金融関係、その歴史など

2024年3月24日 (日)

「どうする財源」と言う本の中で『高橋是清は「信用貨幣論」を概ね理解しており、通貨というものが需要によって創造されるということも理解をしていた』というので、高橋是清をもっと知るべく「野生のひとびと」(城山三郎著)を読んでみた!

本書は、幕末から昭和初期にかけて、“野生”の如く行動し日本を牽引した人物について描かれていた。

それは、

大倉喜八郎(1837天保81023日~1928422日、享年90歳)、武器商人の実業家、財閥

安田善次郎(1838天保91125日~1921928日、享年82歳)、実業家、財閥

渋沢栄一(1840天保11316日~19311111日、享年91歳)、実業家

浅野総一郎(1848嘉永元年413日~1930119日、享年82歳)、セメント王の実業家、財閥。

浅野は、朝は誰も目覚めぬ暗いうちに起きて、東京まで商売に行き、誰もが寝静まった夜更けに汗まみれになって帰ってくる。一日4時間以上寝ると、人間は馬鹿になる。20時間は労働すべきだと考えていた。

また、浅野は、徳川時代の高僧の天海(125歳まで生きたと言われている)の信奉者で、「正直」「日湯」「粗食」「だらり」という天海の長寿の4秘訣を、いつも心がけていた。

「日湯」は毎日湯に入ることだが、浅野、そして渋沢も朝風呂を習慣としていた。

「だらり」とは浅野流に「物事を苦にしないこと」と解釈し、「自分は大の楽天家だから、十分にだらり」だと考えていた。

高橋是清(1853安政元年9月19日~1936年2月26日、享年82歳)、政治家

金子直吉(1866慶応2724日~1944227日、享年77歳)、鈴木商店の大番頭

福澤桃介(1868明治元年813日~1938215日、享年69歳)、電力業界の実業家

松永安左衛門(1875121日~1971616日、享年95歳)、電力業界の実業家

 

ここでは、高橋是清が『日本経済』について、どのように考えていたのかを追っていきたいと思います

高橋は47歳の幕府の屏風絵師が16歳の下女に産ませたいわゆる不義の子であったが、生後まもなく仙台藩の足軽高橋家に里子に出され、ついで、そのまま養子にさせられた。

暗い生い立ちだが、高橋は楽天的な明るい性格であった。

「私は子供の時から、自分は幸福者だ、運のいい者だということを深く思い込んでいった。それでどんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつかよい運が転換してくるものだと一心になって努力して生きてきた。」(高橋是清自伝)

誰の生涯にも、幸運な出来事は一度や二度はあることだが、自らを楽天家に仕立て、いつも希望をもって生きていったところに、高橋のたくましさがあった。

仙台藩からは、選抜されてアメリカ留学をしたが、留学先で奴隷契約を結ばされて、なかなか帰国ができなかったという不幸もあった。明治維新1868年、高橋15歳の頃である。

 

そして、16歳で大学南校(現在の開成高校)教官手伝いとなった高橋だが、茶屋遊び(遊郭の直接的な娯楽とは異なり、客をもてなすための接待や芸能の場、芸者や舞妓による舞や音楽を楽しむ)をおぼえると、若いだけにたちまちそのとりことなり、学校もおろそかにして放蕩にふけった。最後に、芸者の長襦袢を着て、芝居を見に行っているところを同僚の教官に見つかり、退職の破目になった。

高橋は、そのまま馴染みの芸者の家にころがりこみ、昨日の教官手伝いが今日は箱屋の手伝いという身。その中、唐津の英語学校へ赴任することで、ようやく芸者との縁が切れた。

次に唐津では、後の工学博士辰野金吾など優秀な生徒がいたが、高橋自体は、朝、教室へ出る前に冷酒をやり、昼にまた一升酒、夜も同僚を集め鶏の二羽ぐらいつぶしては酒盛りというわけで、一日三升は飲んだ。飲んだ後、手の甲に灸をすえて眠気を払いながら、三時間ずつ漢学の独学をした。

こうした生活のため、高橋は喀血した。健康が回復すると、酒のくさみがいやになっていた。だが、ひとに言われて鼻をつまんで飲んでいる中、また元の大酒のみに逆戻りしてしまった。

19歳のとき、ふたたび上京。文部省の通訳となり、ここで落ち着いたかに見えて、23歳のとき結婚

しかし、その後、東京英語学校に移ると、校長と衝突して、また飛び出した。

その後も、翻訳や予備校教師をしてたくましく生き、明治14年(1881年)、28の高橋はふたたび官界に戻り文部省へ。

ついで、農商務省で専売特許や商標登録に関する規則制定にあたった。

高橋には身分などより、仕事が問題であった

明治18年(1885年)、高橋32のとき、特許制度調査のため、欧米へ派遣された。農省務省内の派閥争いもからんで、一時期追い出された形でもあったが、名を捨て実をとる主義の彼は、屈託がなかった。

1886年、高橋はロンドン、パリ、ベルリンへと廻った。パリでは書記官である原敬を知った。

高橋は特許制度について十分な調査をしたが、ただそれだけでなく、取引所や工場などもしきりに見学し、経済の新知識吸収につとめた。

そして、帰国し、高橋33歳のとき、特許法規を完成し日本ではじめて工業所有権保護制度を作った。

 

1889年、高橋36歳のとき、ペルーへ行って鉱山・農場経営に当たってくれという話が持ち込まれた。

ペルー銀山開発熱の高まりにより、日本も動いたためである。そこで、

特許局長の椅子を投げうって、ペルーへ移住することになった。しかし、だまされて失敗。

壮大な悪夢となり、都落ち。

 

そこで、高橋は、日銀総裁・川田小一郎に呼びだされた。

川田は、くせのある人物だが、人材を集める眼があり、新知識の持主や大学卒業生を進んで採用し、その中から山本達雄、高橋是清、井上準之助など、幾人かの日銀総裁を輩出した。このときも、川田は高橋に一面識もなかったのだが、まわりの話から高橋の人間に興味を持ち、面接するために呼び寄せたのであった。

 

明治271894)年、高橋41歳のとき、日清戦争が始まった。

翌年4月まで10カ月続いたこの戦争の戦費は約2億。戦争直前の財政規模のほぼ2倍半に上る。

川田は、まず日銀の資金を政府に貸し、次いで112百万の国債を発行、公募して戦費をまかなうことにした。果たしてそれだけの公債が売れるかどうか危ぶまれ、政府は外債発行の準備をさせようとしたが、川田は取り合わず、みごと全額を国内で消化した。

この方法は、昭和になって高橋是清によって、形を変えて踏襲される。

ところで、1895417日に下関条約(日清講和条約)が締結されます。講和会議で2億両を日本に支払うことが決まります。

2億両とは当時の日本円にして31000万円に匹敵します。

現在の日本円では約360兆円にもおよぶと考えられています。

よって、日清戦争後は好景気を得ることとなる。

 

明治31(1898)年、山本達雄が日銀総裁になったとき、正金副頭取に出ていた高橋是清は日銀副総裁に任命された。

 

1903(明治36)年、日露戦争開戦の前年、日銀副総裁の高橋是清は、大蔵大臣に呼ばれ、軍需品購入のたまの外貨準備を心がけておくよう、ひそかに依頼された。

ロシア相手の戦争に予想される戦費は45千万円。日清戦争の経験では、戦費の3分の1が外国からの軍需品の購入に使われた。とすると、今回は15千万。これに対し明治36年末における日本の手持外貨は5,200万。1億円相当の外貨不足であった。

