1日後には74%を忘れるそうです。そして、自律的に忘却から残った知識が、なにかっほかのものと結びついて新しくよみがえります。

 

若い時にモンテーニュの『随想録』を読みましたが、少しもおもしろくありませんでした。途中で放り出してしまいました。

50歳を超えて、身辺におもしろくないことが続発し、いくらか世をはかなんでいるときに、モンテーニュを開き、心をこめて読み、それまでにない感銘を受けました。わからないところは、自分の頭で考えて分かったことにしました。このようなベータ読み(未知の読むこと。逆にアルファ読みは既知を読むこと。例えば、前の晩にテレビで観た野球の試合について、翌日新聞で読むこと)をすること。

年老いて本を読むなら、ベータ読みです。アルファ―読みは時間つぶしにしかなりません。

 

「生き方」を学ぶ

それとなく、おもしろい生き方を教えてくれるのは、エッセイです。かつては随筆と言われたものですが、エッセイは随筆とは違い、ものの考え方が含まれていて、人生的です。

子ども、若い人にとって、エッセイは絵に描いた餅ほどの意味もありませんが、中年の人、世間というものをいくらかでも知った人にとって、エッセイは、小説よりおもしろくなります。

小説は同じ作品を二度繰り返し読むということは少ないのですが、すぐれたエッセイなら何度読んでもいやになったりしません。

内田百閒の『百鬼園随筆』、『阿房列車』は名文です。

おもしろいことは何も出てこないのに、たいへんおもしろいから不思議です。

寺田寅彦全集もおもしろく、ものを考えるということをぼんやりながら理解するようになりますた。

内田百閒も寺田寅彦も夏目漱石の門下です。漱石の作品にもつよい関心をもっています。

定年ですることがなくなったら、寅彦は百閒のようなエッセイをじっくり読めば、新しい自己があらわれるのではないかと思われます。

 

ローマの皇帝アウグスティヌスが言ったという「ゆっくり急げ」は至言です。

急げや急げ、ではいけません。ゆっくりゆっくりもいけません。

ゆっくり急ぐ、これがよろしい。

年をとった人間は、若者よりは、ゆっくり急ぐことができますが、なお、急げや急げになったり、ときには、ゆっくりボンヤリとなったりします。

うまく、ゆっくり急ぐ生き方をすれば、すばらしい二毛作になります。

 

忘れようと思ってもなかなか忘れられないことでも、書いてみると、案外、あっさり忘れることができます。書いて記録してあると思うと、安心して忘れることができるのです。

いっそ、勤めていたときの自分史を書いてみると、本当に、過去から離れることができるかもしれません。

過去を捨てるのではなく、過去と絶縁するための記録です。

前半生を忘れて、新しい後半生を始める決意において、われわれも、出家的に生きることはできるはずです。

人間にとって過去は大切ですが、それにとらわれて、前向きに生きられないのではよろしくありません。

過ぎ去ったこと、ことに、よくない過去は少しでも早く忘れてしまうことです。そのあとの頭で、新しい生き方を考え、工夫するのが賢明な人間であるとしてよいでしょう。

 

残照夢志

残照とは、「日が沈んでからも雲などに照り映えて残っている光。夕日の光。残光。」、そこで、たとえ老いても、

夢志とは、夢は漠然とした個人の願望であり、志は個々人の願望を超えて多くの人々の夢を叶えようとする気概です。夢はこころよい願望になるが、それを叶えるための厳しい未来への挑戦し続けること。

 

とにかく「新しい勉強」をしよう。超老人の志です。

 

ありがとうございました~!!

m(_ _)m

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2023年11月12日 (日)

来年2月に還暦。そして定年を迎えますが、その心構えとして『部長の大晩年』城山三郎著(部長にはなれませんでしたが(笑))を読んでみました~!

 

1955年、当時は55歳定年で、キッパリと三菱製紙高砂工場での会社員人生を離れて、第二の人生、俳人人生を謳歌された。

永田耕衣氏1900/2/211997/8/25、享年97歳)について書かれた本でした

 

1900 221、兵庫県加古郡尾上村(現:加古川市)に父岩崎林蔵、母りゅうの二男として生まれる。よって、西暦の下2桁が永田耕衣氏の年齢でもありますネ!

1906 尾上村立尾上尋常高等小学校尋常科に入学

1912 尾上尋常小学校高等科入学。国語作文を好んだ

1914 尾上尋常高等小学校高等科卒業。兵庫県立工業学校(現:工業高等学校機械科)入学。俳句に関心を持ち始める

1917 兵庫県立工業高校卒業。三菱製紙所(現:三菱製紙高砂工場)入社

1919 右手を抄紙機(しょうしき、紙を抄(す)くための機械。製紙工場において紙を連続的に抄く機械である)にはさまれ、手甲が組織壊滅、そのため指3本の機能を失った。大変な事故であったが、戦争へ行かずに済んだ

1920 赤坂ユキヱと結婚。毎日新聞兵庫県付録の俳句欄(岩木躑躅選)に投句を始める。

1922 長男正誕生。岩木躑躅を訪問するようになる。

1928 武者小路実篤に傾倒。「新しき村」に入村を志すが、村外会員となる。「新しき村」に小説、自由詩等を発表

1929 原石鼎の「鹿火屋」に投句を始める

1934 第一句集『加古』刊行

1937 文化趣味の会「白泥会」を結成。棟方志功、河井寛次郎、柳宗悦、濱田庄司ら の芸術談を聞く会であった。特に棟方志功とは個人的にも芸術談を交わすほどの間柄となった

1940 石田波郷の「鶴」に投句を始める。(のち同人となる)

