幕末・明治の偉人たちの定年後のため、とくに秀でたところが無く、平々凡々のアラ還世代の自分に役立つのか~!?と思いましたが、読んでみましたヨ~!(笑)
やはり!?読後感としては、本書に登場する、ほとんどの皆さまは、第二の人生においても、請われている、求められている。そして、秀でたところを持っている方でした。
一つ教訓としては、第二の人生において、「権力」を持ち続けることは、世の中に悪影響を与える可能性が高くなること。
よって、「権力」からは離れて、少しでも社会に役立つように働くなり、活きるなりを続けることが大事であること。
そして、お金をいただけるだけの並よりも少し優れたことを身につけておけるように努力を続けることも大事なのだと思いました。
勝海舟(1823年3月12日~1899年1月19日、享年75歳)
1860年、37歳のとき、日米修好通商条約を批准するため幕府の使節団が渡米する。この際、海舟が咸臨丸の指揮官となり日本人として初めて太平洋を横断した。
1868年、45歳のとき、新政府軍西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城をした。
このとき、西郷の英断と度量の大きさを絶賛している。
1872年、49歳のとき、新政府に出仕することに同意する。廃藩置県によって藩が消滅していた。仕えるべき藩が消滅したことで、主家に義理立てする必要もなくなり、新政府の期待にこたえる気になったのかもしれない。
1875年、52歳のとき、政府の台湾出兵、清国への賠償請求に反発して、政府から離れた。
その後は、相変わらず海舟自身は多くの妾や子供と同居しているうえ、個人的には私財をだして徳川旧臣に援助していたこともあり、かなり生活は苦しかったようだ。篤姫との不倫もあったようです。
それでも政府の招きには決して応じようとしなかった。
1887年64歳のとき、それまでの功績が大きく評価され伯爵となり、宮内省から3万5千円という大金が入り、海舟本人も枢密院(天皇の諮問機関)顧問官に就任した。
1891年68歳のとき、嫡男小鹿を失う。海軍軍人となって少佐までのぼったが、病弱のため前年には予備役に編入をしていた。
海舟は慶喜に書簡を送り、「慶喜公の末っ子を養子として勝伯爵家にもらい受け、その血筋に爵位をお返しした」と申し入れた。
海舟には長崎時代の愛人に産ませ、手元で育てた梅太郎がおり、彼に伯爵を継がせる事も出来たが、敢えて慶喜の子を貰い受けることにしたのである。おそらく福沢諭吉の「やせ我慢の説」に対する海舟の返答だと思われる。
潔い決断だと言えるだろう。
1897年、73歳のとき、上野に建てられた西郷隆盛像の除幕式に参列。
西郷のことを「ごく優しい奴だったよ。アハハなどと笑ってね、温和しいひとだったよ」などと評した。
1899年、75歳のとき、風呂から出たところで急に倒れ、間もなく亡くなった。最期の言葉は「これでおしまい」と伝えられている。
榎本武揚(1836年10月5日~1908年10月26日、享年72歳)
1868年、32歳のとき、江戸城は無血開城したが、武揚は新政府軍への旧幕府艦隊の引き渡しを拒み、軍艦8隻を引き連れて品川を脱し、新政府に敵対する東北諸藩を海上から支援、その後、仙台に集まった旧幕府方の人びとを乗船させて蝦夷地へ渡った。旧幕府軍は松前藩や新政府軍を駆逐して蝦夷全島(北海道)を制圧し、函館の五稜郭を拠点に政権を打ち立てた。
しかし、箱館戦争の首謀者として新政府に降伏することとなった。
意外なことに武揚をはじめ五稜郭政府の閣僚たちは、投獄されたものの、最終的には全員が命を長らえた。
箱館戦争で新政府の参謀として活躍した黒田清隆が、武揚はじめ旧幕府軍の助命を強く主張したためであった。
1872年、36歳のとき、新政府の官僚(北海道の開拓使)に登用されることになった。
このほか松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助らもみな、開拓使に出仕することになった。
その時の、開拓使次官は黒田清隆であった。
1875年~1877年、39歳から41歳のとき、ロシアとの交渉の結果、ロシアとの領土交渉に臨み、樺太を放棄する代わりに千島列島すべてを日本領とし、さらに10年間のクシュンコタンの無税化や近くでの漁業権を獲得、樺太千島交換条約を結んだ
1879年、43歳のとき、外交手腕を買われて外務次官に登用され、44歳には海軍卿となった。46歳には、駐在特命全権公使に任じられて清国に赴任。
1884年、48歳のとき、伊藤博文を補佐して、天津条約締結を果たした
武揚の李鴻章と肝胆相照らす仲になっていたから、と言われている。武揚は人に好かれる質であった。
正直さと誠意、これが武揚を立身させた最大の要因だったのだろう。
1894年、58歳のとき、農省務大臣になる