現に、そのころ、イギリスに注文してあった二隻の軍艦、日清・春日の代金150万ポンド(約1,900万)の代金支払いさえスムーズに行かず、高橋が乗り出して、ようやく引き渡されたような、心細い状態であった。

1904(明治37)年2月開戦となるや、政府は急ぎ、外債募集の財務官を海外へ出すことになり、高橋是清に全権を与えて任命した。

若い秘書役、深井英五(後の日銀総裁)一人を連れ、アメリカ経由、ヨーロッパへ出発した。

このとき、高橋51歳。心中、悲壮であった。

年内に、二度に分けてもよいから、1,000万ポンド(約13千万)の外債を募集、外貨を調達せよというのが、至上命令である。

 

「ロンドンで募集の見込になし。今日、正金銀行には、びた一文の信用無し」というロンドンの正金支店長からの電報が届けられた。

不利な中でも交渉を進めた結果、最高発行限度300万ポンド、6分利付、発行価額は額面の92%、抵当には日本の関税収入を当てるというものであった。

300万ポンドでは、絶対の目標である1,000万ポンドの3分の1に過ぎない。高橋はさらに交渉して500万ポンドの線にこぎつけた。

すでに4月に入っていたが、このとき、アメリカの資本家シフから大口引受の申出があった。シフはユダ人会会長であり。ロシアのユダヤ人虐待に対して強い反感を抱いていた。

事態は好転した。

イギリスだけでなく、アメリカも参加することになった。

そこへ、鴨緑江会戦(1904430 - 51日、おうりょくこうかいせん、日露戦争において日本陸軍第一軍が鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、これを阻止せんと待機していたロシア陸軍との間で起こった一連の戦い。日本が勝利する)での日本軍の勝利のニュースが入ったため、511日の発行日には、発行額の数倍を上回る申込が殺到した。

高橋は、その後半年ロンドンにとどまり、2億円(1,600万ポンド)の公債を発行、すべて消化した。

必要とされた外貨は十二分に調達したので、1905(明治38)年1月、1年振りに帰国した。

だが、戦争はまだ続き、戦費もとどまるところを知らず、ふくれ上がっていた。戦争とは本来そういうものなのである。このため、高橋は日本にいることわずか1ヶ月で、ふたたび外債募集を命じられ、イギリスへ旅立った。

政府の要請もエスカレートして、起債目標は、一挙に3,000万ポンドという巨額。しかも利子は引き下げて4分半にせよという。

高橋たちの努力は続いた。

度重なる日本公債の募集に不安がる向きも出てきており、これであと1年の戦費を十分まかなえるのだと説いて回った。発行日直前、奉天会戦での日本陸軍勝利の報せが入ったこともあって、この難題も無事消化することができた。

ところが、さらに日本政府は3,000万ポンドの外債募集を高橋に命じてきた。

高橋は苦境に立たされた。1年分の戦費をまかなうと言ってから、まだ3ヶ月しか経っていない。

そこへ、日本海海戦の勝利の報せが入ってきた。だが、そのことで、海外では講和への期待が強まり、日本はむしろ外債の整理にかかるべきだと言われた。

高橋としては、ロシアは日本が戦費で行き詰るという観測をしており、その観測を打ち破り、否応なしに講和談判に引きずりこむために、もう一度、戦費の調達が必要なのだと、説いて回った。また、日本は戦争継続を望むものではなく、その公債による資金も、撤兵費用や国債の整理などに充てる含みなのだと、説いた。高橋は腹を切る覚悟で話をまとめて、今回の外債募集も成功させた。

高橋の仕事は、まだ終わらなかった。

講和成立後も、外債整理・戦後経営のための資金として、また、外債募集を命じられ、講和条件に不満の民衆の東京での暴動事件の報せなどで、ふたたび日本の評判が下落する中で、起債を続けなければならなかった。

こうして開戦以来、戦後経営に至るまでの間に高橋が担当した外債は、実に13,000万ポンド(約13億円)に達した。

なお、戦費は予想では45,000万円であったが、実際は、その3倍の15億円であった。

 

日露戦争は、1904年(明治37年)2月から19059にかけて大日本帝国(日本)とロシア帝国との間で行われた戦争で、日本が勝利した

 

奉天会戦は、1905221日から310にかけて行われた、日露戦争における最後の大規模な会戦である

双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満洲の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。日本が勝利するも、この戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。

参加兵力は大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン

 

日本海海戦は、1905年(明治38年)527日から528にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊によって日本海で行われた海戦である。

 

高橋是清大蔵大臣(第1次1913/2/20-1914/4/16)

 

1914(大正3)年7月、第一次世界大戦(~1918(大正7)年11月まで)が勃発した。後にはすさまじい好景気となるのだが、当時、日本の経済は慢性的な国際収支の赤字に伴う不景気続きで沈滞しており、戦争が起こってからも海上輸送の途絶などのため市場が混乱し、先行不安で経済は萎縮していた。

しかし、1915になると、米英仏をはじめとする同盟国から兵器や軍需品、食料などが自国では供給できなくなり、同盟国らは日本にそれらを求めたのです。

さらに、アジアやアフリカでもヨーロッパからの輸入品が途絶えたため、日本に綿糸や綿布、綿織物を求めてきたことで、大戦景気が訪れた。

 

ところが、第一次世界大戦末期、1918(大正7)年夏には、不況が到来、生活費の高騰、米の不作が重なり、民衆には厚く重苦しい夏になった。

 

高橋是清大蔵大臣(第2次1918/9/29-1922/6/12)

 

原敬内閣で高橋は2度目の大蔵大臣を務めた。

戦後不況に対し、高橋は積極的な財政政策によってテコ入れすべきだと考えており、海運界救済にも応じた。

また、大戦をきっかけに、各国が金本位制を離脱する中、日本も1917年に金輸出を禁止し、金本位制から離脱した。

 

1918(大正7)年~1920(大正9)

スペインかぜが大流行し22万人を超える犠牲者が出た。生命保険会社は保険金を支払うことでその使命を果たした。

 

1921(大正10)

戦後不況とスペインかぜ大流行による不景気と立憲政友会の関係する汚職事件も続発した。政党政治の腐敗に憤激した一青年によって、原敬首相が刺殺された。

後継首相は、原に代わって政友会首相となった高橋是清(1854-1936)が組織したが短命に終わり、かわって海軍大将加藤友三郎(1861-1923が以後約2年間にわたって非政党内閣が続いた

(日本史教科書より)

 

1923(大正12)

関東大震災では死者10万人に及んだ。生命保険会社は保険金を支払うことでその使命を果たした。

所得税の生命保険料控除制度が新設された。

 

1926(大正15)

省令改正(省令とは、各省の大臣が制定する命令です。省令は、税法上は、主に「・・・施行規則」という名前で出てきます(例えば、今で言えば、保険業法施行規則と考えている))。

当時の商工大臣 片岡直温氏(元日本生命社長として、1903年より1919年までの17年に渡り2代目社長を務めた)から提案された案に基づいてなされたもので、その目的は生命保険会社の資産の充実、軍事費の節約、競争の緩和及び契約者利益の擁護をはかることにあった。

その提案がなされた1925年末当時は、生保会社44社中純保険料式積立を行っていた会社はわずか4社で、大多数の会社は全期チルメル式積立を行っていた。

そこで、19264月改正がなされている。

これは、責任準備金の積立方式の問題は単なる数理の問題というより事業経営上、或いは社会政策上の問題として捉えているところが注目できる。

(生命保険会社の計理より)