1947 西東三鬼1900/51962/4 俳人、歯科医、享年61歳)を神戸山手の三鬼館に訪問。石田波郷の推薦で「現代俳句協会」設立当初の会員となる。6月、「近畿俳話会」誕生。席上で伊丹三樹彦、赤尾兜子らを知る。

1948 西東三鬼の推挙で「天浪」同人となる。山口誓子に傾倒する。

1949 1月、社内で耕衣中心の俳誌「琴座(りらざ)」が生まれる。

1950 1月、母りう逝去、享年91歳。「母の死や枝の先まで梅の花」

1952 三菱製紙高砂工場製造部長に任命される。のち、研究部長を兼務し、多忙な生活であった。

1953 「天浪」脱退。「鶴」に戻る。以降、西東三鬼から怒りを浴びることになる。

1955 三菱製紙高砂工場を定年退職。神戸市に転居。近所には赤尾兜子(あかおとうし 俳人、毎日新聞社記者、男性1925/21981/3 享年56歳)がいた。そこで、耕衣は毎日新聞神戸版の俳句選者となる。

1956 近所に住む赤尾兜子が足繁く訪問。俳句談義を交わした。

当時神戸在住の金子兜太(かねことうた 俳人 1919/92018/2 享年98歳)を知る。

1959 高柳重信1923/11983/7 享年60歳、肝硬変による静脈瘤破裂、お酒好きであったのかも!?)赤尾兜子らと同人に加わる。

1964 神戸新聞会館文化センターで初の書作展開催。句集『悪霊』で半どんの会文化賞受賞!

1971 実兄の清市が逝去。享年87

1974 神戸市文化賞受賞。

1976 金子晋(すすむ)という、新しい仲間が加わった。耕衣よりも32歳年少。小柄で筋肉質。好奇心旺盛で身の動きも、頭の回転も速い。中学の国語の教師であり、教師の傍ら俳句を作った

1977 兵庫県文化賞受賞。

1981 赤尾兜子が急逝。大きなショックを受ける。享年56歳、阪急電車への飛び込み自殺と言われています。一方、神戸新聞平和賞受賞!

1983 「俳句評論」が高柳重信の死により廃刊。

1985 「永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集」が朝日文庫より刊行

1986 「永田耕衣」が春陽堂俳句文庫より刊行

ここ5年ほどの間に句集三冊、文集「濁」(沖積舎)より刊行

1989 高砂文化賞受賞!

1990 第二回現代俳句協会大賞受賞

1991 句集『泥ん』で詩歌文学館賞受賞

1995 阪神淡路大震災で被災。家は崩壊。耕衣自身にケガは無かったが、階下に住んでいた息子夫婦は大ケガすることとなった。耕衣自身は、大阪府寝屋川の特別養護老人ホームへ移る。

1996 朝食に向かおうとしてころび、左上腕骨を折る、19歳のときから、文字通り腕一本で働き続けてきたその左腕までが、こうして休養を強いられることになり、口述に頼らねばならなくなった。

1997 自らの意志で「琴座」を終刊し、「琴座俳句会」を解散する

この年、本書の著者城山氏は、永田耕衣と直接会うこととなる(246頁)

耕衣には、後輩の金子晋が付き添っていた

「空海には妙味があった。自己解放的なところが・・・。人生の裏に一つのユーモアを感じて。道元もユーモア的人間になりたいというところがあったろうけど、あまりに自分に厳しすぎて・・・。哲学好きだけど、そこにとどまっていた。茶化すところが無かった。もうちょっと遊んで欲しかった」

「枯草は清潔や。汚れが無い」と話を聞いた。

そして、825日、肺炎のため死去。清潔な枯草のように、976ヶ月にわたる生涯を終えた。

逝去地 大阪府寝屋川市

兵庫県加古川市尾上町今福・泉福寺に埋葬される。

戒名は生前に自ら付けた「田荷軒夢葱耕衣居士」であった。

 

「茄子や皆事の終わるは寂しけれ」

「放せ俺は昔の夕日だというて沈む」

 

からだ(健康)について

61歳の時、心臓障害で倒れたが、大事には至らなかった、

この三年後、今度は奇病とされた泉熱(いずみねつ、山の湧水や井戸水などの人間の手によって消毒処理がなされていない生水を飲むことによって感染するもので、原因となるものは偽結核性エルシニア菌です。突然の発熱、発疹、腹痛、嘔吐、下痢の症状が現れて、発熱は短期間に二度起こり、およそ1週間程度継続します。治療は抗菌薬の投与となりますが、腎不全を併発した時には人工透析も行われます。)にかかる。

血圧は150-100を保っており、まずまずの健康と言える。

「人生を弾ませ、長生きを導くものこそ好奇心である。筋のいい好奇心を想像してゆきたい」

好きな言葉は

「清忙成養 過閑非養」(『言志耋録』322条のことば、せいぼうせいよう、かかんひよう、清忙は養を成す。過閑は養に非ず。心に清々しく感じる忙しさは養生になる 過閑非養。過閑は養に非(あら)ず。 余りにひま過ぎるのは養生にならない。

 

72歳の時、右首が痛くなり、筋肉弛緩剤、自律神経安定剤などを服用するようになる

75歳の時、腎臓結石、二日後に放出で収まる

78歳の時、血圧不安定のため、不快感が続く

82歳の時、左コメカミに黒色ほくろが肥大。凍結法で除去

83歳の時、左胸部に二条の白雲状の棚引きが観られたが、問題は無かった

84歳の時、三つちがいの妻ユキエが股関節老化による疼痛に悩まされる。二年後に死去(享年83歳)