1897年、61歳のとき、足尾銅山の鉱毒による被害農民の代表と会い、さらには現地へも視察に出向いた。そして、その被害の大きさに衝撃を怯え、政府に鉱毒調査委員会を設置する。だが銅山側と政府高官が結託していたのか、なかなかそれ以上の対応が難しく、責任を感じた武揚は大臣を辞職、以後、政府の要職から去った。
1898年、武揚の嫡男・武憲が結婚した。27歳。その妻となった梅子は、黒田清隆の娘であった。
その二年後、黒田清隆逝去(享年61歳)
その八年後、榎本武揚逝去(享年72歳)
副島種臣(1828年10月17日~1905年1月31日、享年76歳)
佐賀藩に生まれた。
幕末に政治活動をしていた数少ない佐賀藩士であった種臣は、すぐに政府に登用されて参与となり、さらに参議(いまでいう閣僚)に上った。漢学の素養が深く英学もかじっていたので、
1871年、43歳のとき、外務大臣となり、ロシアとの国境問題の解決、日清修好条約(初めての対等条約)を批准した。
1874年、46歳のとき、西郷隆盛が下野すると、これに同調して政府を辞めて、板垣退助らと民選議院設立の建白書を提出した。
1879年、51歳のとき、漢学的素養と篤い尊王思想を買われて“宮中”に入った。
1886年、58歳まで、明治天皇を英君とすべく全霊をこめて講義を続けた。
1904年、75歳まで、明治天皇に請われて、枢密院顧問官を務めた。
1905年、76歳、逝去
板垣退助(1837年5月20日~1919年7月16日、享年82歳)
1899年、62歳のとき、党利党略による醜い争い、政治家の金権体質など政治の世界にほとほと愛想をつかし、政界を引退した
1900年、63歳のとき、西郷従道(隆盛の弟)とともに中央風俗改良会を立ち上げた。
家庭の改良、自治体の改良、公娼の廃止、小作や労働者問題の改善、といった、社会のさまざまな問題を解決して、日本全体をより良くしていこうという非常に幅の広い活動であった。
1919年、82歳で亡くなるまで、私財を投げ出して、社会問題に取り組んだ。
山県有朋(1838年6月14日~1922年2月1日、享年83歳)
1889年、51歳のとき、1898年、60歳のときの二度、総理大臣の大命が下り、内閣を組織した。
2度目のときには、社会主義運動を取り締まる治安警察法、政党の軍や官界への進出を防ぐための軍部大臣現役武官制度や文官任用令の改正を断行した。
1900年、62歳のとき、首相を辞任し、この後は天皇の補佐役、元老として、伊藤博文、黒田清隆の中に加わった。彼らは元老会議を開いて、次の首相候補を決め、天皇に推薦する。それを天皇が拒否した例は無いから、実質的に内閣首班を指名できる権限を有していた。
1901年、63歳のとき、自分の配下である桂太郎を首相にして内閣を組織させた。
桂太郎は愛想がよく人間関係に長けていた。が、多数の社会主義者を検挙、幸徳秋水をはじめ無実の社会主義者を多数処刑・処罰した。これを「大逆事件」と呼ぶ。
そして、権力に固執し、後継者育成に失敗。
“桂太郎”のほか、“寺内正毅”や、清濁併せ呑む“原敬”がいたが、いずれも有朋よりも先立ってしまう。
“原敬”が刺殺された翌年に、体調を崩し、回復することなく死去。享年83歳。
有朋の最大の趣味は造園であった。有朋は金にまかせてあちこちに別荘をつくったが、その庭園はすべて自らが指揮してつくり上げている。まことに見事なものである。今でも私たちは、東京目白に彼のつくった名庭を目にすることができる。そう椿山荘である。
また、東邦生命の母体となった、徴兵保険株式会社も、有朋の陸軍における圧倒的な権力によって、明治29年、1896年に創業した。
高橋泥舟(1835年3月15日~1903年2月13日、享年67歳)
高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟は、「幕末の三舟」と呼ばれた幕臣として知られている。
1871年、36歳のとき、廃藩置県によって、藩が消滅した。勝海舟と山岡鉄舟は新政府に仕えることになり、海舟は新政府の閣僚、鉄舟は宮中に入って明治天皇の側近となる。
ところが、泥舟だけは、新政府に出仕しなかった。
泥舟は第二の人生をあえて栄達を求めない生き方を選んだ。一切政治的な発言を控えた。すなわち、徳川家の滅亡と共に己の存在を消し去ったのである。
徳川慶喜への恩義、「ニ君に仕えず」という士道を決意し、矜持を大事にした。
「世の人。名誉心のために、日夜に地獄を作り出すこと愚かなり。さて、死に支度として、生前人道に背かぬように、万事心がけ、生きて神仏に恥無きように、死に至るまで怠らず、たゆまず生き遂げてこそ、よき死に支度であろう」
いくつもの歌や名言を残して、67歳でこの世を去った。
前島密(まえじま ひそか、1835年2月4日~1919年4月27日、享年84歳)
「郵便の父」と呼ばれている。
1881年、46歳のとき、役人を依願退職したが、1887年、53歳のとき、官僚へ復帰する。