とても崇高な政策と考えましたが、一方で片岡直温氏は、1927314の衆議院予算委員会にて、大蔵大臣として「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と実際には破綻していなかったにも関わらず失言する。これが“昭和金融恐慌”の引き金となり、これを機に取り付け騒ぎが発生。

若槻内閣は総辞職に追い込まれている。

 

1927(昭和2)

“昭和金融恐慌”が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中義一に請われ、高橋是清が自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。有名な話と思います。【ウイキペディア】

“昭和金融恐慌”では、一部財務体質の弱い会社は大きな打撃を受けたが、大多数の生命保険会社は昭和12年日中戦争が始まるまではその配当率を継続した。【生命保険会社の計理より】

 

高橋是清大蔵大臣(第3次1927/12/13-1927/6/2)

 

1929(昭和4)

世界経済で一人勝ちを続けてきたアメリカ・ニューヨークのウォール街で、株価が大暴落を起こした。アメリカの経済は大混乱をきたし、実に1000万人が失業し、失業率は25%を記録した。国民の4人に1人が働き口を失ったのである。

アメリカの大不況は日本やヨーロッパなど全世界に波及、これを“世界恐慌”と呼ぶ。恐慌はドイツをも捉え、失業者は700万人、3人に1人が確たる就職先を持たず、国民生活は激しく疲弊した。国民は、強力なリーダーを求めた。

“世界恐慌”の翌年の1930年、ドイツの総選挙でナチスは党勢を9倍に伸ばす大躍進を記録した。ナチスの強力なリーダーシップを求める国民の声を受けて、1933年、ヒトラーはついに首相の座を手に入れた。

第一次世界大戦後、各国が金本位制に復帰する中、日本は1927年に昭和金融恐慌に見舞われたこともあって、復帰が遅れていた。

1929年に成立した浜口雄幸内閣は、金解禁(金本位制への復帰)を目指した。

 

1930(昭和5)

そして、浜口雄幸内閣は井上準之助を大蔵大臣に任命し緊縮財政を実行し、1930年に金解禁を断行

緊縮財政は、同年の“昭和恐慌”を招き、倒産や失業が急増、農民と中小企業者には深刻な打撃となりました。

そして、浜口雄幸は暗殺、1932年には井上準之助が暗殺されました。

 

“昭和恐慌”  ※昭和金融恐慌≠昭和恐慌である!

“昭和恐慌”は、1929年秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた。戦前の日本における最も深刻な恐慌。

第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊によって、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。

Wikipediaより)

 

司馬遼太郎のエッセイ集「以下、無用のことながら」の最初の「新春漫語」に昭和恐慌(1930年代の日本のパニック)のことをつづっているのが興味を引いた。司馬さんが小学校低学年ながら、おびえのこもった記憶として体にのこっていると記している。

私もその時代に少年期を過ごしたのだが、殆ど記憶になかった。いまの飽食の時代に育った人たちには想像もつかない時代であった。かけそば一杯の時代であり、失業率20%の時代であった。司馬さんの文章を少しばかり引用してみよう。

後年調べてみると、身の毛のよだつような時代だった。倒産や夜逃げはざらで、失業した人は故郷に帰ろうにも旅費がなく、野宿をしながら歩いたりした。

十五世紀の"応仁の乱"と同様、日本史上の大事態だった。不況は世界を覆い、震源地のアメリカを始めどの国もなかなか出口が見いだせなかった。

こんにちに似ていなくもない。決定的に違う点もある。例えば、私の家で預かっていた娘さんが、去年、いかにも幸せそうな男の児を生んだ。その赤ちゃんの福耳をみて、私が、「この児は、きっと食いっぱぐれが無さそうだ」とほめると、その若い母親が、怒りはじめた。そんなばかなほめ方はありませんよ、と笑い喋りにしゃべるのである。

人間ならたれでも食べるものぐらい、食べられるじゃありませんか。

おなじ不況でも昭和恐慌の時代と比べると、これだけ国民経済の底があがっているのである

林芙美子は、夏に着るものをすべて売りつくして海水着を着ていたという。

こんにち、大不況下ながら、そんなことはありえない。・・・・・・・・・・

昭和恐慌は左翼をつくり、次いで反作用として右翼をつくり、右翼的部分がひろがって満州事変(1931)という冒険をやらせ、うわべだけの解決を見た。」

 ・・・・・・・・・・

私は決して安心しろというつもりはないが、一部の人達は今後悪いくじを引くことがあるのを避けられないが、少しは我が国の未来に希望を抱いて構造改革を進めようではないか。

(浅谷さんブログ 2001/3より)

 

 

1930(昭和5)年代の大恐慌

大恐慌、あるいは世界恐慌は、192910月のアメリカの株価暴落によって始まり、ほとんどの主要国を巻き込み、経済の混乱は、33年、見方によれば、40年代初めまで続いた。

第一次大戦(1914年~1918年)後、アメリカは産業競争力の向上と輸出の増加によって「永遠の繁栄」を謳歌していた。しかし、欧州諸国の経済復興と共に生産や設備の過剰が表面化した。

当時の国際金融システムは金本位制に基づいており、主要各国は20年代末から30年代初めに金本位制に復帰した。ところが、アメリカは流入した金を不胎化(金保有に連動して貨幣を増やさなかった)した。そのため、その他の国は金流出を抑制するため、金利を引き上げることで不況に陥ったり、金準備が枯渇したドイツ、オーストリアでは大銀行が倒産するなどの金融危機が発生した。

日本でも金本位制への復帰による金の流出を契機の一つに“昭和恐慌”となった。

 

その後、各国は金本位制度から離脱したが、植民地を持っていた英米仏は高関税による経済のブロック化によって、自国の産業保護に努めた。

これが、日本、ドイツの膨張主義を助長する要因ともなった。

こうした展開となった背景として、英仏を中心とした世界から覇権国がアメリカへ移行する過程で、アメリカにその用意が無かったことを重視する見方もある。

また、当時、恐慌は蓄積された市場のゆがみを調整するために必要不可欠な現象とも捉える向きが多く、政府による財政出動によって有効需要を作り出すという考えは力を得なかった点を強調する見方もある。

さらに、アメリカなどにおける過度の金融引き締めにその理由を求める見方もある

世界恐慌の根本原因は、各国金本位制度によるお金の流通量減少によるのか!?

ほかにも複合的な部分があるのでしょうねえ・・・(ひとり言)

(世界経済図説第4版より)

 

1931(S6)

9月、満州事変

苦境にある国民を救うことよりも、財政規律を優先させ、国債発行を禁じ手とするような頑迷な健全財政が悲惨な戦禍を招いたのかもしれません

 

12月、犬養毅内閣が成立

高橋是清大蔵大臣(第4次1931/12/13-1934/7/8、大蔵大臣空き期間を置いて、第5次1934/11/27-1936/2/26)に任命

そして、大きな方向転換が行われた。

高橋蔵相は、金本位制から離脱して、積極財政へと転じ、国債を発行したのです。

1932年から1936年までの間に、GNP5%を超える財政出動を継続しました。

1931年から1936年にかけて、国民所得は60%増加し、1936年には完全雇用を達成しましたが、消費者物価は18%の増加、物価は安定していました。

こうして日本は、世界恐慌の下にあった当時、世界で最も早く恐慌から脱出することに成功したのです。

高橋財政は、財政赤字の拡大をもたらしました。このため、当時、財政赤字の拡大を心配して、増税を求める声が上がっていました。

しかし、高橋は1933年に次の発言をしている。

「現内閣が時局匡救(じきょくきょうきゅう、匡救とは“悪を正し、危難から救うこと”)は、財界回復のために全力を傾注しつつあるこの際、増税によって国民の所得を削減し、その購買力を失わせることは、折角伸びようとしている萌芽を剪除する結果に陥るので、相当の期間までこれを避けることを認める次第であります」