耕衣自身は、平均よりやや良いといった健康状態で推移していた

91歳の時「わたし死ぬような気がしないの」との宇野千代の言葉に発奮したかのように、125歳まで生きる」と宣言

しかし、ときどき眩暈に襲われたことがあり、歩道の上でごくゆっくりと倒れた。左大腿骨骨折、そのまま入院となり、金属製支柱を埋め込む手術となった。三カ月のう入院生活となったが、ほぼ以前と変わらぬ生活を送れるように回復した(217頁)

96歳の時、朝食に向かおうとしてころび、左上腕骨を折る。19歳のときから、文字通り腕一本で働き続けてきたその左腕までが、休養を強いられることになり、口述に頼らねばならなくなった。

このころより、耕衣のエネルギーも確実に失われていき、腕が回復し、なんとか筆を持つことができるようになってからも、まとまった文章を書くのが、苦痛になった。(237頁)

97歳になり、少しずつ食欲が落ちてゆき、825日、耕衣は清潔な枯草のように、976ヶ月にわたる生涯を終えた。

 

永田耕衣のハートについて

「実務に集中」あってこそ「佳句」が得られるというわけで、実務は適当に手抜きし、俳句に全力を、などという生き方を批判する。会社にも作句にも全力投球しろ。それが結局、佳句を生むことになる。

耕衣自身もその自覚を持って生きてきた。(120頁)

 

「毎日が日曜日」の耕衣にとって、楽しくない時間や不本意に過ごす時間は無かった(156頁)

 

「出会いは絶景」

 

60歳の時、健康上、そして経済的な理由により、誓ったこと(161頁)

『理髪 二カ月で一回に

映画館行き やめる

夜の会合 出ない

ビール 毎日小瓶一本』

「道元を改めて学ぶべし」

“正法眼蔵”と民俗学に力を入れて勉強せん」

 

年をとると、生きている喜びが深くなる。私にあっては、旅をすることでもなく、世間に存在を媚びることでもない。古人今人の秀れた文章を毛穴から読みとることである」(192頁)

 

多くの子どもと同様に、耕衣も母寄りの子に育ち、父親よりも母親に、よいイメージを持った

 

最後に松岡正剛氏の千夜千冊より

 

37歳のころ、「白泥会」をつくった。柳宗悦に共感したためで(これは実篤への共感よりずっといい)、工楽長三郎という素封家が世話人になって、『陶器事典』全六冊で知られる岡田宗叡が目利きとなったもので、ここに棟方志功や河井寛次郎も呼べた。このあたりから耕衣は飛びはじめる。戦時中に石田波郷の「鶴」の同人となり、西東三鬼と交わり、やがて「琴座」を主宰した。

 

耕衣は老いてからだんだん凄まじい。そういう老人力というものは昔から数多いけれど、ぼくが接した範囲でも老人になって何でもないようなのはもともと何でもなかったわけで、たとえば野尻抱影、湯川秀樹、白川静、白井晟一、大岡昇平、野間宏‥‥みんな凄かった。なんというのか、みんな深々とした妖気のようなものが放たれてくる。正統の妖気である。

実際にも、耕衣は老いるにつれて「平気」ということをしきりに言うようになっている。それとともに以前から好きだったらしい盤珪の不生禅(☆)の底力のようなものが加わってきて、なんだか事態を見据えてしまったのだ。いや、精神は事態を見据えて、そのぶん俳諧が静謐な「バサラ」(☆)になっている。

 

☆盤珪永琢(ばんけいようたく)

「不生禅(ふしょうぜん)」という教えを唱え、多くの人に仏法を説いた禅僧であり、逸話も多い。

盤珪禅師は、自身の永年にわたる生死をかけた厳しい禅修行を「無駄骨を折った」とあっさりと否定し、そんなものは一切不要であると言い切られるのです。ありのままの自分でいい。なぜなら、「仏心」は生まれながらに私たちに具わっているもので、けっして生まれるものでも、死んでなくなるものでもない。このことに私たちが気付きさえすれば、心安らかに人生を歩んでいけると背中を押してくださるのです。

無理をすることは必要ではない。ありのままでいい。できることなら皆には、厳しく辛い修行をすることなく気付いて欲しい。誰もが幸せに生きて欲しい。ここに私は、宗教家・盤珪禅師の深甚たる慈悲の心とも言うべき「願い」を感じずにはいられないのです。

 

腹の立ち方に3種あり

仏教には、腹を立てるということに関して人には3つのタイプがあるとする考え方がある。

そのタイプとは、次の3つである。

 

岩に刻んだ文字のような人

砂に書いた文字のような人

水に書いた文字のような人

 

岩に刻んだ文字のような人とは、腹を立てたその怒りがまるで岩に刻まれた文字のようにいつまで経っても消えることがなく、延々とくすぶり続けている人。

砂に書いた文字のような人とは、腹を立てたその怒りがある程度頭に記憶されるが、時間の経過とともに薄れていき、あたかも風に吹かれて消えていく砂の文字のように、やがて怒りが消滅する人。

水に書いた文字のような人とは、腹を立てたその怒りにこだわりを持たない人。

人から馬鹿にされても、「何を言っているんだか」と呆れることのできる人。

怒りの本質は、自分を可愛がる気持ちにあることを知っている人。

私がこの考え方を面白いと思ったのは、この3タイプはいずれも腹を立てた後の「怒り」の変化を表しているのであって、誰もが腹を立てるということに関しては一緒なのだということだ。

