書籍・雑誌

2025年2月 1日 (土)

瀬戸内寂聴さん、70歳のときのエッセイ「孤独を生ききる」を読んで

 

そして、77歳のときに文庫化されています。その際、

『人は孤独をどうやって生ききるかという切ない重い問題を抱えているようです。文庫本となって、もっと多くの人々に読んでいただけることを、嬉しく有難く思います』と・・・

 

愛があっても孤独、群れていても孤独、若くても、老いても孤独なのです。

いつの頃からか孤独を自分流に飼いならして、今では切っても切れない伴侶として頼もしく思っています。

もし、自分は孤独でないと思うなら、それは一種の幻覚にすぎないと思います。

孤独で寂しいのが当たり前なのです。自分が寂しいから人の寂しさもわかる。

自分はこんなに寂しいんだから、あの人もきっと人恋しいんだろうと思いやった時に、相手に対して同情と共感が生まれ、理解が成り立ち、愛が生まれるのです。

愛とは思いやる心です。

ほんとうに自分が孤独だと感じたことが無い人は、真に人を愛せない。

「孤独はひとのふるさとだ」(坂口安吾)と言っているのも、そういうことです。

 

自分は今苦しんでいると思い知った時、はじめて自分に皮膚のようにくっついている孤独と、はっきり顔を合わせると言っていいでしょう。孤独が人間の皮膚なら、苦しみは人間の肉です。ふたつは離れることの出来ない関係です。

仏教ではこの世ははじめから苦しみの世の中だとお釈迦さまが教えられます。

よく、この世は四苦八苦だというのがそれです。

四苦とは、生、老、病、死、そして

愛別離苦(あいべつりく):愛する者と分かれる苦しみ

怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者とも会わなければならない苦しみ

求不得苦(ぐふとくく):欲しいものが求めても手に入らない苦しみ

五蘊盛苦(ごおんじょうく):人間の存在を構成する5つの要素(体、感覚、知覚、意覚、認識)に執着することによって受ける苦しみで、前にあげた7つの苦しみを要約するものです

 

不幸の峰をいくつも乗り越えて、歩み続けるのが人間の生き方だと思います。

「日にち薬」という特効薬だけが、今のあなたの孤独の淵を必ず攀じ登らせてくれます。

 

男と女の中でも友情が成り立つと思うようになったのは、60くらいになってからです。

 

大体、恋のはじめの男女というのはピンクの眼鏡をかけた鶏どうしのような状態なのです。

 

男と女のことはフィフティフィフティだと考えているのです。

被害者も加害者も無いのです。両方とも加害者と被害者の両面を持っているのです。

 

孤独とのつき合い方

まずお風呂に入ると、心身をリラックスさせてくれます。

そして、思い切って服の一着も買ってみる事。あとは映画を見ようが画廊で絵を見ようが、観劇しようが、カラオケに行こうがあなたの自由です。自分の孤独を甘やかしてやるくらいの度量を持ちましょう。

 

女の方がバイタリティーはありますよ。

男の方が女より淋しがりだし、孤独感が強いのじゃないでしょうか。

自分の孤独と真向きになるのが恐ろしくて、がむしゃらになって仕事をしていたのかと思うことがあります。

日頃、精力的にタフに仕事している人ほど背中の淋しい男の人っているものです。

 

肉体は年々老いていくのに、その肉体に包み込まれている私たちの心はナント1617のままなのです。老人のもつ悲劇、悩みのもとはと言えば、この肉体と精神のアンバランスにつきます。

 

トルストイは、妻のヒステリーから逃れたくて、家出を決行、その放浪の旅の途中で病気になり、鉄道の小駅アスターポヴァの駅長官舎で死亡しています。享年82歳。

 

『ミリアム』

『ティファニーで朝食を』という題をあげると、すぐ思い浮かぶのは、オードリーヘップバーン主演のアメリカ映画でしょう。あの映画はトルーマン・カポーティの小説が原作としてつくられたものです。

トルーマン・カポーティは華やかに文壇デビューした鬼才でした。

60年の生涯に残した作品は量的には多くないものの、19歳で発表し、オーヘンリ賞をとった『ミリアム』以来、精力的に仕事をし、話題作を産み、世界的に有名になっていました。生涯独身でした。

小男で美男ではなかったのに、いつでも派手な情事の噂をまきちらしていて、情事の相手は上流社会の有名な女性が多かった。

『ミリアム』はカポーティにとっては処女作のようなものなのに、なぜかカポーティは晩年この作品を嫌っていたと伝わっています。

その内容は、

生活に不自由のない未亡人ミラー夫人の“孤独”を真正面から描いています。

ミラー夫人は“孤独”の生む幻想の影に脅かされたり、慰められたりする日を持つのです。

ミラー夫人は、私であり、あなたです。

私たちは老いのもたらす“孤独”を着物のようにいつでも身につけてしまえばいいのです。

普段着のように“孤独”を着慣れてしまえば、私たちはその感情に捕らわれることはないでしょう。むしろ、着ていることを忘れて、何不自由なく、まるで裸でいるような自由自在な心境になっていることを発見できるのではないでしょうか。

 

それでも“孤独”で淋しいと思う時は「旅」をするのが何よりです。

「旅」は自然が寂しい心や疲れた体を、やさしく包み込んでくれるし、気分転換が出来るし、思いがけない縁でイイお友達に恵まれるし、私は誰にでもすすめるのです。

淋しい時は旅に出なさいって。

“孤独”は“自由”と同義だと思いませんか。好きな時、好きな「旅」に出られるなんて、“孤独”の素晴らしいプレゼント、“自由のおかげですもの。

 

ありがとうございました!

m(_ _)m

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2024年12月21日 (土)

瀬尾まいこ氏の著書は「あと少し、もう少し」、「図書館の神様」に続く、約6年ぶりの3冊目、2019年の本屋大賞にも選ばれた「そして、バトンは渡された」を、試験後の癒しとして読んでみました~!

 

主人公は、生れた時は、

水戸優子、その後、実母は3歳になる前に事故で亡くなり、

田中優子、父親は再婚したが、海外赴任を機に離婚。継母となる田中梨花に優子は付いた

泉ヶ原優子、梨花が泉ヶ原茂雄と再婚したため、でも、お金持ち生活に馴染めず、すぐに別れた

森宮優子、梨花が東大出の真面目な森宮さんと再再婚したため、

早瀬優子、優子自身が結婚することとなって、早瀬優子へ

 

名前の変遷を横軸にして、主には高校時代から結婚するまでの「森宮優子」時代を中心とした物語でした。

 

この物語では、主人公を含めてみんな善人です。

最初の実の父親は娘の優子を大事に思い続けている。優子の結婚式には出席する

その父親は旧姓田中梨花と再婚し、その後、海外赴任を機に、日本に居たいと言う梨花と別れることになる。優子も梨花に付いていく。

開けっ広げで、とても明るく社交的。最初の離婚から、お金持ちの泉ヶ原氏と再婚するまでは、保険会社の営業となって稼げるほどの社交性の持主。それでも、浪費癖がある梨花との生活は貧乏生活へ。

そして、ピアノを弾きたい優子のために、梨花は、お金持ちで人のイイ、泉ヶ原氏と再婚する。

 

でも、お金持ちは暇だと、今度は梨花一人で家を出て行く。

そして、梨花は病気になり、それを泉ヶ原氏が助けることになる。

 

ちょっと不思議なのは、みな善人でありながら、

優子は実母が亡くなって、実の父親が再婚するまでの間、祖父母に育てられたが、なぜ大人になっても会いに行かないのか。

優子のことをとても大事に育て、人柄もよい森宮さん。一方で、親には東大まで行かせてもらって、その親とは折り合いが悪くて音信不通状態。そんなものなのだろうか。親への感謝が無いのはとても残念。

 

本屋大賞作品であり、上白石萌音さんは絶賛をされていましたが、なんとなくフワっとしていて、地べたに足がついていない感じがしたのは、自分だけでしょうか。

 

物語の中で心に残ったところ。

梨花「楽しいときは思いっきり、しんどいときもそれなりに笑っておかなきゃ!」

優子「できるだけ笑ってよう。誰にでもにこにこしよう。私はそう心に決めた。きっと、こんなふうに楽しいことだけの毎日なんて続かない。笑っていないとダメなことが、いつかやってくる。どこかでそんな予感がしていた」

優先順位の一位は友だちじゃない。何が一番か分からないのなら、正しいことを優先すればいい。だけど、何が正しいかを決められるほど、私は立派ではない。

一緒に住んでいる相手と気遣うのは当然のことだし、それは、遠慮をしているからだけじゃなく、お互いに大事にしあっているからでしょう。

結婚って生活だよ。もっと堅実に・・・堅実でまっとうでも離婚しちゃうこともあるけどね。

恋愛より大事なものはけっこうあるし、何か一つ手にしていればむなしさなんて襲ってこない。

 

本書にはピアノも出てくる。

優子は早瀬くんが弾くピアノに感動し、好きになる

高校の卒業に向けた合唱コンクールでは、「大地讃頌」、「一つの朝」、そして、中島みゆき「糸」があり、

ほかにも、合唱曲ではなく、音楽として、中島みゆきの「時代」、「麦の唄」、そして、アンドレ・ギャニオン「めぐり逢い」が出てくる。

 

どれもとてもいい曲と思いますが、卒業の合唱曲では「旅立ちの日に」が個人的には好きですネ~(笑)

 

どうもありがとうございました!

m(_ _)m

 

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2024年12月 1日 (日)

岩波文庫「読書のすすめ」第14集、岩波文庫編集部編。非売品。最近、読書量が減っているので、薄いけど面白そうでしたので、古本屋さんで200円でしたので、買って読んでみました!うん、面白かった!!(笑)


2010
年発行の非売品ということですが、面白く読ませていただきました!!