当時の逓信省初代大臣榎本武揚に請われて、逓信次官となった。
郵便電信局や郵便電信学校を創立、電話事業を官業として成立させた。
しかし、短気なこともあり、1891年、57歳で、またもや退職。
その後は実業界でも活躍した。
1902年、67歳のとき、華族となり、69歳で貴族院議員となったが、75歳で、これまた辞職。
その後、76歳から84歳で亡くなられるまで、神奈川県横須賀市の山荘で作庭を楽しみながら静かに暮らした。
北里柴三郎(1853年1月29日~1931年6月13日、享年78歳)
1914年、61歳のとき、北里研究所(現在の北里大学病院)を立ち上げる
1917年、64歳のとき、慶応義塾大学医学部創設にも関わることになる
ほかにも生活困窮者を救済するための済生会創設にも関わり、大日本医師会(現在の日本医師会)の創設、公衆衛生や健康保険制度の実現にも尽力した。
そして、1931年、78歳で死去。
突然の死であった。前日まで何の変化もなく、翌朝、なかなか起きてこないので、家族が寝室に様子を見に行ったところ、すでに息を引き取っていたのである。まるで眠っているように、ふとんも着衣も乱れていなかったという。見事な大往生であった。
東郷平八郎(1848年1月27日~1934年5月30日、享年86歳)
1905年5月、57歳のとき、日露戦争における連合艦隊艦長として、ロシアのバルチック艦隊を撃破して勝利に導いた。
同年10月、軍艦三笠が、佐世保港内で事故により沈没、いまだに原因は不明だが、339人という大きな犠牲が出た。日本海海戦のじつに3倍もの死者であった。
1913年、65歳のとき、元帥となった。これにより、死ぬまで現役となったのである。
そして、73歳まで東宮御学問所の総裁となって、昭和天皇の教育に努めた。
80代で軍縮条約をめぐる抗争、軍縮の調印に反対な勢力の中心となった。
結果として、太平洋戦争への起点のひとつになってしまった。
渋沢栄一(1840年3月16日~1931年11月11日、享年91歳)
言わずと知れた実業家となりますので、その点はのぞきます。
主君であった慶喜の功績を正しく評価してもらうため、25年の年月をかけて『徳川慶喜公伝』全8巻を完成させた。
晩年の活動として特筆すべきは、アメリカとの民間親善外交を推進した。栄一は生涯に4度、渡米している。1902年、62歳のときには、セオドア・ルーズベルト大統領とも会談した。
「平和こそが経済を発展させ人びとを幸せにするのだ」という信念を持っていた。
そこで、日米同志会、日米協会、日本国際児童親善会などをつくって民間の立場からアメリカとの関係改善に尽力し続けた。
1931年、91歳で死去。
残念ながら、それから10年後、日米両国は全面戦争に突入・・・。
秋山好古(1859年2月9日~1930年11月4日、享年71歳)
日露戦争で活躍した日本騎兵の父。
1923年、64歳のとき、予備役に編入となり定年となった。
「男児は生涯において一事を成せばよい」が口癖であり、
「人は一生働き続けるものだ」が信念であった。
好古は士官になる前は教師であった。
好古が本当にやりたかったのは軍人ではなく、教師ではなかったのか。
そう思えるくらい、定年後に校長となってからの好古は熱心に生徒たちの指導にあたった。
糖尿病で亡くなる半年前まで校長を勤め続けた。
福地源一郎(1841年5月13日~1906年1月4日、享年64歳)
明治10年代、自由党、立憲改進党、立憲帝政等と呼ばれる初期三政党が成立した。
福地源一郎は、そのうちの立憲帝政党と立ち上げた人物である。
このことは全ての日本史の教科書に掲載されている。
頭はよいが、職を転々として、借金はするし、道楽もすごいので、ちょっと参考にはならないと思いました。
林忠崇(はやし ただたか、1848年8月26日~1941年1月22日、92歳)
18歳の若さで上総請西藩主であったが、大政奉還で江戸幕府が消滅、新政府軍に敗れて降伏した。死一等は免れたが、親類大名である唐津藩の小笠原家にお預けとなった。
1872年、24歳のとき、ようやく自由の身となった。
その後は職を転々としながらも、1893年、45歳のとき、林家は華族に列せられ、忠崇も従五位なった。しかし、妻チエの病気により、帰郷をするために、職を辞することになった。
その後、妻は無くなるが、娘のミツと共に会社を経営し、好きな絵や和歌に没頭して悠々自適の生活を送られた。
92歳で眠るように逝った。
「最後の大名」であった。
新選組隊士
永倉新八(1839年5月23日~1915年1月5日、享年75歳)
斎藤一(1844年2月18日~1915年9月28日、享年71歳)
新選組の歴史を後世に伝えたと言われています。
ありがとうございました~!
m(_ _)m

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