腹を立てない人はいない。

よく、修行をすれば腹を立てることもないというような、聖人のようなイメージを持たれることがあるが、そうではない。

腹は立つ。

ただ、立った腹がどう変化するかは、人によって違いがある。

水に書いた文字のような人であれとは、怒りという気持ちと無縁な人間になれと言っているのではない。

そんなありもしない理想を言っているのではなく、心のコントロールに責任を持てと言っているのである。

自分の心に責任を持つことが、精神における子どもと大人の違いにほかならないからだ。

 

☆ばさら

日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。「婆娑羅」など幾つかの漢字表記がある。

身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識であり、室町時代初期(南北朝時代)に流行し、後の戦国時代における下克上の風潮の萌芽ともなった。ただし戦国時代の頃になると、史料には「うつけ」や「カブキ」は出てくるが、「婆娑羅」およびそれに類する表現は全くと言っていいほどなくなった。

 

ありがとうございました~!!!

m(_ _)m


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2023年9月10日 (日)

「じい散歩」 藤野千夜(ふじの・ちや)著「夫婦あわせてもうすぐ180歳、三人の息子は、全員独身」朝日新聞の本書広告を読んだ母親が「読みたい!」ということで購入~、渡す前に読んじゃいました。ノンフィクションかと思いましたが、藤野氏は芥川賞作家であり、物語でした~!

 

朝日新聞での本書の広告は、「夫婦あわせてもうすぐ180歳、中年となった3人の息子たちは、全員独身。長男は高校中退後、ずっと引きこもり。次男は恋人が男性の自称・長女。三男はグラビアアイドル撮影会を主催しては赤字で、親に無心ばかり。そんな一家の日常をユーモラスに、温かな眼差しで描く・・・」

とあると、とくに高齢者の方は、読みたくなるように思いました。

 

当年83歳の母親も“読みたい!”ということで、購入したのですが、いやいやなかなか登場人物が多くて驚きました・・・

これ、高齢者の方は登場人物を覚えながら、読めるのかしらと・・・

自分自身もメモをしながら、読みました。(^^;

 

主人公は、大正生まれの「明石 新平 89歳」、「妻の英子 88歳」

この高齢老夫婦には、三人の息子がいて、

長男 孝史(昭和37年生まれ)、引きこもり

次男 健二(昭和39年生まれ)、おかま

三男 雄三(昭和42年生まれ)、体重100キロ超で借金まみれ

 

そして、新平には男5人、女4人の兄弟がいます。
物語の中では。4人の名前がでてきます。

「定吉」、新平の5歳年下の弟

「しげる」、郷里に住む弟

「さとえ」、新平のすぐ下の妹

「はるえ」、新平の末の妹

 

英子にも、姉妹がいます。

「ひい姉」、英子と10歳以上離れた姉

「すみれ姉」、英子とちょうど10歳違いの姉、

そのすみれ姉の娘が器量よしの「さなえ」(昭和30年生まれ)で、新平、英子のになります。

 

新平の友だちで、高齢となってからはエロ映画などを一緒に楽しむ仲間

 「中本」、電気職人

 「並木」、大工

 「小嶋」、自動車屋

 

ほかに、英子が動物好きと言うことで、雑種犬の「ちいこ」、だるまインコの「たーちゃん」など。

 

途中途中で、名前だけ出てくると、この人誰だっけ、となりますよね・・・(笑)

 

いろいろな問題を抱えながらも、笑いを忘れずに生きていく”時の流れ”を、穏やかな感じに描いている“風景”のような物語でした。

そこで、物語の“内容”というより、「解説」から一部書き留めておきたいと思います。

 

歳を重ねても悩みは尽きないし、心配事も容赦なく降り注いでくる。

むしろ、若い頃より悩みの質は深刻度を増している。

介護、病気、不調、疲労、金欠、孤独・・・・

かような現象を目のあたりにするたび、悟りなどというものは、生きている限り開けることはないのだろうと、考えを改めないわけにはいかなくなった。

 

人生は穏やかでも華やかでもない。

それでも生きている限り日々は続いていく。

たぶん自らの生きているこの世界を、現実を、味わうために。

おそらく人生は、すかっと美しくかっこよく送れるようにはできていない。

歩んできたあとには、後悔だの失敗だの恥だの消沈だのの残滓が、これでもかと落ちている。

 

本書に棲む人びとと共に時を過ごすと、

自分も今まで通り、この世界にいてイイんだな、と安心する。

失敗続きで課題満載の人生を、静かに肯定してくれるようなやさしさと強さが、至るところに散りばめられている。

シビアな現実につきあたり、立ち止まってしまったら、美味しい饅頭をお供に、新平の散歩に付き合えばいい。きっと再び、目の前の景色は息を吹き返し、鮮やかな彩りを取り戻すだろう。

 

ありがとうございました~!
m(_ _)m

 

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2023年8月12日 (土)

2015刊行、五木寛之氏83歳のときの作品で原題は「嫌老社会を超えて」、それを大幅に加筆し再構成しなおして2017年に「孤独のすすめ(人生後半の生き方)」として書き下ろした本書。“孤独”に魅かれて読んでみました!