 

各方面でご活躍の本好き(岩波文庫に絞ったところもありますが)の方々がエッセイとして寄稿されていました。

 

荒俣宏氏:1947年生まれ、博物学者・小説家・翻訳家・タレント

荒俣氏は博物学者でもあられますので、博物学の本が好きなようです。

岩波文庫のジョン・バラック著「自然美とその驚異」、アリストテレース著「動物誌」などご推薦!

すいません、自分には興味が高くないため、よく分かりませんでした・・・汗

 

江川紹子氏:1958年生まれ、神奈川新聞社会部記者を経て、フリーのジャーナリスト

数年前、ある殺人事件の遺族Mさんのお話を伺った。私は某大学でメディア・リテラシーについての講座を持っていて、そのゲストとしてお呼びしたのだ。

妻と幼い子どもを殺害されたMさんは、裁判で犯人の死刑判決を求め、テレビでも犯人や弁護人に憤りを語った。常に毅然とした姿ばかりが報じられる彼だったが、実際には、とても柔らかい表情の優しい青年だった。Mさんは、事件後、悲しみと絶望と怒りと苛立ちの中で、何冊も本を読んだ、という。そして、最も感銘を受けた本をいくつか、学生たちに紹介してくれた。その中に、太宰治の「人間失格」があった。

それまで、私はMさんに、この小説の主人公とは対極的なイメージを抱いていた。もっと強くて、もっと対人関係が上手に作れて、味方もたくさんいる。しかし、妻子を守れなかった運命を呪い、生きていることすら悔やまれ、犯人への復讐すら叶わない無力さを嘆き、自分自身を責め続けていた時期があったのだろう。この本について語る言葉に、私は想像を絶する彼の苦しみの深さを思った。

Mさんは、小説の一部を読み上げた。

友人から「女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間がゆるさないからな」と説教された主人公が、「世間」について自問する場面だ。のど元から出かかった「世間というのは、君じゃないか」という言葉を引っ込め、へらへらと作り笑いする。しかし内心、こんな自問自答が続く。

(それは世間が許さない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事すると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない、あなたでしょう?)

自分の不満や苛立ちを、「世間」に紛れ込ませて、一般化する欺瞞。「社会が」「みんなが」「国民は」など、自分をぼやかし、責任を曖昧にするのに都合がいい言葉は、ほかにもいくつもある。

「世間」に流され、自分で考えることを放棄すれば、角が立つことも無く、安穏と生きることも可能かもしれない。そんな個人が個人として生きにくい中、「世間が」ではなく、「あなたは」どう考えているのか、「私は」どう生きるのか・・・・。以前にさらりと読み流してしまった作品を、年月を経て、改めて読み直してみることの意味を教わった気がした。

 

鹿島茂氏:1949年生まれ、フランス文学者、元明治大学教授

読書には速効性の効能は無いが、遅効性のサプリメント的な効能がある。

ここ迄の人生を振り返って総括すると、読者は少なくとも私には役に立ったということだ。

読書の効能は「事後的」にしか確認できないことにある。

事後的には効能は明らかだが、事前的には効能を明示できないものをどう勧めたらいいのか。

読書の効能が事後的である以上、それを事前的に説明することはやめて、

「理由は聞かずにとにかく読書しろ!!」

 

 

亀山郁夫氏:1949年生まれ、ロシア文学者、名古屋外国語大学学長

わたしはいま、若い時代にあれほど恐れていた還暦という時を現実に迎えながら、この世界に生きて、人並みに“感情できる老い”の喜びをかみしめている。人の悲しみや苦しみにも素直に同化できるような気がする。

乱読の喜びは、偶然との出会いの喜びでもある。40数年振りに漱石の「こころ」を読み返した。

これほどまでにも凄まじい緊張感をはらんだドラマだったかと、驚きを新たにした。

「こころ」を読み終えた土曜日の午後、わたしは、その数日読みさしになっていた大江健三郎の「水死」を再び手にとった。「こころ」の余韻もあったのか、しばらく失われていた集中力が蘇り、これまた圧倒されてしまった。凄い、凄まじい、と呟きながら、最後の頁を閉じた。

わたしの感動を倍化してくれた理由はほかでもない、「水死」が「こころ」のパロディとして構築されていたことである。

パロディには、時として、過去の伝統に対する、密やかなリスペクトが息づくこともあるのだ。

還暦を迎えてはじめて「斜陽」を手にし、主人公直治の「手記」を読み進めるうち、魂が洗われるようなすがすがしいノスタルジーの訪れを受けることになった。

「奥さんはお嬢さんを抱いてアパートの窓縁に、何事もなさそうにして腰をかけ、奥さんの端正なプロフィルが、水色の遠い夕空をバックに・・・」

何という美しい情景だろう。わたしはそれから改めて「人間失格」に向かい合うことになった。心穏やかだった。

 

ロバート・キャンベル氏、1957年生まれ、東京大学名誉教授、早稲田大学特命教授

幸田露伴の「努力論」

硬質でややいかめしいタイトルが興味をひく。「努力」とは何か、人は何のために努力するのか。露伴はエピソードを散りばめながら理路整然と、深い情理を掘り下げ、読み応えのある啓蒙書に仕上げていた。

愉快かつ大真面目に人間の幸せを説いている。その中心が「幸福三説」というもので、人間が幸せになるカギを、順番に

「惜福(せっかくの幸せを浪費し使い果たしてしまわないこと)」

「分福(福を他人に分け与えこと)」

「植福(人々の福利を増進すること)」

と分類して考え、分析している。

「惜福」を別として、「分福」と「植福」については他者に対するポシティブな行いが、いかに己の幸福を左右するかを述べる。露伴はとくに「分福」を重視するようだ。

 

 

津村記久子氏、1978年生まれ、作家

読書が好きだ。

岩波文庫では、たくさんの良い古典を読める。この文では、「カフカ短編集」と中島敦「山月記、李陵、ほか9編」、そしてロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」を取り上げる

「カフカ短編集」20編が収められている。どの小説も、短くてとても楽しい。読む前と読んだ後で、確実に頭のスイッチが切り換わっている短編たちは、まさに珍味と言える。頭の掃除をしてくれるようでもある。自分のちっぽけな妄想が頭から押し出されてゆく。それは、とても新鮮な体験である。それを、電車に少しのってから降りるまでの間に味わえるのは贅沢なことだと思う。

「山月記・李陵・他9編」には、11編の中短編が収められている。どれも素晴らしい。

その中でも「李陵」、運命に深手を負わされながら、なおも自分の信じることころを貫き通す人々の力強い物語。自らの意志を貫き通す李陵、司馬遷、蘇武の三人の姿に打たれる。三人の主人公の不器用で並外れた生き様だけがあるのだが、彼らの物語に感嘆することは、何らかの生きる力になるはずだ。

ロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」は全三冊である。読書そのものにも似ている。すなわち、誰も傍らにいなくても、本を開けばトリストラムが語りだすように、読書はそこにある。世界が自分を見放したと思う時にすら、本を読んでいる間は、物語と作者はあなたとだけ対話している。そこには、とても個人的で親密なやりとりがあり、遠く見えた世界に分け入る感覚がある。

 

藤井貞和氏、1942年生まれ、詩人。日本古典文学。国文学者。

父、藤井貞文(歴史学者)が折口信夫(日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった)門下であり、影響を受けられているようです。

詩人でもあるので、岩波文庫「歌の話・歌の円寂する時 他一編」を推薦。

 

山室信一氏、1951年生まれ、日本の歴史学者・政治学者、京都大学名誉教授

伊藤博文を暗殺した韓国の安重根はすさまじい読者家であったという。

自ら揮毫「一日不読書 口中生荊棘(一日、書を読まなければ、口の中に荊棘(けいきょく)を生じる)」

を残されている。

暗殺はよくないが、キリスト教信者でもありながら、人を殺すなど複雑な事情があるようである。

この読書への飢えにも似た想いは、罪を犯した後、投獄されている中で、毎週10冊近い本を読破しながら、その目次と内容を几帳面に書き写した死刑囚、永山則夫に近いものであったかもしれない。

死を前に平静な気持ちで読書に集中できる自信はないが、読書が時間との格闘であることは逃れ難い宿業であると言えそうである。

三木清は『読書と人生』において、「読書とは一種に技術である」として、読書の楽しみや何を読むべきかという以前に、習慣化する技術の修得の必要性を説き、その技術とはまず時間の確保にあるとして、「人生において閑暇は見出そうとさえすれば何処にでもあるものだ。読書の時間が無いというのは、読書しないための口実に過ぎない」と喝破した。

中国の魏の時代の薫遇(とうぐう)は「読書百遍義自ずから見(あらわ)る」と説いたことで知られるが、やはり時間が無いと訴える人に対して、暇がないとは不勉強の言い訳に過ぎないとしている。

「学ばなければ忘れない」というバスクの処世訓がある。忘れるということは、読み、学んで初めてできることであり、読まなければ忘れる事さえできない。

ほか、森鴎外『高瀬舟』、芥川龍之介『杜子春』、中島敦『山月記』、吉川英治『宮本武蔵』も面白かったようである。

 

どうもありがとうございました!!

m(_ _)m

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2024年2月16日 (金)

新型コロナ禍の2020年6月から2021年6月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載された、小池真理子著「月夜の森の梟」が文庫化されたので、一気に読んでみた~!