高橋是清は、信用貨幣論を概ね理解しており、通貨というものが需要によって創造されるということも理解をしていた。

 

1932(S7)

515事件

犬養首相が射殺された

これにより、政党内閣は崩壊、太平洋戦争終了後まで復活しなかった

 

1936(S11)

226事件

高橋是清は、2・26事件で暗殺された。

高橋財政の末期、軍部からの軍事費の要求を拒否して、軍部と激しく対立したが、それが暗殺の引き金になったのではないかと言われています。

高橋財政の時、荒木貞夫陸軍大臣は、軍事費の拡張のための財源を確保するため、高橋蔵相に対して、増税を要求していましたが、高橋は増税を拒否していた。高橋は

「予算も国民の所得に応じたものを作らねばならぬ。財政上の信用というのは無形のものである。その信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに専念して、悪性インフレをひきおこし、その信用を破壊するがことがあっては、国防も決して堅牢とはなりえない。軍部もこの点はよほどよく考えてもらわねば行かぬ。自分はなけなしの金を無理算段して陸海軍に各1,000万円の復活を認めた。これ以上は到底出せぬ。」と軍部予算増額を拒否した

 

そして、高橋亡き後、日本は、国債発行による野放図な軍事費の拡張を加速させ、戦争への道を突き進んでいくことになります。

 

ありがとうございましたー!!!

m(_ _)m

 

51gxd7oj9fl_sy385__20240324221901 

2024年3月 5日 (火)

「どうする財源~貨幣論で読み解く税と財政の仕組み」中野剛志著を読んでみた!あなたはリフレ政策(現代貨幣理論(MMT))派、それとも財政健全化(緊縮財政)派!?『現代貨幣理論』、半分は正しいと思いましたヨ!(笑)

“財源”をどうするか、に焦点を絞って論じていました。

例えば、防衛費の金額の妥当性や、防衛費の中身については議論から外しています。


以下、青字部分は私見(感想)になります

「商品貨幣論」とは、貨幣にはもともとは金貨や銀貨のように、それ自体に価値があるモノを交換手段した考え方

 

「信用貨幣論」とは、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債であるとした考え方

要するに、貨幣というものは、単なる信用と負債の関係を記録する計算単位にすぎないということ(P42

 

本書では、貨幣物々交換から生まれたのではなく(そのような史実がないため)、紀元前3,500年頃のメソポタミア文明において、信用と負債の関係の記録として生まれたことから、「信用貨幣論」が正しいとされています。

また、現代経済において流通する貨幣の大半は、現金ではなく、銀行預金です。

例えば、日本でも、貨幣のうち、現金が占める割合は2割未満しかありません。

 

民間銀行はいかにして貨幣を生み出すか

民間銀行は、貸出しによって、預金という通貨を生み出すのです。

これを「信用創造」あるいは「貨幣創造」と言います。貸出しが貨幣(預金通貨)を創造するのです。

そして、反対に債務が返済されると、貨幣は破壊されます。

 

201944日の参議院決算委員会において、西田昌司議員と黒田東彦日銀総裁の間で、次のような、やりとりがありました。

西田委員「銀行は信用創造10億でも100億でもお金を創り出せる。借入れが増えれば預金も増える。これが現実。どうですか、日限総裁」

黒田日銀総裁「銀行が与信行動をすることで預金が生まれることはご指摘の通りです」

 

しかし、実際には、民間銀行の貸出しには制約があります。

それは、貸出先である企業に、返済能力がなければならないという制約です。

民間銀行は、貸出にあたっては、企業に対して与信審査を行い、将来、債務を返済できるのに十分な収入が見込めるかどうかを、厳しくチェックします。

逆に言えば、貸出先の企業に返済能力がある限り、民間銀行は、いくらでも貸出を行うことができ、貨幣を創造することができるということになります。

 

20世紀最大の経済学者の1人と言っていいジョセフ・アロイス・シュンペーターは、資本主義とは、次の3つの特徴を有する産業社会のことであると定義しました。

 

①物理的生産手段の所有

②私的利益と私的損失責任

民間銀行による決済手段(銀行手形あるいは預金)の創造

この3つの特徴のうち、③の「民間銀行による決済手段の創造」こそが、資本主義の定義の中でも特に重要であるとシュンペーターは行っています。

 

「資本」を自ら生み出す経済システムだから「資本主義」と呼ばれると言えるのでしょう

 

資本主義においては、民間銀行が貸出しによって預金という貨幣を創造し、その貨幣が取引や貯蓄の手段としても使われ、経済の中を巡り巡っていきます。

その資本主義における貨幣の循環に着目したのが、「貨幣循環理論(Monetary Circuit Theory)」です。

①企業への支出が先で、返済のための財源となる収入は後

②企業の財源とは、企業の需要である

③企業の収入により返済がされると、貨幣は破壊する

すべての企業が完済してしまうと、貨幣がこの世から消えてしまう

 

デフレ(デフレーション)とは、一般的には、一定期間にわたって、物価が持続的に下落する現象のこと

インフレ(インフレーション)とは、一般的には、一定期間にわたって、物価が持続的に上昇する現象のこと

 

デフレとは、経済全体の需要(消費と投資)が、供給に比べて少ない状態が続くことで引き起ります。

企業の需要が無ければ、民間銀行は貸出し(貨幣の創造)ができません。貨幣が創造されなければ、企業は支出できず、従業員の給料も増えません。経済は成長できずに、縮小していくことになります。

また、貨幣の破壊もすすむことになります。

デフレになると、銀行は貸出し(貨幣の創造)ができず、企業は返済(貨幣の破壊)に走らざるを得ないので、貨幣がこの世から消えていってしまうおそれがあります。

そういうデフレのときに、政府までもが財政支出を抑制し、政府債務の削減(財政健全化)に努めたら、貨幣がさらに消えて、デフレが悪化します。

政府が債務を負って支出を増やすことは、貨幣を創造し供給することになるのです。

 

戦後、唯一、日本だけが、1998年にデフレに陥り、しかもそれから20年以上も、デフレから抜け出すことができなくなりました。

 

一方、2022年あたりから物価が上がって、デフレというよりはインフレになっていますが、日本経済は成長し始めているのでしょうか。

これについてはP145で、世界インフレとしては、コロナ禍による労働者不足、ロシアのウクライナ侵攻を契機とする食料やエネルギーの供給制限、経済安全保障の強化を挙げられていました。

 

それが、日本の2021年から2022年にかけての日本のインフレの原因と言われていました。

いわゆる、「スタグフレーション」だと思いますが、果たして、そうでしょうか。それだけでしょうか!?

日本の場合、2013年から続く超低金利と異次元的金融緩和(貨幣の創造に相当)によるところもあると思っています~!

 

 

政府部門を考慮に入れた貨幣循環について

①政府支出が先、税収が後

②政府の財源=中央銀行(日本銀行)による貨幣創造=政府の需要

③税は、政府支出の財源確保の手段ではない

④政府の徴税と返済が、貨幣を消滅する=財政健全化とは、貨幣の破壊である

⑤すべての企業と政府が債務を完済すると、この世から貨幣が消えてしまう

 

 

日本政府は、貨幣(円)を創造し、徴税権力もある政府です。

したがって、日本の財政が破綻する(債務不履行に陥る)ことはありません。

→徴税権力があるから、日本政府は破綻しないって、現実的にはいくらでも徴税できるわけではないので、これだけで債務不履行となることはないと言及するには弱くないでしょうか!?