 

人には「食欲」や「性欲」と同じように「生存欲」という人間の持つ根源的な欲求。いくつになっても生きていたいと本能的に思う。

私自身にもその本能はあります。同時に、その本能の背後にどんなものが潜んでいるのかを繰り返し考えてみて、ふと、こんな結論を得ました。

笑われるのを承知で言えば、私は「この世界がどう変わっていくのか、観ていたい」だけなのです。

日本だけではなく、アジアが、世界全体が、この先どのような変貌を遂げていくのかを目撃したい。知りたい。そのために長生きしたいと思う。

私はあと5年、できれば10年は長生きをしてこの国の未来が観たい。「起て、老いたるものよ」と自分を奮い立たせながら、この国の行方をしっかりと見守っていこうと思っているのです。

 

90歳まで生き、宗教家の中では最高齢者と言える親鸞は、85歳の頃に書いた手紙の中で、

もう自分は目も見えない、なにごともすぐ忘れてしまう。人様に教えを説くような身ではないと、自分の状況を正直に見据えているのです。

あれほど頭脳明晰で天才的な思想家であった親鸞でさえ、やはり晩年は衰えていく。その現実を、自分で明らかに究めているわけです。

親鸞はくっきりとした美しい字を書く人でした。しかし晩年の手紙は文字も乱れ、判読しにくい部分もあります。どれだけ社会的に活躍した人であれ、立派な思想家、宗教家であれ、老いるとそうなっていく。それはある意味、自然の摂理です。

人間に必ず訪れる老い、その現状を明らかに究めて、受け入れる。受け入れた上で、視点を転換して、そこに新しい展開を模索する。それが、大事なのではないか。

 

豊かな国に拡がる不安

会社でリストラに遭ったとか、病気になったとか、「切実で現実的な」不安に駆られている人も、少なくはないでしょう。でも、それとはちょっと次元の違う、漠然とだけれど、しかし「巨大な不安」に、国全体が覆われているように思えるのです。

日本人は、誰もが漠たる「巨大な不安」を抱えていきています。その不安と面と向かって対峙したのでは、身が持たないかもしれません。「年金も保険もない老後など、想像できない」というより、「したくない」のです。

みんながするべき心配から意識的に目をそらし、お気楽に日々を送る日本の現実を、私は「心配停止」社会と名付けました。「心肺停止」をもじった、下手な造語です。

この国が、本物の「心肺停止」になる前に、なにかやるべきことはないのでしょうか。

 

「嫌老社会」から「賢老社会」へ

50歳になったら、それまでの働き詰めの人生を一度振り返り、「よりよい生き方とは何なのか」を考えてみよう。50歳を過ぎて、人生の後半に入ったら、好きな趣味の世界に没頭しれいればいい、ということではないのです。

「よりよい生き方」の最たるものは、「社会貢献」であるはずです。働くことに生きがいを感じられるのなら、年齢制限なく、そうすべきです。

できるだけ社会保障のお世話にならない覚悟で生きていく。百歳過ぎたら選挙権は悠然と下の世代に譲り、政は彼らに任せる。

 

人間不信と自己嫌悪は、人が明るく生きていく上で大きな傷害になります。それを、どういうふうに手放すか。私は、回想の力によって乗り越えられると考えています。

世の中は金と欲と権力の巷だということは分かっているけれど、それでもなお、人間は面白い。ささやかな人の営みというのは、なんともいえない味わいがある。そんなジワーっとした思いによって、人間不信と自己嫌悪という二つの病が癒されていくようにしたい

 

読書とは、著者と11で対話するような行為です。

からだが衰えて外出ができなくなっても、誰にも邪魔されず、古今東西のあらゆる人と対話ができる。

本は際限なく存在しますから、孤独な生活の中で、これほど心強い友はありません。

例え親鸞のように視力がおとろえて、本を読む力が失われたとしても、回想する力は残っているはずです。

残された記憶をもとに空想の翼を羽ばたかせたら、脳内に無量無辺(仏教のことば。「無量」は、計れないほど多いこと。「無辺」は、広々として果てしないこと。数限りないこと。)の世界が広がっていく。誰にも邪魔されない、ひとりだけの広大な王国です。孤独であればあるほど、むしろこの王国は領土を広げ、豊かで自由な風景を見せてくれる。

歳を重ねるごとに孤独に強くなり、孤独の素晴らしさを知る。孤立を恐れず、孤独を楽しむのは、人生後半期のすごく充実した生き方の一つだと思うのです。

 

ありがとうございました!

 

m(_ _)m

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2023年8月11日 (金)

アンパンマンを描いたやなせたかし氏90歳のときの著書「わたしが正義について語るなら」を読んでみた! ♪「アンパンマンのマーチ」の作詞もされていて、深イイと思っていましたので、ブックオフで発見して即購入しましたヨ!

 

やなせたかし氏(1919年~2013年)は2013年に94歳で亡くなられていますが、90歳のときに書かれた本となります。

 

正義のヒーローとして「アンパンマン」を描かれたやなせ氏にとっての「正義」とは?

 

戦争している国同士は両方正義だ、悪い奴をやっつけると正義が勝ったのだと言って戦っているけれど、子どもたちのことは見てやらない。そうして子どもたちは次々に死んでいきますね。

正義のための戦いなんてどこにもないのです。

だからぼくが何かをやるとしたら、まず餓えた子どもを助けることが大事だと思った。

それが戦争を体験して感じた一番大事なことでした。

普遍的な正義は、献身と愛です。

例えば、もしも目の前で餓えている子どもがいれば一切れパン(アンパンマンであれば、自分の顔のアンパン)を差し出すこと。

 

とにかくやり続けること

「虚仮の一念」、これは取り柄のない人が一生懸命取り組む様子を表す言葉である。才能のない人が、がむしゃらに励んでいる状態を表現している

そして、

好きなもの以外の武器を持て

 

ぼくは人が笑うのを見るのが好きだ

ウマも犬も笑っているように見える時もあるが、

人間のように声を立てて涙をこぼして笑わない

人がいちばん人らしいのは笑う時だ

だからぼくは人が人らしくうれしそうに笑う声が好きだ

さよならだけが人生で最後の方はみんなおんなじ

原則的には悲愁の道

だからぼくは笑わせたい

心が軽くなるような今が楽しくなるような

明るい笑い声を聞くのが好きだ

ところで、あなたは・・・・

 

そして正義という言葉に込めた思いは、この歌の中にあります

青字は本書の中で、一部の作詞部分についてコメントされていた

 

アンパンマンのマーチ

 

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び

たとえ胸の傷が痛んでも

 

何の為に生まれて 何をして生きるのか

→ぼくの人生のテーマでもあります。ぼくはみんなが楽しんで喜んでくれるのが一番嬉しい。

そして、ひとそれぞれが何かの分野でいくらかの才能はもらっているので、いくらかの才能を磨いてよくしていくしかない

 

答えられないなんて そんなのは嫌だ!