 

過去に小池真理子さんの本は「恋する男たち」という複数の著者による短編集で読んだことがあったのですが、内容は忘れていました。

今回、あらためて本エッセイを読んでみて、とても丁寧な言葉づかいで書かれているなと感じました。

とてもよかったです!

 

小池真理子さん(19521028日生)が、夫藤田 宜永さん(よしなが)(1950412 - 2020130日逝去、享年69歳)を喪われてから4カ月目に書き始めたエッセイになります。

エッセイは「月夜の森の梟」という名で、新型コロナ禍の20206月から20216月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載されました。

新型コロナは20204月に最初の緊急事態宣言があって、20235月にインフルエンザと同じ5類感染症に分類されるまで続き、今は少し一息ついたところと思います。

 

2021年11月に単行本となり、20242月に文庫化されました。

 

小池さん自身、夫藤田さんが亡くなられて、すぐに新型コロナの緊急事態宣言となったことは、とても心労が重なったと思いますが、このエッセーを連載することは、小池さんご自身にとっては、救いの一つだったのかもしれませんネ。

 

『月夜の森の梟』とは、ご夫婦共に、太陽よりも月の光のほうが好きなこと。昼間よりも夜。燦燦と光がきらめく水色の空ではなく、無音の星々が瞬く群青色(ぐんじょう)の夜空を見上げている方が、心落ち着くと。そして本エッセイ―の連載第一回目の題が「梟が鳴く」で始まっています。その中で、「梟の声を聞きつけるたびに、私は夫に報せていた」とあったからだと思いました。

小池さんと藤田さんは、1984年にパートナー同志となられて、1990年に軽井沢へ移住をされています。

 

仲のいいご夫婦というよりは、同志のような感じがしました。

夫婦愛、相性の善し悪し、といったこととは無関係である。私たちは互いが互いの「かたわれ」だった。時に強烈に憎み合いながらも許し合い、最後は、苔むした森の奥深く、ひっそりと生きる野生動物の番いのように、互いがなくてはならないものになった。「かたわれ」でなければ、そうはならなかったと・・・

 

~ちょっと可笑しかったところ、興味深かったところ、共感したところ~

 

小池さんの父親は徹底した無宗教者であったため、戒名は絶対不要ということで、ご両親の位牌は俗名のままとのことでした。

自分の父親も新型コロナ禍の20227月に天国へと旅立ちましたが、同じく俗名のままです(笑)

 

そして、新型コロナのせいで動きがとれないことを言い訳にし、相変わらずぐだぐだしながら、夫の墓を用意できずに、遺骨と共に暮らしている。

お墓って、お金もかかるし、安くはないし、どこにするとよいのか難しいですよネ。

 

 

小池さんが子供の頃に大きな茶虎の雄の外猫を飼いならしていたそうですが、或る年の秋、意気揚々と外に出かけて行った彼は、二度と帰ることがなかったと。

うちの実家でも父親が生きている頃に、灰色と白色のブチの外猫(灰色が目立つので“グレ”と呼んでいました)を飼いならしていましたが、やはり、ある日を境にして帰ることがなくなりました。

 

病を得てから、夫は三島由紀夫よりも太宰治の話を好んでするようになった。

三島が太宰治を嫌っていたのは有名な話だが、夫にとっては無関係だったろう。かたちは違えど、三島も太宰も死に向かって書き続けた作家だった。死が近づいた夫は、行動することを美徳とした三島よりも、薄闇の中で蜉蝣(かげろう)のように生きた太宰の心情のほうに、より強い共感を覚えたのかもしれない。

 

余命を意識し始めた夫は、毎日、惜しむように外の風景を眺め、愛でていた。野鳥の鳴き声に耳をすませ、庭に咲く季節の山野草をスマートフォンのカメラで撮影し続けた。どこからか種が飛んできて、駐車場のコンクリートの隙間で成長し、花を咲かせた一本の痩せたタンポポですら大切に扱っていた。

彼は言った。こういうものとの別れが、一番つらい、と。

当たり前のように繰り返されていた季節。止まることなく流れるはずだった時間。美しい天空の法則のすべて。それらと別れねばならなくなるのが、本当につらいんだ、と。

 

 

Passion(パッション)」には次の意味があります。

熱情。激情。情欲。

また、「パッション」はキリシタン用語でもあり、キリストの受難や苦難を意味することもあります。

人生における「受難」と言うのは、裏を返せば「情熱」の限りを尽くしたことと同じなのではないか、と考えるようになった。熱情は時に深い苦悩に姿を変える。逆も同じである。「受難」と「情熱」は異質のもののようでありながら、実は根っこのところで分かちがたく結びついているのだ。

喪失の悲嘆や狂おしい絶望もまた、烈しいパッションに他ならない。遺された者の苦悩は、おそらく自分では気づかぬ生命の力と背中合わせになっている。

 

I want to hold your handは、ビートルズの初期の代表曲の一つである。

直訳すれば「あなたの手を握りたい」。邦題は「抱きしめたい」である。

「手を握りたい」よりも「抱きしめたい」のほうが強烈な印象を残す。

私も今、強烈に誰かを抱きしめたい。誰かに抱きしめられたい。

不安や恐怖にかられた時、心細い時、哀しみに打ちひしがれている時、誰かにそっと抱きしめられたり、手を握ってもらったりするだけで、いっとき、苦痛から逃れることができる。

冷たく凍えた気持ち、寂寞(せきばく)とした想いの中に、ひとすじの温かな光が射し込まれるのである。

いつの世でも、どんな時でも、人々はそうやって生きてきた。簡単なことだった。抱きしめる。抱きしめられる。手を握る。握り返す。たったそれだけのことが、手に負えない魔物から相手を守り、自分も守られることを私たちは知っていた。

 

生きている以上、人は誰しも例外なく、厄介な自意識に悩まされ続ける。自意識を持たない人間はいないが、同時にそれは漠とした不安や迷い、怒りや哀しみ、果ては孤独感さえ呼び覚ます。希望も絶望も、すべて自意識の産物なのだ。

 

“本物の元気”というものは、作り笑いや、こうあらねばならない、とされる世間の決まり事、有象無象の前向きな考え方、たくさんの予定をこなうこと、大勢の人々と交流すること、旅をしたり、新しいことを始めようとしたりする気分の中にあるのではない。

もっと静かに、その人間の身体の奥底に、あるかなきかの、かすかなおき火のように絶えず控えめにくすぶっていて、ふだんは決して外から見えないものなのだ。

 

 

ありがとうございました!

(_ _)m

 

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2024年2月 2日 (金)

「幕末・明治 偉人たちの「定年後」(河合敦著)」、凡々人でありますが定年まで1ヶ月弱となり、幕末・明治には、どんな定年後があったのか、読んでみました!著者自身も50歳で教職を辞して、作家としての第二の人生を始められていました

 

幕末・明治の偉人たちの定年後のため、とくに秀でたところが無く、平々凡々のアラ還世代の自分に役立つのか~!?と思いましたが、読んでみましたヨ~!(笑)

 

やはり!?読後感としては、本書に登場する、ほとんどの皆さまは、第二の人生においても、請われている、求められている。そして、秀でたところを持っている方でした。

一つ教訓としては、第二の人生において、「権力」を持ち続けることは、世の中に悪影響を与える可能性が高くなること。

よって、「権力」からは離れて、少しでも社会に役立つように働くなり、活きるなりを続けることが大事であること。

そして、お金をいただけるだけの並よりも少し優れたことを身につけておけるように努力を続けることも大事なのだと思いました。

 

勝海舟(1823312日~1899119日、享年75歳)

1860年、37歳のとき、日米修好通商条約を批准するため幕府の使節団が渡米する。この際、海舟が咸臨丸の指揮官となり日本人として初めて太平洋を横断した。

1868年、45歳のとき、新政府軍西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城をした。

このとき、西郷の英断と度量の大きさを絶賛している。                                                                

1872年、49歳のとき、新政府に出仕することに同意する。廃藩置県によって藩が消滅していた。仕えるべき藩が消滅したことで、主家に義理立てする必要もなくなり、新政府の期待にこたえる気になったのかもしれない。

1875年、52歳のとき、政府の台湾出兵、清国への賠償請求に反発して、政府から離れた。

 

その後は、相変わらず海舟自身は多くの妾や子供と同居しているうえ、個人的には私財をだして徳川旧臣に援助していたこともあり、かなり生活は苦しかったようだ。篤姫との不倫もあったようです。

それでも政府の招きには決して応じようとしなかった。

 