ここは、定性的な意見となり、申し訳ございません。m(_ _)m

 

現代貨幣理論(Modern Monetary Theory、通称MMT

MMTは、政府と中央銀行を一体として「統合政府」とみなした上で、財政支出と徴税の流れを説明しています。

MMTは、政府(統合政府)が貨幣を創造したものとします。

あとは、「貨幣循環理論」と共通しています。

両方とも、“税”は貨幣を成立させる上で必要ではあるが、政府支出の財源を確保する手段ではないとしています。

 

政府の財政支出は、無限に行うことはできません。

政府の財政支出を制約しているのは、資金の制約ではなく、ヒトやモノといった実物資源の利用可能量となります。

 

増税によって財源を確保しようが、倹約(歳出改革)によって財源を確保しようが、領民経済は成長しません。

それは、徴税により、領民から奪ってきた貨幣を支出せずに貯め込むことであり、領主が支出していれば得られたであろう貨幣が、領主の倹約により手に入らなくなるためです。

“増税”や“歳出改革”によって財源を確保するという発想は、資本主義以前の社会における封建領主の発想になるのです。

 

実際の政府は、不況で経済成長率が鈍化した時こそ、財政支出を増やしています。

いわゆる「景気対策」です。

例えば、2008年の世界金融危機(リーマンショック)の際、各国は、巨額の財政出動を行いました。経済成長率が著しく低下したから、財政支出を増やしたわけです。

さらに、2020年に新型コロナウイルス感染症でパンデミックが起きて、深刻な不況に陥った際も、各国は財政支出を急激に増やしました。いずれも経済が成長しなかったから、財政支出を増やしたのです。

 

「健全財政」の方が経済成長するのであれば、経済成長率は高いが、財政支出の伸び率は低い国があってもよいはずですが、ありません。

「健全財政」の模範とされるドイツは、財政支出の伸び率は相対的に低いですが、同時に、経済成長率も相対的に低くなっています。

 

実物資源の量の制約は、どのようにして計測するのでしょうか。

その指標のひとつとなるのは、インフレ率(物価上昇率)です。

そこで、政府は、インフレ率が高くなり過ぎないように、財政支出を制限する必要があります。

インフレ率など、国民経済に与える影響を基準にして運営するという考え方を「機能的財政」と言います。

MMTも、この「機能的財政」の考え方を組み込んでいます。

 

自ら貨幣(自国通貨)を創造できる政府は、予算の収支を均衡させる「健全財政」を目指す必要はない。

その代わりに、財政支出を増やすか減らすか、課税を軽くするか重くするか、国債を発行するかしないか、と言った判断は、それらが国民経済に与える影響を基準にすべきである。

これが、「機能的財政」です。

 

「健全財政」と「機能的財政」、2つの考え方

例えば、「健全財政」では、財政赤字は常に悪いものとみなされています。そして、財政黒字は常によいものとみなされます。

しかし、「機能的財政」では、財政支出を増やしたり減税したりして、景気がよくなり、失業がへるのであるならば、その結果、財政赤字になったとしても、その財政赤字は良いものなのです。

ただし、財政支出の増加や減税によって、景気が過熱し、需要が増えすぎて供給が追い付かなくなり、高インフレになって、国民は苦しむ結果となったとします。この場合、財政赤字は、高インフレを引き起こしたからという理由で、悪いもの、減らすべきものだと判定されるのです。

「機能的財政」では、財政赤字(or黒字)が国民を幸福にするなら善、不幸にするなら悪となります。

 

結果として、デフレが続いていた日本は、財政支出が全然足りなかったということです。

言い換えれば、利用可能なヒトやモノがあったのに、利用されずに放置されていたということです。

 

「機能的財政」における税の考え方

“税”というものは、政府支出の財源を確保するための手段ではなく、国民経済を望ましい姿にするための政策手段なのです。

たとえば、税は所得格差を是正する上では、効果的な政策手段です。

より平等な社会を実現するための政策手段として、必要になります。

富裕層の所得や贅沢品の消費には、課税をより重くし、貧困層の所得や生活必需品の消費に対しては、非課税あるいは税率の軽減とすれば、所得格差が是正されるため、です。

一方で、デフレ下での消費税増税は、消費を抑制することになり、まったく意味が無いと言っています。

 

また、最近の防衛財源の確保のために、(経済成長を前提とした)増税に頼るのではなく、国防に必要な財源として、政府が債務を負って貨幣を創造すれば財源を確保できるとも言っています。

但し、追加的な税の負担はしなくてもよいのですが、実物資源の制約により、高インフレという負担がかかってくることになります。これは、「今を生きる世代全体が分かち合っていくべき」ものとなります。

 

MMTは、機能的財政に基づき「財政支出は、高インフレにならない限り、拡大できる」と論じています

 

固定為替相場制という制約

政府の通貨供給には、固定為替相場制という制約が課せられている場合があります。

固定為替相場制の下では、政府は、自国通貨との交換の要求に応えるために外貨を常に準備しておかなければなりません。つまり、自国通貨の発行量には外貨準備という制約が課せられているのです。

19世紀から20世紀前半にかけて、金本位制という固定為替相場制が存在していた頃は、各国政府の通貨発行と財政支出には、金準備という制約が課せられていました。

また、第二次世界大戦後から1973年までは、資本主義諸国は、ブレトンウッズ体制という固定為替相場制の下にあったので、各国の財政政策には、ドル準備という制約が課せられていました。

 

1971年、戦後のブレトンウッズ体制から続いてきたアメリカドルを基軸通貨とした固定相場制の世界経済が崩壊

 

日本政府は、自国通貨と外貨(あるいは金)との交換比率が固定されていない変動為替相場制の下であれば、制約はありません。

政府は、無制限に自国通貨を発行する能力を持つことができるのです。

そこで、日本政府は財政破綻(債務不履行)に陥ることはないのです。

たとえば、アルゼンチンやギリシャの財政危機や高インフレは、多額の外貨による対外債務(非自国通貨建て債務)に該当します

 

但し、ここでも実物資源の供給の制約はあります。

 

政府支出を野放図に拡大し続けると、いずれ、実物資源の供給制約にぶつかることになります。

財政支出が実物資源の供給制約を超過すると、高インフレが引き起こされるでしょう。

高インフレとは、実物資源の供給がその制約に達したことを示すサインなのです。

 

2つのインフレ

「デマンドプル・インフレ」

需要が実物資源の供給制約を超えた原因が、需要の増大にあるインフレ

財政支出による需要の増大(例えば、公共事業、公共工事などの増大でしょうか)実物資源(ヒト、モノ)の供給制約を超えることで起きるインフレ

少なくとも、戦後の先進民主国家で、過剰な財政支出を続けて「デマンドプル・インフレ」が止まらなくなった例は無いとのこと。

「デマンドプル・インフレ」が止まらなくなって国民が苦しんでいるのに、なお過剰な財政支出を続けるような愚かな政権は、民主国家では、有権者の支持を得られるはずが無いからです。

 

「コストプッシュ・インフレ」

実物資源の供給制約がより厳しくなったことに起因するインフレ

例えば、1970年代の石油危機のように産油国が原油を輸出制限したため、エネルギー価格が高騰してインフレになった場合

→言葉の意味で恐縮ですが、「コストプッシュ・インフレ」とは「スタグフレーション(景気が下がり物価が上昇すること)」のことではないでしょうか!?