今を生きることで 熱いこころ燃える

だから君は行くんだ、微笑んで

 

そうだ!嬉しいんだ、生きる喜び

たとえ胸の傷が痛んでも。

 

嗚呼アンパンマン優しい君は

行け!皆の夢守る為

 

何が君の幸せ 何をして喜ぶ

解らないまま終わる そんなのは嫌だ!

 

忘れないで夢を 零さないで涙

だから君は飛ぶんだ、何処までも

 

そうだ!恐れないでみんなの為に

愛と勇気だけが友達さ

→これは、戦う時は友だちをまきこんじゃいけない、戦う時は自分一人だと思わなくちゃいけないんだということなんです。横断歩道もみんなでわたれば怖くない、悪いことをする時にも群衆でやれば怖くないというのがあるけど、責任は自分で負う覚悟が必要なんだということなんです。

 

嗚呼アンパンマン優しい君は

行け!皆の夢守る為

 

時は早く過ぎる 光る星は消える

だから君は行くんだ微笑んで

 

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び

たとえどんな敵が相手でも

 

嗚呼アンパンマン優しい君は

行け!皆の夢守る為

 

 

"歌詞の解釈は様々だが、その中のひとつにこの『アンパンマンのマーチ』は、戦争で海軍に志願し特攻隊として22歳という若さで亡くなった、やなせたかしさんの弟を想いも込められているという説があります"

 

歌詞を振り返ってみると

1番の「今を生きることで 熱いこころ燃える だから君はいくんだ ほほえんで」や、

2番の「忘れないで夢を こぼさないで涙 だから君はとぶんだ どこまでも」、

3番の「時ははやくすぎる 光る星は消える だから君はいくんだ ほほえんで」

 

どうもありがとうございました!

 

m(_ _)m

 

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2023年7月 7日 (金)

「52ヘルツのクジラたち」(町田そのこ著)、2021年の本屋大賞受賞作品もあって、ミーハー的に手に取りましたが、作品名からこころが動いたのも事実です!とても良かったです!

 

52ヘルツのクジラたち」とは、「親から虐待を受けて心を閉ざした子どもたち」でした。

その気持ちをとてもよく描かれているナ、と感じて、著者ご自身もそのような経験があったのかナ、と少し調べてみましたが、

町田そのこさんは、198039日生まれ、読書好きの母親の影響で、とっても本好き!お仕事に関しては紆余曲折があったようですが、ご結婚、ご出産もされており、どちらかと言えば、“普通の主婦”が作家になられている感じでした!!(笑)

 

52ヘルツのくじら”とは、非常に珍しい52ヘルツの周波数で鳴く。この鯨ともっとも似た回遊パターンをもつシロナガスクジラやナガスクジラと比べて、52ヘルツは遥かに高い周波数である。この鯨はおそらくこの周波数で鳴く世界で唯一の個体であり、その鳴き声は1980年代からさまざまな場所で定期的に検出されてきた。この鯨が生存しており、おそらく成熟していることからして、この鯨はおそらく健康である。にもかかわらず、その独特な呼び声に類するものは他になく、その源はたったひとりである。それゆえに、この個体は「世界でもっとも孤独な鯨」とされる。

 

♡主な登場人物♡

 

三島貴瑚(みはらきこ)この物語の主人公で、通称キナコ。親が再婚同士で、実の母親、義理の父親、双方から虐待を受けて育った

 

品城愛(しなぎいとし)、通称52。実の母親から「ムシ」と呼ばれて虐待されてきた

 

岡田安吾(おかだあんご)、通称、アンさん。本名は岡田杏子で、生れは女性でしたが、トランスジェンダーで男性となって生きてきた。キナコが虐待の生活に疲れ切り、死のうとしていたときに救ってくれた命の恩人

 

牧岡美晴(みはる)、貴瑚の親友であり、貴瑚と同じく親が再婚同士ということで、冷遇を受けたが、奨学金を得て短大に進み普通のOLになった。そして、同僚であったアンさんとキナコが出会うきっかけにもなった

 

村中真帆(むらなかまほろ)、れっきとした男子!

全てを切り捨てて、九州、大分県の小さな海辺の街に来た貴瑚に好意を持つ

 

新名主税(しいなちから)、貴瑚が親の虐待から逃れたあとに、初めての恋人となるが、祖父、父と続く企業の御曹司であり、結局、貴瑚を愛人とし、暴力も振るう、とんでもない男

アンさんは、貴瑚を新名から守ろうとしたが、新名の攻撃を受けて、最期は自らの命を絶った。

それがきっかけとなり、貴瑚は新名を包丁で刺そうとするが、弾みで自分を刺してしまう・・・

 

品城琴美(しなぎことみ)、52の実母。とても甘やかされて育ったために、自分の不幸は52のせいだとして虐待をしてきた。

真帆の祖母は言う「ひとというのは最初こそ貰う側やけんど、いずれは与える側にならないかん。いつまでも、貰ってばかりじゃいかんのよ。親になれば、尚のこと。でも琴美にはその理が分かっとらんし、もう無理かもしれんねえ」

 

キナコと52が、周りの人たちに助けられながらも力強く再生していく物語でした!