188764歳のとき、それまでの功績が大きく評価され伯爵となり、宮内省から35千円という大金が入り、海舟本人も枢密院(天皇の諮問機関)顧問官に就任した。

189168歳のとき、嫡男小鹿を失う。海軍軍人となって少佐までのぼったが、病弱のため前年には予備役に編入をしていた。

海舟は慶喜に書簡を送り、「慶喜公の末っ子を養子として勝伯爵家にもらい受け、その血筋に爵位をお返しした」と申し入れた。

海舟には長崎時代の愛人に産ませ、手元で育てた梅太郎がおり、彼に伯爵を継がせる事も出来たが、敢えて慶喜の子を貰い受けることにしたのである。おそらく福沢諭吉の「やせ我慢の説」に対する海舟の返答だと思われる。

潔い決断だと言えるだろう。

1897年、73歳のとき、上野に建てられた西郷隆盛像の除幕式に参列。

西郷のことを「ごく優しい奴だったよ。アハハなどと笑ってね、温和しいひとだったよ」などと評した。

1899年、75歳のとき、風呂から出たところで急に倒れ、間もなく亡くなった。最期の言葉は「これでおしまい」と伝えられている。

 

榎本武揚(1836105日~19081026日、享年72歳)

1868年、32歳のとき、江戸城は無血開城したが、武揚は新政府軍への旧幕府艦隊の引き渡しを拒み、軍艦8隻を引き連れて品川を脱し、新政府に敵対する東北諸藩を海上から支援、その後、仙台に集まった旧幕府方の人びとを乗船させて蝦夷地へ渡った。旧幕府軍は松前藩や新政府軍を駆逐して蝦夷全島(北海道)を制圧し、函館の五稜郭を拠点に政権を打ち立てた。

しかし、箱館戦争の首謀者として新政府に降伏することとなった。

意外なことに武揚をはじめ五稜郭政府の閣僚たちは、投獄されたものの、最終的には全員が命を長らえた。

箱館戦争で新政府の参謀として活躍した黒田清隆が、武揚はじめ旧幕府軍の助命を強く主張したためであった。

1872年、36歳のとき、新政府の官僚(北海道の開拓使)に登用されることになった。

このほか松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助らもみな、開拓使に出仕することになった。

その時の、開拓使次官は黒田清隆であった。

1875年~1877年、39歳から41歳のとき、ロシアとの交渉の結果、ロシアとの領土交渉に臨み、樺太を放棄する代わりに千島列島すべてを日本領とし、さらに10年間のクシュンコタンの無税化や近くでの漁業権を獲得、樺太千島交換条約を結んだ

1879年、43歳のとき、外交手腕を買われて外務次官に登用され、44歳には海軍卿となった。46歳には、駐在特命全権公使に任じられて清国に赴任。

1884年、48歳のとき、伊藤博文を補佐して、天津条約締結を果たした

武揚の李鴻章と肝胆相照らす仲になっていたから、と言われている。武揚は人に好かれる質であった。

正直さと誠意、これが武揚を立身させた最大の要因だったのだろう。

1894年、58歳のとき、農省務大臣になる

1897年、61歳のとき、足尾銅山の鉱毒による被害農民の代表と会い、さらには現地へも視察に出向いた。そして、その被害の大きさに衝撃を怯え、政府に鉱毒調査委員会を設置する。だが銅山側と政府高官が結託していたのか、なかなかそれ以上の対応が難しく、責任を感じた武揚は大臣を辞職、以後、政府の要職から去った。

1898年、武揚の嫡男・武憲が結婚した。27歳。その妻となった梅子は、黒田清隆の娘であった。

その二年後、黒田清隆逝去(享年61歳)

その八年後、榎本武揚逝去(享年72歳)

 

副島種臣(18281017日~1905131日、享年76歳)

佐賀藩に生まれた。

幕末に政治活動をしていた数少ない佐賀藩士であった種臣は、すぐに政府に登用されて参与となり、さらに参議(いまでいう閣僚)に上った。漢学の素養が深く英学もかじっていたので、

1871年、43歳のとき、外務大臣となり、ロシアとの国境問題の解決、日清修好条約(初めての対等条約)を批准した。

1874年、46歳のとき、西郷隆盛が下野すると、これに同調して政府を辞めて、板垣退助らと民選議院設立の建白書を提出した。

1879年、51歳のとき、漢学的素養と篤い尊王思想を買われて“宮中”に入った。

1886年、58歳まで、明治天皇を英君とすべく全霊をこめて講義を続けた。

1904年、75歳まで、明治天皇に請われて、枢密院顧問官を務めた。

1905年、76歳、逝去

 

板垣退助(1837520日~1919716日、享年82歳)

1899年、62歳のとき、党利党略による醜い争い、政治家の金権体質など政治の世界にほとほと愛想をつかし、政界を引退した

1900年、63歳のとき、西郷従道(隆盛の弟)とともに中央風俗改良会を立ち上げた。

家庭の改良、自治体の改良、公娼の廃止、小作や労働者問題の改善、といった、社会のさまざまな問題を解決して、日本全体をより良くしていこうという非常に幅の広い活動であった。

1919年、82歳で亡くなるまで、私財を投げ出して、社会問題に取り組んだ。

 

山県有朋(1838614日~192221日、享年83歳)

1889年、51歳のとき、1898年、60歳のときの二度、総理大臣の大命が下り、内閣を組織した。

2度目のときには、社会主義運動を取り締まる治安警察法、政党の軍や官界への進出を防ぐための軍部大臣現役武官制度や文官任用令の改正を断行した。

1900年、62歳のとき、首相を辞任し、この後は天皇の補佐役、元老として、伊藤博文、黒田清隆の中に加わった。彼らは元老会議を開いて、次の首相候補を決め、天皇に推薦する。それを天皇が拒否した例は無いから、実質的に内閣首班を指名できる権限を有していた。

1901年、63歳のとき、自分の配下である桂太郎を首相にして内閣を組織させた。

桂太郎は愛想がよく人間関係に長けていた。が、多数の社会主義者を検挙、幸徳秋水をはじめ無実の社会主義者を多数処刑・処罰した。これを「大逆事件」と呼ぶ。

そして、権力に固執し、後継者育成に失敗。

“桂太郎”のほか、“寺内正毅”や、清濁併せ呑む“原敬”がいたが、いずれも有朋よりも先立ってしまう。

“原敬”が刺殺された翌年に、体調を崩し、回復することなく死去。享年83歳。

有朋の最大の趣味は造園であった。有朋は金にまかせてあちこちに別荘をつくったが、その庭園はすべて自らが指揮してつくり上げている。まことに見事なものである。今でも私たちは、東京目白に彼のつくった名庭を目にすることができる。そう椿山荘である。

また、東邦生命の母体となった、徴兵保険株式会社も、有朋の陸軍における圧倒的な権力によって、明治29年、1896年に創業した。

 

高橋泥舟(1835315日~1903213日、享年67歳)

高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟は、「幕末の三舟」と呼ばれた幕臣として知られている。

1871年、36歳のとき、廃藩置県によって、藩が消滅した。勝海舟と山岡鉄舟は新政府に仕えることになり、海舟は新政府の閣僚、鉄舟は宮中に入って明治天皇の側近となる。

ところが、泥舟だけは、新政府に出仕しなかった。

泥舟は第二の人生をあえて栄達を求めない生き方を選んだ。一切政治的な発言を控えた。すなわち、徳川家の滅亡と共に己の存在を消し去ったのである。

徳川慶喜への恩義、「ニ君に仕えず」という士道を決意し、矜持を大事にした。

「世の人。名誉心のために、日夜に地獄を作り出すこと愚かなり。さて、死に支度として、生前人道に背かぬように、万事心がけ、生きて神仏に恥無きように、死に至るまで怠らず、たゆまず生き遂げてこそ、よき死に支度であろう」

いくつもの歌や名言を残して、67歳でこの世を去った。

 

前島密(まえじま ひそか、183524日~1919427日、享年84歳)

「郵便の父」と呼ばれている。

1881年、46歳のとき、役人を依願退職したが、1887年、53歳のとき、官僚へ復帰する。

当時の逓信省初代大臣榎本武揚に請われて、逓信次官となった。

郵便電信局や郵便電信学校を創立、電話事業を官業として成立させた。

しかし、短気なこともあり、1891年、57歳で、またもや退職。

その後は実業界でも活躍した。

1902年、67歳のとき、華族となり、69歳で貴族院議員となったが、75歳で、これまた辞職。

その後、76歳から84歳で亡くなられるまで、神奈川県横須賀市の山荘で作庭を楽しみながら静かに暮らした。

 

北里柴三郎(1853129日~1931613日、享年78歳)

1914年、61歳のとき、北里研究所(現在の北里大学病院)を立ち上げる

1917年、64歳のとき、慶応義塾大学医学部創設にも関わることになる

ほかにも生活困窮者を救済するための済生会創設にも関わり、大日本医師会(現在の日本医師会)の創設、公衆衛生や健康保険制度の実現にも尽力した。

そして、1931年、78歳で死去。

突然の死であった。前日まで何の変化もなく、翌朝、なかなか起きてこないので、家族が寝室に様子を見に行ったところ、すでに息を引き取っていたのである。まるで眠っているように、ふとんも着衣も乱れていなかったという。見事な大往生であった。

 

東郷平八郎(1848127日~1934530日、享年86歳)