この場合の対策は、短期的には省エネルギーの徹底や、既存の原子力発電の稼働、長期的には新たなエネルギー源の開発が必要になるでしょう。

コストプッシュ・インフレ対策に必要なことは、政府による、的を絞った公共投資になります。

 

政府の赤字財政支出により、民間貯蓄が減るのではなく、その反対に増えるのです。

 

2002に、海外の格付け会社が日本国債の格付けを引き下げました。すると、当時の財務省は、格付け会社(ムーディーズ、S&P、フィッチ)宛てに、公開質問状を発出した。

そこには次のように書かれています。

貴社の格付け判定は、従来より、定性的な説明が大宗である一方、客観的な基準を欠き、これは、格付けの信頼性にも関わる大きな問題と考えている。従って、以下の諸点に関し、貴社の考え方を具体的・定量的に明らかにされたい。

日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか。

 

このように、財務省は、自国通貨建てである日本国債のデフォルト(債務不履行)は考えられないと認めています。

 

アメリカでは、政府債務の上限が法定されていますが、議会の承認が得られれば、上限を超えて国債を発行することができます。

ドイツは憲法(基本法)によって、連邦政府は、対GDP比財政収支を原則マイナス0.35%以内にしなければならないと定めています。但し、不況時には新規国債発行の増加が認められ、好況時にはその減少(または財政収支の黒字化)が求められるといったように、景気の好不況に配慮しています。さらに「自然災害又は国家の統制が及ばず、国家財政に甚大な影響を与える緊急非常事態の場合」には、財政ルールの適用を停止できることとされています。実際、2020年とその翌年には、コロナ禍に対応するため、この一時停止措置が発動されました。

日本においても、アメリカやドイツと道央に、法定の財政規律が存在します。それは、「財政法」です。

 

財政法第4条

国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。

但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる

二、前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない

三、第一項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない

 

日本において、アメリカやドイツの財政規律に対応するのは、財政法第4条であります。

財政法第4条は「但書」はあるものの、国の歳出の財源を国債に頼ってはいけないという健全財政が原則であると規定しています。

 

この規定は、赤字財政は戦争につながるという論理から来ているとのこと。

財政法の起案者となった大蔵省法規課長であった平井平治氏は、こう解説しています

「戦争と公債がいかに密接不離の関係にあるかは、各国の歴史を紐解くまでもなく、わが国の歴史を観ても公債なくして戦争の計画遂行の不可能であったことを考察すれば、明らかである。また我が国の昭和7年度以来の公債を仮に国会が認めなかったとするならば、現在の我が国は如何になっていたか言わずして明らかである。換言するならば、公債のないところに戦争はないと断言しうるのである。従って、財政法はまた、憲法の戦争放棄の規定を裏書保証せんとするものとも言い得る」

 

護憲派が憲法第9条を変えたら、日本人は侵略戦争に突き進んで破滅するのではないかと心配しているように、健全財政論者たちは、国債の発行を許したら最後、日本人は破滅への道へと突き進むのではないかという不安にかられているのではないか。

 

一方、2022年、日本は、ついに防衛費を大幅に拡充しなければならないという事態に陥りました。

憲法第9条と財政法第4条の問題が一度に噴出した。

我が国は、まさに歴史的に大きな岐路にさしかかっているのです。

 

 

さらに日本の場合には、財政法第4条に加えて、閣議決定により、プライマリーバランス黒字化目標という財政収支ルールが課せられます。

 

これは、ドイツの財政収支ルールと同じようにも見えますが、ドイツよりも厳しい財政規律となっています。

ドイツのルールは、財政収支の対GDP比を目標として設定しています。従って、例えば、財政支出を拡大してもGDPが成長した場合には、数値は改善するという余地があります。

これに対して、日本のプライマリーバランス黒字化目標は、対GDP比ではないため、GDPが成長することで数値が改善するという余地がありません。

財政収支のルールを財政規律にする場合は、対GDP比財政収支とするのが一般的であり、EU諸国も対GDP比財政収支のルールを採用しています。

日本の対GDP比ではない「プライマリーバランス黒字化目標」の財政規律こそガラパゴスと言えるでしょう。

 

第一次世界大戦をきっかけに、各国が金本位制を離脱する中、日本も1917年に金輸出を禁止し、金本位制から離脱しました。

戦後、各国が金本位制に復帰する中、日本は1927年に(昭和)金融恐慌に見舞われたこともあって、復帰が遅れていました。

1929年に成立した浜口雄幸内閣は、金解禁(金本位制への復帰)を目指しました。

そして、井上準之助を大蔵大臣に任命し、緊縮財政を実行し、1930年に金解禁を断行しました。

この緊縮財政は、同年昭和恐慌を招き、倒産や失業が急増、農民と中小企業者には深刻な打撃となりました。

さらに、浜口雄幸は暗殺されました。

そして、金本位制への復帰を果たした後の19319月に満州事変も勃発

苦境にある国民を救うことよりも、財政規律を優先させ、国債発行を禁じ手とするような頑迷な健全財政が悲惨な戦禍を招いたのかもしれません。

 

193112月、犬養毅内閣が成立し、高橋是清が大蔵大臣に任命されると、大きな方向転換が行われました。

高橋蔵相は、金本位制から離脱して、積極財政へと転じ、国債を発行したのです。

1932年から1936年までの間に、GNP5%を超える財政出動を継続しました。

1931年から1936年にかけて、国民所得は60%増加し、1936年には完全雇用を達成しましたが、消費者物価は18%の増加、物価は安定していました。

こうして日本は、世界恐慌の下にあった当時、世界で最も早く恐慌から脱出することに成功したのです。

高橋財政は、財政赤字の拡大をもたらしました。このため、当時、財政赤字の拡大を心配して、増税を求める声が上がっていました。

しかし、高橋は1933年に次の発言をしている。

「現内閣が時局匡救(じきょくきょうきゅう、匡救とは“悪を正し、危難から救うこと”)は、財界回復のために全力を傾注しつつあるこの際、増税によって国民の所得を削減し、その購買力を失わせることは、折角伸びようとしている萌芽を剪除する結果に陥るので、相当の期間までこれを避けることを認める次第であります」

 

高橋是清は、信用貨幣論を概ね理解しており、通貨というものが需要によって創造されるということも理解をしていた。

 

しかしながら、高橋是清は、1936年、226事件で暗殺された。

高橋財政の末期、軍部からの軍事費の要求を拒否して、軍部と激しく対立したが、それが暗殺の引き金になったのではないかとも言われています。

高橋財政の時、荒木貞夫陸軍大臣は、軍事費の拡張のための財源を確保するため、高橋蔵相に対して、増税を要求していましたが、高橋は増税を拒否していました。

そして、高橋亡き後、日本は軍事費の拡張を加速させ、戦争への道を突き進んでいくことになります。

 

次に終戦直後の激しいインフレは、どうして起きたのでしょうか

終戦直後のインフレ処理を実際に経験し、かつ高度成長を実現した池田勇人内閣のブレーンとして活躍した下村治氏が、その原因を次の3つと言われていました。

第一は、戦争による「異常な生産力破壊という状況」にあったこと

第二は、当時の税務当局の徴税力の欠陥

国家の徴税権力が弱ければ、通貨の価値も暴落し、激しいインフレになると

第三は、当時は労働組合の政治力がきわめて強く、賃金上昇圧力が過大であったため

この3つの原因のうち、最大のものは、戦争による生産力の破壊がもたらした供給不足であると下村は判断しています。

つまり、終戦直後のインフレは「コストプッシュ・インフレ」だということです。

そこで、下村は、「実際の生活水準を落とすのではなく、生産力を高めて生活水準に適合させていくというのが現実的な方策である」と考えました。

当時、大蔵大臣であった石橋湛山も同じ考えでした。

この石橋湛山の積極的な財政金融政策について、下村は、需要増による一時的なインフレ悪化という弊害はあるものの、生産力を強化するものであるとして、これを支持したのでした。