「ひとには魂の番(つがい)がいるんだって。愛を注ぎ注がれるような、たったひとりの魂の番のような人。いつか必ず現れると・・・」

 

そして、文庫版のカバー裏に描き下ろし掌編が印刷されていました!

真帆が、キナコに好意を示しているが、「いまは自律に専念したい」と遠回しにフラれた状態。

それでも、後輩のケンタには

「女の子の表面ばかりを見てちゃだめなんだぞ。笑顔の下で何を考えているかってことを想像するんだ。例えば一緒にいるとき、楽しいのは自分だけじゃないのか、気を遣わせていないか、と俯瞰で見ることが大事なんだ。男女交際ってのは、奥が深いんだよ」

 

そして、美晴が大分に来てくれるおかげで、みんなで食事に行こうと誘ってくれて、キナコと食事ができることに喜んでいる真帆であったのでした(笑)

 

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

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2023年6月17日 (土)

「人間の限界」 霜山徳爾著を読んで。霜山氏はヴィクトール・フランクル『夜と霧』(みすず書房、1956年)の翻訳をされた方として、存じ上げておりましたが、霜山氏ご本人、55歳のときの著書を初体験!滅茶苦茶難しかった~・・・

 

著者、霜山徳爾(しもやま とくじ、191975 -2009107日、享年90歳)は日本の臨床心理学者。

 

東京生まれ。東京大学文学部心理学科卒。ボン大学留学 (Ph.D.を取得)。上智大学文学部名誉教授。ヴィクトール・フランクルの名著『夜と霧』(みすず書房、1956年)『死と愛』(みすず書房、1957年)の訳者として著名であり、自身もフランクルの友人であった。キリスト教信者。

 

1919年 75日 出生

1942年 東京帝国大学文学部心理学科卒

1950年 上智大学文学部助教授、成蹊大学講師

1951年 聖心女子大学講師を兼任

1953年~1955年 ボン大学に留学

1957年 上智大学文学部教授

1969年 東京藝術大学大学院客員教授

1980年 日本女子大学大学院、東京医科歯科大学講師を兼任

1983年 東京藝術大学大学院客員教授

1989年 東洋英和女学院大学教授を兼任

1990年 上智大学名誉教授

2009年 107日 ご逝去(享年90歳)

 

霜山氏55の時に書かれた「人間の限界」59歳の自分が読ませていただきましたが、よく分かりませんでした・・・(大大汗)

 

人間の限界を諦念(道理を悟って迷わない心。また、悟って、諦める心)をもって受け止めているという人がいる。

しかし、たいていは立派な偽善(本心からではない,うわべだけの善行)である。

執着(強く心がひかれ、それに囚われること)とルサンチマン(弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情。ニーチェのキリスト教批判における中心概念で、「恨み」や「妬み」を意味する。『道徳の系譜』(1887)において、ニーチェは、キリスト教の起源をユダヤ人のローマ人に対するルサンチマンに求め、キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたゆがんだ価値評価にあるとした)のかたまりこそ「人間の真実」であり、限界の意識に常にからまっている。

 

「浮遊を天地に寄す。渺(びょう)たる滄海(そうかい)の一粟のみ」

広い世界のうちで、人間はかげろうのようなはかない命であり、大海にただよう一粒の粟の実のようなものだ、という意味である。少しでも人生の辛酸をなめたものには素直な実感となるであろう。

 

しかし、またわれわれは、

一日の生活(いのち)を

まことに生きる者の上に

光あれ

 

という詩人の言葉にも感動する。だがそのような人は稀であろう。

われわれの多くが過ごすのは、歯切れの悪い、生ぬるい毎日の人生である。

 

「ここにおいて、愚が中の極愚、狂(おう)が中の極狂、塵禿(じんとく)の有情、低下(ていげ)の最澄」

伝教大師最澄の出立する場所であった。彼はそこから「限りないもの」を求めていった。

その「限りないもの」人間の限界という問題を考える時、いつでも胸に浮かぶのは、ミケランジェロの未完の彫刻、ロンダニーニのピエタ像である。92歳の垂死(すいし、今にも死にそうな状態。瀕死)の孤老が最後までとりくんで、途中で彼の手から鑿(のみ)が落ちた、この未だおぼろげな彫刻は「今を限りの」作品でありながらあらゆる彼の他のピエタ、他の名作よりも、「限りないもの」への深い感動を与えずにはいない。それは何故だろうか。恐らく答えが損しないこのような問で、われわれは「人間」を見つめてみよう。

ここまでが序章でした。そして、


「人は夢まぼろしのやうなる世に誰か止まりて悪しきことを見、よきをも見思うべき」
(堤中納言物語)

Google先生でも、ピッタリとくる訳がみつかりませんでしたので、私訳となりますが、

人は夢のようなこの世界に、誰も永遠にとどまることはできませんが、そのような世界で間違ったこと、正しかったことを見て思うことが大切であると・・・やっぱり難解・・・

※堤中納言物語:日本の平安時代後期以降に成立した短編物語集。編者は不詳

 

また、現代の人間は、肩をそびやかした「勇姿」は強調され、行動は「予測」され、「進歩」は礼讃されても、人間存在の限界への謙虚な反省はなされなくなった。

 

「しらゆきの 日ごとにふれば わがやどは ゆききのひとの あとさへぞなき」(良寛)

毎日雪が降れば、行き来のひとたちの跡はなく、何ごともなかったようだ、というように思いますが、

何ごともなかったように“生きる”、これは「戦争」などと言うことがあるよりは、何ごともないことが望ましいということのように思いました。

 

人間には、最後には「死」という“限界”はあるものの、間違ったこと、正しかったことを見聞きし、自らも経験をしながら、そして“謙虚”に生きることが大切なのではないか?と問うているように思いました。

 

ありがとうございました~! m(_ _)m

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2022年10月29日 (土)

2019年の本屋大賞第2位となった「ひと」 著者小野寺史宜さん、を読みました! 物語は二十歳過ぎの若者を主人公に書かれていて、著者の方も若いのかな?と思ったら、1968年生まれで、今年54歳なんですネ!ちょっと親近感を感じました!物語もよかったです!!