19055月、57歳のとき、日露戦争における連合艦隊艦長として、ロシアのバルチック艦隊を撃破して勝利に導いた。

同年10月、軍艦三笠が、佐世保港内で事故により沈没、いまだに原因は不明だが、339人という大きな犠牲が出た。日本海海戦のじつに3倍もの死者であった。

1913年、65歳のとき、元帥となった。これにより、死ぬまで現役となったのである。

そして、73歳まで東宮御学問所の総裁となって、昭和天皇の教育に努めた。

80代で軍縮条約をめぐる抗争、軍縮の調印に反対な勢力の中心となった。

結果として、太平洋戦争への起点のひとつになってしまった。

 

渋沢栄一(1840316日~19311111日、享年91歳)

言わずと知れた実業家となりますので、その点はのぞきます。

主君であった慶喜の功績を正しく評価してもらうため、25年の年月をかけて『徳川慶喜公伝』全8巻を完成させた。

晩年の活動として特筆すべきは、アメリカとの民間親善外交を推進した。栄一は生涯に4度、渡米している。1902年、62歳のときには、セオドア・ルーズベルト大統領とも会談した。

「平和こそが経済を発展させ人びとを幸せにするのだ」という信念を持っていた。

そこで、日米同志会、日米協会、日本国際児童親善会などをつくって民間の立場からアメリカとの関係改善に尽力し続けた。

1931年、91歳で死去。

残念ながら、それから10年後、日米両国は全面戦争に突入・・・

 

秋山好古(185929日~1930114日、享年71歳)

日露戦争で活躍した日本騎兵の父。

1923年、64歳のとき、予備役に編入となり定年となった。

「男児は生涯において一事を成せばよい」が口癖であり、

「人は一生働き続けるものだ」が信念であった。

好古は士官になる前は教師であった。

好古が本当にやりたかったのは軍人ではなく、教師ではなかったのか。

そう思えるくらい、定年後に校長となってからの好古は熱心に生徒たちの指導にあたった。

糖尿病で亡くなる半年前まで校長を勤め続けた。

 

福地源一郎(1841513日~190614日、享年64歳)

明治10年代、自由党、立憲改進党、立憲帝政等と呼ばれる初期三政党が成立した。

福地源一郎は、そのうちの立憲帝政党と立ち上げた人物である。

このことは全ての日本史の教科書に掲載されている。

頭はよいが、職を転々として、借金はするし、道楽もすごいので、ちょっと参考にはならないと思いました。

 

林忠崇(はやし ただたか、1848826日~1941122日、92歳)

18歳の若さで上総請西藩主であったが、大政奉還で江戸幕府が消滅、新政府軍に敗れて降伏した。死一等は免れたが、親類大名である唐津藩の小笠原家にお預けとなった。

1872年、24歳のとき、ようやく自由の身となった。

その後は職を転々としながらも、1893年、45歳のとき、林家は華族に列せられ、忠崇も従五位なった。しかし、妻チエの病気により、帰郷をするために、職を辞することになった。

その後、妻は無くなるが、娘のミツと共に会社を経営し、好きな絵や和歌に没頭して悠々自適の生活を送られた。

92歳で眠るように逝った。

「最後の大名」であった。

 

新選組隊士

永倉新八(1839523日~191515日、享年75歳)

斎藤一(1844218日~1915928日、享年71歳)

新選組の歴史を後世に伝えたと言われています。

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

 

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2023年12月31日 (日)

もう間もなく還暦ですが、外山 滋比古氏(とやま しげひこ、1923年~2020年)の『50代から始める知的生活術』「人生二毛作」の生き方を読みました~。外山氏は英文学者でありながら、知の巨人です。心にとめておきたいことを記載致します~!


人生は二毛作がいい

人生の二毛作を志すなら、隠居生活などは、たとえどんなに資産があるとしても、考慮の埒外です。

 

送別会という習慣。ことに定年退職者の送別会には、欺瞞の空気が漂っています

一見、送られる側の人間の労をねぎらっているかのようですが、出席者がみな、本心からそう思っているとは限りません。忙しいさなかに、なんでこんな宴会に出なくちゃいけないのかと感じている若手もいるでしょう。

現役優位の構図がそこにはあるのです。会社にまだ貢献できる現役組と、そうではなくなった定年組。現役組は定年組を哀れむ。優位にある送る側が、送られる側への惜別の情を演じる場。それが定年退職者送別会です。

退職時の宴会は、送る側も送られる側も、腹に灰汁のようなものが残っていて、互いに居心地の悪さを感じます。その灰汁を取り除いて(1年くらい時間を置いて)、スッキリした思いで杯を酌み交わすのが、やさしい文化、礼節であるとも思います。

 

江戸時代の儒学者、幕府の儒官もつとめた佐藤一斎が、『言志四録』という随想録でこんな言葉を残しています

若くして学べば、則ち壮にして為すことあり

壮にして学べば、則ち老いて衰えず

老いて学べば、則ち死して朽ちず

かつて、小泉純一郎元首相が、国会で引用したことが知られていますが、この

『老いて学べば、則ち死して朽ちず』の心意気がいいではありませんか。

 

「淡交」のススメ

雑談・放談が体調維持に効果がある。雑談・放談は、人生の最大の楽しみであり、人間が発見した最高の元気の素ではないでしょうか。若返りの秘薬といってもいいかもしれません。

 

「ホスト(host、主)」のススメ

人を招いておもてなしをすること。豪華な宴を設けるわけではありません。文字通りの粗餐、ささやかなものではあるのですが、会食のホストになることが、これほど心楽しいものであるとは思いませんでした。

 

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」

とくに「義理を欠け」は、年をとったら、ときに浮世のじがらみを振り切る勇気がいります。

 

「留学しなくたって研究はできる」

「源氏物語」を英訳して世界に知らしめたアーサー・ウェイリーは日本に招聘されたとき、「自分の愛する日本は昔の書物のなかにある」と、辞退したそうです。

アメリカの文加人類学者、ルース・ベネティクトは戦時中、日本の研究をしました。もちろん、日本を訪れたりはできません。それで『菊と刀』という名著を書き、戦後の日本人を驚かせました。

 

「考えは寝かせる」

論語に、「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」という言葉があります。この「時にこれを習う」というのが、思考を寝かせることに通じるのです。

アイデアを時間かけて温める

眠っている時、夢を見ている時、歩いている時、アイデアが浮かぶ。すぐに書き留められるように枕元にも紙と鉛筆を置いておく。書き留められ、温められたアイデアは10年後かもしれないが形になる。

・とにかく書き出してみる。それを数日後など、時間をおいて眺めてみること。

 

「三上」と「三中」

・昔から良い考えが浮かぶのは「三上」といって、馬上、枕上、厠上の三つ。要するに馬の上、床の中、トイレの中ということだが、馬上はいまの時代でいえば通勤途中ということになる。

・「三中」の状態も思考の形成に役立つと思う。これは夢中、散歩中、入浴中である。人間はその気になればいたるところで学び、考えられるということだ。

 

「忘却曲線」でしられるドイツの心理学者、エビングハウスによれば、人は20分後に42%を忘却し、1時間後には56%を、さらに1日後には74%を忘れるそうです。そして、自律的に忘却から残った知識が、なにかっほかのものと結びついて新しくよみがえります。

 

若い時にモンテーニュの『随想録』を読みましたが、少しもおもしろくありませんでした。途中で放り出してしまいました。

50歳を超えて、身辺におもしろくないことが続発し、いくらか世をはかなんでいるときに、モンテーニュを開き、心をこめて読み、それまでにない感銘を受けました。わからないところは、自分の頭で考えて分かったことにしました。このようなベータ読み(未知の読むこと。逆にアルファ読みは既知を読むこと。例えば、前の晩にテレビで観た野球の試合について、翌日新聞で読むこと)をすること。

年老いて本を読むなら、ベータ読みです。アルファ―読みは時間つぶしにしかなりません。

 

「生き方」を学ぶ

それとなく、おもしろい生き方を教えてくれるのは、エッセイです。かつては随筆と言われたものですが、エッセイは随筆とは違い、ものの考え方が含まれていて、人生的です。

子ども、若い人にとって、エッセイは絵に描いた餅ほどの意味もありませんが、中年の人、世間というものをいくらかでも知った人にとって、エッセイは、小説よりおもしろくなります。

小説は同じ作品を二度繰り返し読むということは少ないのですが、すぐれたエッセイなら何度読んでもいやになったりしません。

内田百閒の『百鬼園随筆』、『阿房列車』は名文です。

おもしろいことは何も出てこないのに、たいへんおもしろいから不思議です。

寺田寅彦全集もおもしろく、ものを考えるということをぼんやりながら理解するようになりますた。

内田百閒も寺田寅彦も夏目漱石の門下です。漱石の作品にもつよい関心をもっています。

定年ですることがなくなったら、寅彦は百閒のようなエッセイをじっくり読めば、新しい自己があらわれるのではないかと思われます。

 

ローマの皇帝アウグスティヌスが言ったという「ゆっくり急げ」は至言です。

急げや急げ、ではいけません。ゆっくりゆっくりもいけません。

ゆっくり急ぐ、これがよろしい。

年をとった人間は、若者よりは、ゆっくり急ぐことができますが、なお、急げや急げになったり、ときには、ゆっくりボンヤリとなったりします。

うまく、ゆっくり急ぐ生き方をすれば、すばらしい二毛作になります。

 