このとき、下村が得た「歴史の教訓」は、「生産増強以外にインフレ収束の途はない」というものでした。

つまり、積極財政によって、供給力を増強し、実体経済の需給不均衡を解消するのが、正しいコストプッシュ・インフレ対策ということです。

 

財源を“徴税”によって確保しなければならないとか、“歳出改革(倹約)”によって捻出しなければならないとか言った考え方は、資本主義以前の、貨幣を創造する能力を持たない封建領主の考え方なのです。

 

(感想)

人の批判はせずに、純粋に持論を展開されれば、よりよかったと思いました。

 

また、本書の考え方はアリと思いましたが、“はじめに“で書かれていました、財源をどう利用するかを問うていないことが、経済対策を考える上で、十分ではないように思いました。

 

例えば、2013年から続く「異次元的金融緩和」は十分な財政支出(日銀の負債残高は2013年時点で200兆円弱でしたが、現在は約800兆円です)であったと思います。

大半が株式市場に資金投下がされていて、最近ようやく日経平均株価がバブル期を上回り、インフレ傾向にありますが、生活格差(金持ちはより金持ちに、そうでない人はそれなり(以下)に)が拡大するだけで、一般庶民の生活には悪影響があっても好影響はないと思っています。

これは、金融緩和(財政支出)先、あるいは方法に問題があったためではないでしょうか?

 

防衛費確保のためにも、財政支出をすればよいとのことですが、防衛費のみに財政支出をして、経済成長するのでしょうか!?軍事産業のみ反映するかもしれませんが、生活のための経済成長が制約されれば、デマンドプル・インフレが起きるのは、本書にも書かれている通り、間違いないとは思いました!

 

また、1988年の平成バブルは、“金利政策”による過去最低の公定歩合2.5%が原因の一つとして引き起こされました。

その後、過熱したために、公定歩合を5%まで引き上げたこともあって、最終的にはバブルが弾けました。

その後景気回復のために、公定歩合を2.5%よりもさらに低く、0.3%まで引き下げましたが、二度と平成バブルのようなことは起きませんでした。

これを「現代貨幣理論」に基づき、財政支出が少なかったため、と言い切れるのでしょうか。

おそらくですが、その時点時点で周辺環境も異なっているため、過去の経済対策を、同じように実施しても、同じ結果にはならない、この点も考慮する必要があるのだと思いました。

 

本書のさらなる改定を望んでおります!どうもありがとうございました!!

m(_ _)m

 

71gekeswzml_ac_uf10001000_ql80__20240305222501

 

 

2024年1月13日 (土)

昨夏「世界金融危機(リーマンショック)」を知ろうとして調べていた時には手に入らなかった「強欲資本主義ウオール街の自爆」(2008年10月20日発行)を日吉にある古本屋で昨年末にようやく見つけたので読んでみました~!

著者の神谷秀樹氏は、1953年生まれで、早稲田大学を卒業後、住友銀行に入行、1984年にゴールドマン・サックスに転職1992年に自ら投資銀行を立ち上げて、現在に至る。

本書「強欲資本主義ウオール街を自爆」を語りながらも、そのウオール街で40年以上、強欲にはなられずに勤められている方となります。

 

ここでは、“リーマンショック”のこと(昨夏までに自分の中ではある程度理解できたため)よりも、本書でとくに気になったこと、印象に残ったことを記しておきたいと思います。

視点は“世界金融経済史をもっと知りたい”になります~。(笑)

 

「金融機関は、基本的に脇役であることを失ってはいけない」

例えば、銀行であれば、主役である実業を営む方たちの事業構築を助けるのが金融本来の仕事の在り方であり、それこそが身分相応なのである。

 

それが、投資銀行(日本で言うと証券会社)は株式公開をして、他人の資本を受け入れ、他人のお金でビジネスを展開するようになった。付け加えれば、多大な借金をしてバランス・シートを巨大にすることが可能になったことで、「顧客」は単なる「市場の一部」となっていった。

 

モノが作れなくなったアメリカ

第二次世界大戦以後、アメリカは世界でもっとも健全な経済を維持していたと言ってよい。

圧倒的な生産力と生産性を誇り、米ドルは世界の基軸通貨として安定していた。

アメリカの節度ある経済は、世界のロール・モデルであった。

しかし、この経済は、とくに「強いアメリカ」を標榜した1980年代のレーガン大統領以降、奈落の底に向けって突き進み始める。財政赤字、貿易赤字の「双子の赤字」を抱え、結局それを改善できずに債務国となっている。とくに弱くなったのが製造業(自動車産業)であった。

 

その後、

アメリカの自動車業界のビッグスリーは、GM(ゼネラル・モーターズ)、フォード、クライスラーとなりますが、リーマンショックを引き金に、クライスラーは20094月に、GM20096月に破産法を申請しました。

フォードは唯一破産法の申請は免れましたが、大事なブランドを一部売却することで、難を逃れました。当然、痛手であった事は言うまでも有りません。

電機産業のゼネラル・エレトリック(GEも同様に企業規模は縮小しました。

 

京セラの創業者の稲森和夫氏は、著書『人生の王道』で次のように述べられている。

昨今の若い経営者は、ベンチャービジネスを起こし、才覚を発揮して成功を収め、上場を果たそうものなら、すぐに自分が持っている株式を市場に売り出し、巨万の富を得ようとします。(中略)ところが、そんな大成功を収めたはずの人が、いつのまにか没落してします。私たちは近年、そのようなケースを沢山見てきました。それは、成功することで、“私心”をはびこらせ、没落の引き金を引いてしまうからです。

 

マネックス証券を創業した松本大(おおき)さん19631219日生まれ)は、その昔ゴールドマン・サックスで働いていました。そして、1994年に「パートナー」という株主に選ばれましたが、彼はゴールドマンが株式公開(199954日)を行う寸前に退職し、ソニーと一緒にマネックスを創業(199945日)した。多くのマスコミは、なぜ大金をつかめる株式公開を待たないで退職したのかに関心を寄せた。彼は、その質問に対して、たしか次のような趣旨の話をしていた。

「ゴールドマンの代々のパートナーと社員が努力して積み上げてきた資本を受け継いだ自分が、それを次世代にそのままの形で渡すのではなく、今後何十年分かの利益に相当する価格で売ってしまうようなことをしては、今後自分がよい人生を過ごせるとは思わない」

松本さんは、株式公開益を自分の懐に入れることを、自らの人生の選択として「潔し」としなかった。

松本氏、35歳のときである。

 

一方で、同じくゴールドマン・サックスに居長らえて、大金を手に入れたのが、ジョージ・W・ブッシュ政権で第74代財務長官を務めたヘンリー・ポールソン氏1946328日生まれ)である。

1990年にポールソンはゴールドマン・サックス社の投資銀行部門において経営担当責任者となり、199412月にゴールドマン・サックス社の社長兼最高執行責任者に昇格した。

そして、1999年の株式公開を経て、

2006年628日にポールソンはアメリカ合衆国財務長官2006/7/102009/1/20)への就任のため、ゴールドマン・サックス社の会長兼最高経営責任者を辞任した。

辞任に際してポールソンにはゴールドマン・サックス社から会計年度の上半期分のボーナスとして1870万ドルが支給された。またポールソンは自身の保持するゴールドマン・サックス社の323万株も売却した。時価総額は48600万ドルであった。

政府高官になると、民間との利益相反関係を防ぐために、持株を売却するよう求められる。これは強制力をともなうため、売却した株式の値上がり益には課税されないという特典がつく。

安月給で忙しい政府高官になる最大のメリットは、この「タックス・ホリデー」をもらえることだと言えわれる。

「タックス・ホリデー」狙いで政府高官になった役人に、公平な社会づくりを期待できるのだろうか!?