~最初に著者小野寺氏について、ちょっとネットで調べてみました~

小野寺史宜さんは1968年、千葉県松戸市に生まれ。

幼い頃から読書が大好きな少年でした。

松戸市から市原市、そして千葉市に移り、千葉市立真砂第三小学校を卒業。

本を読むことだけではなく、文章を書くことも好きで、小学校の上学年の時には創作クラブのようなものに入って文を書いたり、お話を作って紙芝居をしたりしていたそうです。

そして千葉市立真砂第一中学校、千葉市立稲毛高校と進みます。

中学校ではサッカー部に所属。

高校では部活には入らず、バンドをやっていたそうです。

読書ばかりではなく、音楽もお好きだったんですね。

大学は法政大学文学部英文学科に進みます。

英語の成績がよかったのと翻訳小説が好きだったので、英文科に進んだのだそうです。

大学卒業後は会社に就職しますが、2年で辞め、その後はアルバイトをしながら小説を書き、投稿を続けました。

しかし、全く受賞せず、苦しい時代が続きました。

そんな中、小野寺史宜さんは32歳の時に再び就職します。

しかし、それも続かず、37歳で辞めた直後に短篇「裏へ走り蹴り込め」でオール讀物新人賞を受賞。2006年のことです。

2年後の2008年にはROCKER」でポプラ社小説大賞優秀賞を受賞し、単行本デビューを果たしました。

それから多くの本を出版します。

「みつばの郵便屋さんシリーズ」も人気です。

そして、2019年、「ひと」が本屋大賞第2位に!
ちなみに、この年の第1位は、瀬尾まい子氏の「そして、バトンは渡された」でしたネ。

小野寺さんはテレビも食卓もない、ワンルームのアパートに住んでおられるみたいです。

そして、毎日食パンにちくわを挟んで、パソコンの作業台で食事をされるようですよ。

ということは、結婚はされていない可能性が強いですね。

~~~

 

本書の舞台は、江東区にある、「砂町銀座商店街」“おかずの田野倉”

商店街は実在しており、東京都江東区にある全長670mの通りにおよそ180店舗の店舗が並ぶ大型商店街です。

最寄り駅は、都営新宿線・西大島駅、東京メトロ東西線・東陽町駅ですが、どちらの駅からも少し離れた場所にあります。

 

物語の登場人物は、

 

両親を亡くし、身寄りが無くなったため、大学(法政大学)を中退して、技術を身につけるべきではないかと考えて、父と同じく調理師を目指すために“おかずの田野倉”でバイトを始める、柏木聖輔20歳。

店主の田野倉督次さん 67歳と奥さんの詩子さん 65歳。夫婦は昔からずっと商店街の近くのURの賃貸住宅に住んでいる。子どもはいない。

そこに、

二浪した末にすべり止めの大学に入ったのに、半年でやめてフリーターになった、稲見映樹さん 24歳。

離婚をされてシングルマザーとなった、芦沢一美さん 37歳。準弥くんという14歳の息子を持つ。

 

生れたときは園青葉、中学で両親が離婚して母親姓となって八重樫青葉、そして、高校で母親が再婚して、今は井崎青葉となって、首都大学東京の健康福祉学部に通い、お母さんと同じ看護師を目指している。大学二年生。

青葉の元彼氏は高瀬涼と言い、慶応大学経済学部に通う、大学三年生。

青葉とは「高位にいる善人ゆえの鈍感さ」があることで、価値観が合わなかった。

 

聖輔の大学時代のバンド仲間。(聖輔は手が器用で、高校時代からバンド(ベース)もできる)

ギターの篠宮剣とドラムの川岸清澄。

 

この物語の登場人物は、それぞれに事情はあっても、基本的にはイイ人ばかりでした。

その中で、両親を亡くして天涯孤独となった柏木聖輔が一歩ずつ成長していく物語でした。

 

 

「情だけではどうにもならない。でも情は必要」

「今日はうれしい給料日。月に一度の贅沢デー。ラーメンデーだ!」

「(デートをした)あらかわ遊園は確かに安かった。入園料200円」

2022年現在、入園料800円になっていましたネ・・・(^^;

「人は空気なんて読めない。よく考えればわかる。そこそこ仲がいい友だちが自分をどうとらえているかさえわからないのに、空気なんて読めるはずがないのだ。」

 

 

物語の最後、受け身になることが多かった聖輔が、少しずつ前向きに積極的になる。

 

僕は21歳になった。急がなくていい。一つ一つだ。急がないが、とどまらない。そんなふうにやっていけたらいい。先は大事。でも今も大事。先は見なければいけない。でも今も疎かにしたくない。だって、僕は生きている。

調理師免許をとって働く場所も決まったら、車の免許もとろう。それを青葉に言おう。

 

「おれは青葉が好き!」

 

ありがとうございました!

m(_ _)m

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