忘れようと思ってもなかなか忘れられないことでも、書いてみると、案外、あっさり忘れることができます。書いて記録してあると思うと、安心して忘れることができるのです。

いっそ、勤めていたときの自分史を書いてみると、本当に、過去から離れることができるかもしれません。

過去を捨てるのではなく、過去と絶縁するための記録です。

前半生を忘れて、新しい後半生を始める決意において、われわれも、出家的に生きることはできるはずです。

人間にとって過去は大切ですが、それにとらわれて、前向きに生きられないのではよろしくありません。

過ぎ去ったこと、ことに、よくない過去は少しでも早く忘れてしまうことです。そのあとの頭で、新しい生き方を考え、工夫するのが賢明な人間であるとしてよいでしょう。

 

残照夢志

残照とは、「日が沈んでからも雲などに照り映えて残っている光。夕日の光。残光。」、そこで、たとえ老いても、

夢志とは、夢は漠然とした個人の願望であり、志は個々人の願望を超えて多くの人々の夢を叶えようとする気概です。夢はこころよい願望になるが、それを叶えるための厳しい未来への挑戦し続けること。

 

とにかく「新しい勉強」をしよう。超老人の志です。

 

ありがとうございました~!!

m(_ _)m

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2023年11月12日 (日)

来年2月に還暦。そして定年を迎えますが、その心構えとして『部長の大晩年』城山三郎著(部長にはなれませんでしたが(笑))を読んでみました~!

 

1955年、当時は55歳定年で、キッパリと三菱製紙高砂工場での会社員人生を離れて、第二の人生、俳人人生を謳歌された。

永田耕衣氏1900/2/211997/8/25、享年97歳)について書かれた本でした

 

1900 221、兵庫県加古郡尾上村(現:加古川市)に父岩崎林蔵、母りゅうの二男として生まれる。よって、西暦の下2桁が永田耕衣氏の年齢でもありますネ!

1906 尾上村立尾上尋常高等小学校尋常科に入学

1912 尾上尋常小学校高等科入学。国語作文を好んだ

1914 尾上尋常高等小学校高等科卒業。兵庫県立工業学校(現:工業高等学校機械科)入学。俳句に関心を持ち始める

1917 兵庫県立工業高校卒業。三菱製紙所(現:三菱製紙高砂工場)入社

1919 右手を抄紙機(しょうしき、紙を抄(す)くための機械。製紙工場において紙を連続的に抄く機械である)にはさまれ、手甲が組織壊滅、そのため指3本の機能を失った。大変な事故であったが、戦争へ行かずに済んだ

1920 赤坂ユキヱと結婚。毎日新聞兵庫県付録の俳句欄(岩木躑躅選)に投句を始める。

1922 長男正誕生。岩木躑躅を訪問するようになる。

1928 武者小路実篤に傾倒。「新しき村」に入村を志すが、村外会員となる。「新しき村」に小説、自由詩等を発表

1929 原石鼎の「鹿火屋」に投句を始める

1934 第一句集『加古』刊行

1937 文化趣味の会「白泥会」を結成。棟方志功、河井寛次郎、柳宗悦、濱田庄司ら の芸術談を聞く会であった。特に棟方志功とは個人的にも芸術談を交わすほどの間柄となった

1940 石田波郷の「鶴」に投句を始める。(のち同人となる)

1947 西東三鬼1900/51962/4 俳人、歯科医、享年61歳)を神戸山手の三鬼館に訪問。石田波郷の推薦で「現代俳句協会」設立当初の会員となる。6月、「近畿俳話会」誕生。席上で伊丹三樹彦、赤尾兜子らを知る。

1948 西東三鬼の推挙で「天浪」同人となる。山口誓子に傾倒する。

1949 1月、社内で耕衣中心の俳誌「琴座(りらざ)」が生まれる。

1950 1月、母りう逝去、享年91歳。「母の死や枝の先まで梅の花」

1952 三菱製紙高砂工場製造部長に任命される。のち、研究部長を兼務し、多忙な生活であった。

1953 「天浪」脱退。「鶴」に戻る。以降、西東三鬼から怒りを浴びることになる。

1955 三菱製紙高砂工場を定年退職。神戸市に転居。近所には赤尾兜子(あかおとうし 俳人、毎日新聞社記者、男性1925/21981/3 享年56歳)がいた。そこで、耕衣は毎日新聞神戸版の俳句選者となる。

1956 近所に住む赤尾兜子が足繁く訪問。俳句談義を交わした。

当時神戸在住の金子兜太(かねことうた 俳人 1919/92018/2 享年98歳)を知る。

1959 高柳重信1923/11983/7 享年60歳、肝硬変による静脈瘤破裂、お酒好きであったのかも!?)赤尾兜子らと同人に加わる。

1964 神戸新聞会館文化センターで初の書作展開催。句集『悪霊』で半どんの会文化賞受賞!

1971 実兄の清市が逝去。享年87

1974 神戸市文化賞受賞。

1976 金子晋(すすむ)という、新しい仲間が加わった。耕衣よりも32歳年少。小柄で筋肉質。好奇心旺盛で身の動きも、頭の回転も速い。中学の国語の教師であり、教師の傍ら俳句を作った

1977 兵庫県文化賞受賞。

1981 赤尾兜子が急逝。大きなショックを受ける。享年56歳、阪急電車への飛び込み自殺と言われています。一方、神戸新聞平和賞受賞!

1983 「俳句評論」が高柳重信の死により廃刊。

1985 「永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集」が朝日文庫より刊行

1986 「永田耕衣」が春陽堂俳句文庫より刊行

ここ5年ほどの間に句集三冊、文集「濁」(沖積舎)より刊行

1989 高砂文化賞受賞!

1990 第二回現代俳句協会大賞受賞

1991 句集『泥ん』で詩歌文学館賞受賞

1995 阪神淡路大震災で被災。家は崩壊。耕衣自身にケガは無かったが、階下に住んでいた息子夫婦は大ケガすることとなった。耕衣自身は、大阪府寝屋川の特別養護老人ホームへ移る。

1996 朝食に向かおうとしてころび、左上腕骨を折る、19歳のときから、文字通り腕一本で働き続けてきたその左腕までが、こうして休養を強いられることになり、口述に頼らねばならなくなった。

1997 自らの意志で「琴座」を終刊し、「琴座俳句会」を解散する

この年、本書の著者城山氏は、永田耕衣と直接会うこととなる(246頁)

耕衣には、後輩の金子晋が付き添っていた

「空海には妙味があった。自己解放的なところが・・・。人生の裏に一つのユーモアを感じて。道元もユーモア的人間になりたいというところがあったろうけど、あまりに自分に厳しすぎて・・・。哲学好きだけど、そこにとどまっていた。茶化すところが無かった。もうちょっと遊んで欲しかった」

「枯草は清潔や。汚れが無い」と話を聞いた。

そして、825日、肺炎のため死去。清潔な枯草のように、976ヶ月にわたる生涯を終えた。

逝去地 大阪府寝屋川市

兵庫県加古川市尾上町今福・泉福寺に埋葬される。

戒名は生前に自ら付けた「田荷軒夢葱耕衣居士」であった。

 

「茄子や皆事の終わるは寂しけれ」

「放せ俺は昔の夕日だというて沈む」

 

からだ(健康)について

61歳の時、心臓障害で倒れたが、大事には至らなかった、

この三年後、今度は奇病とされた泉熱(いずみねつ、山の湧水や井戸水などの人間の手によって消毒処理がなされていない生水を飲むことによって感染するもので、原因となるものは偽結核性エルシニア菌です。突然の発熱、発疹、腹痛、嘔吐、下痢の症状が現れて、発熱は短期間に二度起こり、およそ1週間程度継続します。治療は抗菌薬の投与となりますが、腎不全を併発した時には人工透析も行われます。)にかかる。

血圧は150-100を保っており、まずまずの健康と言える。

「人生を弾ませ、長生きを導くものこそ好奇心である。筋のいい好奇心を想像してゆきたい」

好きな言葉は

「清忙成養 過閑非養」(『言志耋録』322条のことば、せいぼうせいよう、かかんひよう、清忙は養を成す。過閑は養に非ず。心に清々しく感じる忙しさは養生になる 過閑非養。過閑は養に非(あら)ず。 余りにひま過ぎるのは養生にならない。

 

72歳の時、右首が痛くなり、筋肉弛緩剤、自律神経安定剤などを服用するようになる

75歳の時、腎臓結石、二日後に放出で収まる

78歳の時、血圧不安定のため、不快感が続く

82歳の時、左コメカミに黒色ほくろが肥大。凍結法で除去

83歳の時、左胸部に二条の白雲状の棚引きが観られたが、問題は無かった

84歳の時、三つちがいの妻ユキエが股関節老化による疼痛に悩まされる。二年後に死去(享年83歳)

耕衣自身は、平均よりやや良いといった健康状態で推移していた

91歳の時「わたし死ぬような気がしないの」との宇野千代の言葉に発奮したかのように、125歳まで生きる」と宣言

しかし、ときどき眩暈に襲われたことがあり、歩道の上でごくゆっくりと倒れた。左大腿骨骨折、そのまま入院となり、金属製支柱を埋め込む手術となった。三カ月のう入院生活となったが、ほぼ以前と変わらぬ生活を送れるように回復した(217頁)

96歳の時、朝食に向かおうとしてころび、左上腕骨を折る。19歳のときから、文字通り腕一本で働き続けてきたその左腕までが、休養を強いられることになり、口述に頼らねばならなくなった。

このころより、耕衣のエネルギーも確実に失われていき、腕が回復し、なんとか筆を持つことができるようになってからも、まとまった文章を書くのが、苦痛になった。(237頁)

97歳になり、少しずつ食欲が落ちてゆき、825日、耕衣は清潔な枯草のように、976ヶ月にわたる生涯を終えた。

 

永田耕衣のハートについて

「実務に集中」あってこそ「佳句」が得られるというわけで、実務は適当に手抜きし、俳句に全力を、などという生き方を批判する。会社にも作句にも全力投球しろ。それが結局、佳句を生むことになる。

耕衣自身もその自覚を持って生きてきた。(120頁)

 

「毎日が日曜日」の耕衣にとって、楽しくない時間や不本意に過ごす時間は無かった(156頁)

 

「出会いは絶景」

 

60歳の時、健康上、そして経済的な理由により、誓ったこと(161頁)

『理髪 二カ月で一回に

映画館行き やめる

夜の会合 出ない

ビール 毎日小瓶一本』

「道元を改めて学ぶべし」

“正法眼蔵”と民俗学に力を入れて勉強せん」

 

年をとると、生きている喜びが深くなる。私にあっては、旅をすることでもなく、世間に存在を媚びることでもない。古人今人の秀れた文章を毛穴から読みとることである」(192頁)

 

多くの子どもと同様に、耕衣も母寄りの子に育ち、父親よりも母親に、よいイメージを持った

 

最後に松岡正剛氏の千夜千冊より

 

37歳のころ、「白泥会」をつくった。柳宗悦に共感したためで(これは実篤への共感よりずっといい)、工楽長三郎という素封家が世話人になって、『陶器事典』全六冊で知られる岡田宗叡が目利きとなったもので、ここに棟方志功や河井寛次郎も呼べた。このあたりから耕衣は飛びはじめる。戦時中に石田波郷の「鶴」の同人となり、西東三鬼と交わり、やがて「琴座」を主宰した。

 

耕衣は老いてからだんだん凄まじい。そういう老人力というものは昔から数多いけれど、ぼくが接した範囲でも老人になって何でもないようなのはもともと何でもなかったわけで、たとえば野尻抱影、湯川秀樹、白川静、白井晟一、大岡昇平、野間宏‥‥みんな凄かった。なんというのか、みんな深々とした妖気のようなものが放たれてくる。正統の妖気である。

実際にも、耕衣は老いるにつれて「平気」ということをしきりに言うようになっている。それとともに以前から好きだったらしい盤珪の不生禅(☆)の底力のようなものが加わってきて、なんだか事態を見据えてしまったのだ。いや、精神は事態を見据えて、そのぶん俳諧が静謐な「バサラ」(☆)になっている。

 

☆盤珪永琢(ばんけいようたく)

「不生禅(ふしょうぜん)」という教えを唱え、多くの人に仏法を説いた禅僧であり、逸話も多い。

盤珪禅師は、自身の永年にわたる生死をかけた厳しい禅修行を「無駄骨を折った」とあっさりと否定し、そんなものは一切不要であると言い切られるのです。ありのままの自分でいい。なぜなら、「仏心」は生まれながらに私たちに具わっているもので、けっして生まれるものでも、死んでなくなるものでもない。このことに私たちが気付きさえすれば、心安らかに人生を歩んでいけると背中を押してくださるのです。

無理をすることは必要ではない。ありのままでいい。できることなら皆には、厳しく辛い修行をすることなく気付いて欲しい。誰もが幸せに生きて欲しい。ここに私は、宗教家・盤珪禅師の深甚たる慈悲の心とも言うべき「願い」を感じずにはいられないのです。

 

腹の立ち方に3種あり

仏教には、腹を立てるということに関して人には3つのタイプがあるとする考え方がある。

そのタイプとは、次の3つである。

 

岩に刻んだ文字のような人

砂に書いた文字のような人

水に書いた文字のような人

 

岩に刻んだ文字のような人とは、腹を立てたその怒りがまるで岩に刻まれた文字のようにいつまで経っても消えることがなく、延々とくすぶり続けている人。

砂に書いた文字のような人とは、腹を立てたその怒りがある程度頭に記憶されるが、時間の経過とともに薄れていき、あたかも風に吹かれて消えていく砂の文字のように、やがて怒りが消滅する人。

水に書いた文字のような人とは、腹を立てたその怒りにこだわりを持たない人。

人から馬鹿にされても、「何を言っているんだか」と呆れることのできる人。

怒りの本質は、自分を可愛がる気持ちにあることを知っている人。

私がこの考え方を面白いと思ったのは、この3タイプはいずれも腹を立てた後の「怒り」の変化を表しているのであって、誰もが腹を立てるということに関しては一緒なのだということだ。

腹を立てない人はいない。

よく、修行をすれば腹を立てることもないというような、聖人のようなイメージを持たれることがあるが、そうではない。

腹は立つ。

ただ、立った腹がどう変化するかは、人によって違いがある。

水に書いた文字のような人であれとは、怒りという気持ちと無縁な人間になれと言っているのではない。

そんなありもしない理想を言っているのではなく、心のコントロールに責任を持てと言っているのである。

自分の心に責任を持つことが、精神における子どもと大人の違いにほかならないからだ。

 

☆ばさら

日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。「婆娑羅」など幾つかの漢字表記がある。

身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識であり、室町時代初期(南北朝時代)に流行し、後の戦国時代における下克上の風潮の萌芽ともなった。ただし戦国時代の頃になると、史料には「うつけ」や「カブキ」は出てくるが、「婆娑羅」およびそれに類する表現は全くと言っていいほどなくなった。

 

ありがとうございました~!!!

m(_ _)m


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2023年9月10日 (日)

「じい散歩」 藤野千夜(ふじの・ちや)著「夫婦あわせてもうすぐ180歳、三人の息子は、全員独身」朝日新聞の本書広告を読んだ母親が「読みたい!」ということで購入~、渡す前に読んじゃいました。ノンフィクションかと思いましたが、藤野氏は芥川賞作家であり、物語でした~!

 

朝日新聞での本書の広告は、「夫婦あわせてもうすぐ180歳、中年となった3人の息子たちは、全員独身。長男は高校中退後、ずっと引きこもり。次男は恋人が男性の自称・長女。三男はグラビアアイドル撮影会を主催しては赤字で、親に無心ばかり。そんな一家の日常をユーモラスに、温かな眼差しで描く・・・」

とあると、とくに高齢者の方は、読みたくなるように思いました。

 

当年83歳の母親も“読みたい!”ということで、購入したのですが、いやいやなかなか登場人物が多くて驚きました・・・

これ、高齢者の方は登場人物を覚えながら、読めるのかしらと・・・

自分自身もメモをしながら、読みました。(^^;

 

主人公は、大正生まれの「明石 新平 89歳」、「妻の英子 88歳」

この高齢老夫婦には、三人の息子がいて、

長男 孝史(昭和37年生まれ)、引きこもり

次男 健二(昭和39年生まれ)、おかま

三男 雄三(昭和42年生まれ)、体重100キロ超で借金まみれ

 

そして、新平には男5人、女4人の兄弟がいます。
物語の中では。4人の名前がでてきます。

「定吉」、新平の5歳年下の弟

「しげる」、郷里に住む弟

「さとえ」、新平のすぐ下の妹

「はるえ」、新平の末の妹

 

英子にも、姉妹がいます。

「ひい姉」、英子と10歳以上離れた姉

「すみれ姉」、英子とちょうど10歳違いの姉、

そのすみれ姉の娘が器量よしの「さなえ」(昭和30年生まれ)で、新平、英子のになります。

 

新平の友だちで、高齢となってからはエロ映画などを一緒に楽しむ仲間

 「中本」、電気職人

 「並木」、大工

 「小嶋」、自動車屋

 

ほかに、英子が動物好きと言うことで、雑種犬の「ちいこ」、だるまインコの「たーちゃん」など。

 

途中途中で、名前だけ出てくると、この人誰だっけ、となりますよね・・・(笑)

 

いろいろな問題を抱えながらも、笑いを忘れずに生きていく”時の流れ”を、穏やかな感じに描いている“風景”のような物語でした。

そこで、物語の“内容”というより、「解説」から一部書き留めておきたいと思います。

 

歳を重ねても悩みは尽きないし、心配事も容赦なく降り注いでくる。

むしろ、若い頃より悩みの質は深刻度を増している。

介護、病気、不調、疲労、金欠、孤独・・・・

かような現象を目のあたりにするたび、悟りなどというものは、生きている限り開けることはないのだろうと、考えを改めないわけにはいかなくなった。

 

人生は穏やかでも華やかでもない。

それでも生きている限り日々は続いていく。

たぶん自らの生きているこの世界を、現実を、味わうために。

おそらく人生は、すかっと美しくかっこよく送れるようにはできていない。

歩んできたあとには、後悔だの失敗だの恥だの消沈だのの残滓が、これでもかと落ちている。

 

本書に棲む人びとと共に時を過ごすと、

自分も今まで通り、この世界にいてイイんだな、と安心する。

失敗続きで課題満載の人生を、静かに肯定してくれるようなやさしさと強さが、至るところに散りばめられている。

シビアな現実につきあたり、立ち止まってしまったら、美味しい饅頭をお供に、新平の散歩に付き合えばいい。きっと再び、目の前の景色は息を吹き返し、鮮やかな彩りを取り戻すだろう。

 

ありがとうございました~!
m(_ _)m

 

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2023年8月12日 (土)

2015刊行、五木寛之氏83歳のときの作品で原題は「嫌老社会を超えて」、それを大幅に加筆し再構成しなおして2017年に「孤独のすすめ(人生後半の生き方)」として書き下ろした本書。“孤独”に魅かれて読んでみました!

 

人には「食欲」や「性欲」と同じように「生存欲」という人間の持つ根源的な欲求。いくつになっても生きていたいと本能的に思う。

私自身にもその本能はあります。同時に、その本能の背後にどんなものが潜んでいるのかを繰り返し考えてみて、ふと、こんな結論を得ました。

笑われるのを承知で言えば、私は「この世界がどう変わっていくのか、観ていたい」だけなのです。

日本だけではなく、アジアが、世界全体が、この先どのような変貌を遂げていくのかを目撃したい。知りたい。そのために長生きしたいと思う。

私はあと5年、できれば10年は長生きをしてこの国の未来が観たい。「起て、老いたるものよ」と自分を奮い立たせながら、この国の行方をしっかりと見守っていこうと思っているのです。

 

90歳まで生き、宗教家の中では最高齢者と言える親鸞は、85歳の頃に書いた手紙の中で、

もう自分は目も見えない、なにごともすぐ忘れてしまう。人様に教えを説くような身ではないと、自分の状況を正直に見据えているのです。

あれほど頭脳明晰で天才的な思想家であった親鸞でさえ、やはり晩年は衰えていく。その現実を、自分で明らかに究めているわけです。

親鸞はくっきりとした美しい字を書く人でした。しかし晩年の手紙は文字も乱れ、判読しにくい部分もあります。どれだけ社会的に活躍した人であれ、立派な思想家、宗教家であれ、老いるとそうなっていく。それはある意味、自然の摂理です。

人間に必ず訪れる老い、その現状を明らかに究めて、受け入れる。受け入れた上で、視点を転換して、そこに新しい展開を模索する。それが、大事なのではないか。

 

豊かな国に拡がる不安

会社でリストラに遭ったとか、病気になったとか、「切実で現実的な」不安に駆られている人も、少なくはないでしょう。でも、それとはちょっと次元の違う、漠然とだけれど、しかし「巨大な不安」に、国全体が覆われているように思えるのです。

日本人は、誰もが漠たる「巨大な不安」を抱えていきています。その不安と面と向かって対峙したのでは、身が持たないかもしれません。「年金も保険もない老後など、想像できない」というより、「したくない」のです。

みんながするべき心配から意識的に目をそらし、お気楽に日々を送る日本の現実を、私は「心配停止」社会と名付けました。「心肺停止」をもじった、下手な造語です。

この国が、本物の「心肺停止」になる前に、なにかやるべきことはないのでしょうか。

 

「嫌老社会」から「賢老社会」へ

50歳になったら、それまでの働き詰めの人生を一度振り返り、「よりよい生き方とは何なのか」を考えてみよう。50歳を過ぎて、人生の後半に入ったら、好きな趣味の世界に没頭しれいればいい、ということではないのです。

「よりよい生き方」の最たるものは、「社会貢献」であるはずです。働くことに生きがいを感じられるのなら、年齢制限なく、そうすべきです。

できるだけ社会保障のお世話にならない覚悟で生きていく。百歳過ぎたら選挙権は悠然と下の世代に譲り、政は彼らに任せる。

 

人間不信と自己嫌悪は、人が明るく生きていく上で大きな傷害になります。それを、どういうふうに手放すか。私は、回想の力によって乗り越えられると考えています。

世の中は金と欲と権力の巷だということは分かっているけれど、それでもなお、人間は面白い。ささやかな人の営みというのは、なんともいえない味わいがある。そんなジワーっとした思いによって、人間不信と自己嫌悪という二つの病が癒されていくようにしたい

 

読書とは、著者と11で対話するような行為です。

からだが衰えて外出ができなくなっても、誰にも邪魔されず、古今東西のあらゆる人と対話ができる。

本は際限なく存在しますから、孤独な生活の中で、これほど心強い友はありません。

例え親鸞のように視力がおとろえて、本を読む力が失われたとしても、回想する力は残っているはずです。

残された記憶をもとに空想の翼を羽ばたかせたら、脳内に無量無辺(仏教のことば。「無量」は、計れないほど多いこと。「無辺」は、広々として果てしないこと。数限りないこと。)の世界が広がっていく。誰にも邪魔されない、ひとりだけの広大な王国です。孤独であればあるほど、むしろこの王国は領土を広げ、豊かで自由な風景を見せてくれる。

歳を重ねるごとに孤独に強くなり、孤独の素晴らしさを知る。孤立を恐れず、孤独を楽しむのは、人生後半期のすごく充実した生き方の一つだと思うのです。

 

ありがとうございました!

 

m(_ _)m

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2023年8月11日 (金)

アンパンマンを描いたやなせたかし氏90歳のときの著書「わたしが正義について語るなら」を読んでみた! ♪「アンパンマンのマーチ」の作詞もされていて、深イイと思っていましたので、ブックオフで発見して即購入しましたヨ!

 

やなせたかし氏(1919年~2013年)は2013年に94歳で亡くなられていますが、90歳のときに書かれた本となります。

 

正義のヒーローとして「アンパンマン」を描かれたやなせ氏にとっての「正義」とは?

 

戦争している国同士は両方正義だ、悪い奴をやっつけると正義が勝ったのだと言って戦っているけれど、子どもたちのことは見てやらない。そうして子どもたちは次々に死んでいきますね。

正義のための戦いなんてどこにもないのです。

だからぼくが何かをやるとしたら、まず餓えた子どもを助けることが大事だと思った。

それが戦争を体験して感じた一番大事なことでした。

普遍的な正義は、献身と愛です。

例えば、もしも目の前で餓えている子どもがいれば一切れパン(アンパンマンであれば、自分の顔のアンパン)を差し出すこと。

 

とにかくやり続けること

「虚仮の一念」、これは取り柄のない人が一生懸命取り組む様子を表す言葉である。才能のない人が、がむしゃらに励んでいる状態を表現している

そして、

好きなもの以外の武器を持て

 

ぼくは人が笑うのを見るのが好きだ

ウマも犬も笑っているように見える時もあるが、

人間のように声を立てて涙をこぼして笑わない

人がいちばん人らしいのは笑う時だ

だからぼくは人が人らしくうれしそうに笑う声が好きだ

さよならだけが人生で最後の方はみんなおんなじ

原則的には悲愁の道

だからぼくは笑わせたい

心が軽くなるような今が楽しくなるような

明るい笑い声を聞くのが好きだ

ところで、あなたは・・・・

 

そして正義という言葉に込めた思いは、この歌の中にあります

青字は本書の中で、一部の作詞部分についてコメントされていた

 

アンパンマンのマーチ

 

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び

たとえ胸の傷が痛んでも

 

何の為に生まれて 何をして生きるのか

→ぼくの人生のテーマでもあります。ぼくはみんなが楽しんで喜んでくれるのが一番嬉しい。

そして、ひとそれぞれが何かの分野でいくらかの才能はもらっているので、いくらかの才能を磨いてよくしていくしかない

 

答えられないなんて そんなのは嫌だ!

今を生きることで 熱いこころ燃える

だから君は行くんだ、微笑んで

 

そうだ!嬉しいんだ、生きる喜び

たとえ胸の傷が痛んでも。

 

嗚呼アンパンマン優しい君は

行け!皆の夢守る為

 

何が君の幸せ 何をして喜ぶ

解らないまま終わる そんなのは嫌だ!

 

忘れないで夢を 零さないで涙

だから君は飛ぶんだ、何処までも

 

そうだ!恐れないでみんなの為に

愛と勇気だけが友達さ

→これは、戦う時は友だちをまきこんじゃいけない、戦う時は自分一人だと思わなくちゃいけないんだということなんです。横断歩道もみんなでわたれば怖くない、悪いことをする時にも群衆でやれば怖くないというのがあるけど、責任は自分で負う覚悟が必要なんだということなんです。

 

嗚呼アンパンマン優しい君は

行け!皆の夢守る為

 

時は早く過ぎる 光る星は消える

だから君は行くんだ微笑んで

 

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び

たとえどんな敵が相手でも

 

嗚呼アンパンマン優しい君は

行け!皆の夢守る為

 

 

"歌詞の解釈は様々だが、その中のひとつにこの『アンパンマンのマーチ』は、戦争で海軍に志願し特攻隊として22歳という若さで亡くなった、やなせたかしさんの弟を想いも込められているという説があります"

 

歌詞を振り返ってみると

1番の「今を生きることで 熱いこころ燃える だから君はいくんだ ほほえんで」や、

2番の「忘れないで夢を こぼさないで涙 だから君はとぶんだ どこまでも」、

3番の「時ははやくすぎる 光る星は消える だから君はいくんだ ほほえんで」

 

どうもありがとうございました!

 

m(_ _)m

 

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