 

ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得後、証券大手ソロモン・ブラザーズに勤務し、同社共同経営者(partner)に登り詰めたが、1981年に金融情報のブルーム・バーグを設立し、さらにその後ニューヨーク市長になったマイケル・ブルームバーグ氏1942214日生まれ)も市長として、昼夜を問わず働かれたが、最初の当選から公約通りに「無給」でお仕事して、ブルームバーグ社の株は信託に入れて売っていない。後半生を社会へ還元するために費やしている。ニューヨーク市がブルームバーグ市長を得ることができたのは極めて幸いなことだった。お金に惑わされない市長の言うことには強い説得力があることだろう。

 

世界金融危機という事態を招いたのは、国でもなく、納税者でもない。自分たちが儲けることしか考えないで、調子に乗って手を広げたビジネスで演じた失態が危機を招いたのだ。

その証としてアメリカでも、ノースウエスタン・ミューチュアル・ライフはサブプライムローンの総資産に占める比率は0.6%以下であり、彼らが持つ最高格付けはまったく揺らいでいない。

同じ保険会社でも破綻し政府に救済されたAIG(全米最大、2008921日までダウ平均株価の構成銘柄の1つ)とは大きな違いである。

このように超健全経営をすることも全く問題なく、可能なのである。

 

より強欲な者に富を集中させ、お金以外の価値あるものがないがしろにされ、社会全体として格差が拡大し、決して幸福とは言えない状況を生み出しているのではないだろうか。

アメリカでは上位10%の所得は年率11%で伸びてきたそうだ。しかしその同じ期間、残り90%の人の所得は全く伸びなかった。こうして格差は拡大する一方だったのだ

ある文明史の研究家によれば、上位1%の人に富の30%が集中するとき、だいたい大きな崩壊が起こる臨界点となるようである。

現代の較差はアメリカだけをとってみても、このレベルに達している。強欲資本主義が迎えた「信用の輪が切れるとき」は、これまでの経済体制が辿り着いた終着駅のようにも思えてならない。

 

下村治博士19101127日~1989629日、享年78歳)の卓見

アメリカの「双子の赤字」(貿易赤字(経常赤字)と財政赤字が並存していた状態。借金と浪費に依存した経済)がやがて立ち行かなくなると警鐘を鳴らした経済学者であり、

池田内閣時代に「所得倍増計画」を構想し、日本の発展の礎を築いた経済学者でもある。

また、その後の日本については、高成長を目指せる時代は終わったことを覚り「ゼロ成長論者」となった。

また、日本の市場開放を強硬に求めるアメリカ政府に対して、1987年にレーガノミックスを痛烈に批判し、アメリカ追随型の経済政策の提案であった「前川リポート」も「日本の健全さを捨てさせるものだ」と受け入れなかった。

そして、バブル経済とその崩壊も予測をされていました。

よって、「ゼロ成長」を現実のものとして受け止めなければならないのである。

身の丈にあった新しい生き方を見つけることではないだろうか。

「ゼロ成長時代の生き方」

「ゼロ成長時代に目標とする新たな指標」

「何を以て成功とするのか、その成功の定義」

を自ら考え見出さなければいけない時代にいま我々はいるのである。

 

ルネサンスの生んだ土と水と光

塩野七生氏はルネサンスの大輪の花が咲くための「土と水と光を整えたのは、宗教家の聖フランチェスコと政治家のフリードリッヒ二世であった」と分析している。

『ルネサンスとは何であったのか』新潮社刊より

聖フランチェスコが第一に重んじたのは「貧しさ」であり「財を持つことの否定」だった。

一方、フリードリッヒ二世が行った改革は「税制の整備」と「通貨の整備」であった。信用度の低い「悪貨を乱造しては眼前の利益をむさぼるしか考えなかった王侯が大半であった当時、良貨(純金製)を持つことの真の利益を知っていた。」

“お金に囚われるなという価値観”、“しっかりとした税制と信用度の高い通貨の復興”、また“学問(芸術と科学)の振興”とは、現代に生きる我々が、まさに必要としているものそのものではないだろうか。

 

「信用の輪が切れた」今、我々が目指さなければいけないのは、たとえ長い道程を必要とするものであっても新しい時代を迎えるための、土と水と光を準備することに違いない。

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

41ulmgve7hl

2023年9月18日 (月)

「世界経済図説」(第四版)宮崎勇&田谷禎三著 を読んで・・・日本経済を調べていくうちに、世界経済も知りたくなって読んでみました!目次を見て、好きなところ、興味のあるところだけを読むことも可能で、いろいろな経済項目を分類して統計化されていました!

 

国の数・国土、人口・民族、国内総生産、産業構造、政治と経済、国際化の軋轢、

国際貿易、貿易摩擦、国際金融、人口・食料・エネルギー・資源、地球環境、経済危機、そして

世界経済の構造変化などなど、お好きなところからどうぞ!

と言う、世界経済の「辞書」のような本でした!

やや細切れとなるため、繋がりを知ろうとする場合、もう少しほかの本も読んでみる必要があるかな、と思いました。

 

ここでは、面白かったところを書き留めておきたいと思います。

 

国の経済力を表す指標の代表、GDP(国内総生産)1980年代以降2019年までの各国のGDP

のシェアは、

日本が、約15%から約6%までに下降を続けている。逆に、

中国は約3%から約17%へ飛躍をしていた。

アメリカは約25%で横ばい。

イギリスは約5%から約3%へ下降していた。

ロシアは過去の統計は記録が無かったのか、2019年時点で約2%

 

国民所得水準の上昇に伴って、一国の産業構造が、第一次産業から第二次産業、第二次産業から第三次産業へ、その比重を移していくという経験法則。

産業の三部門分割はフィッシャーAllan George Barnard Fisher18951976の先鞭によるが、この産業区分をもとに、イギリスの経済学者CG・クラークは彼の実証研究『経済進歩の諸条件』(1940のなかで、国民所得水準の上昇につれて、労働力の比重が第一次産業で低下し、第二次および第三次産業で上昇することを明らかにした。

17世紀にW.ペティは〈農業よりも製造業によるほうが,さらに製造業よりも商業によるほうが、利得がはるかに多い〉と述べた。この発言に注目したコーリン・クラークとS.S.クズネッツは各国における諸統計を駆使した結果、所得水準の上昇とともに第3次産業の比重が高まるという産業構造の変化の傾向を実証した

そのなかで、17世紀イギリスの経済・統計学者W・ペティの著作『政治算術』(1690からの章句を引用し、ペティがすでに経済発展と産業間の労働力分布の関係に注目していたことを指摘して、この経験法則を『ペティの法則』と名づけた。なお今日では、『ペティの法則』は、『クラークの法則Clark's law』とも『ペティ‐クラークの法則』ともよばれている。

 

天然資源とは?

天然資源はブリタニカ国際大百科事典 小項目事典において以下のように定義されています。

自然資源ともいう。人間に利用される自然のなかの物質および物質生成の源泉となる環境の働きをいう。土地,水,鉱物などの無生物資源と森林,野生鳥獣,魚などの生物資源がある。

以前は「持てる国」と「持たざる国」の間で経済利害が異なることから、しばしば政争、国際紛争の原因となった。今日でも、資源は一つの大きな国際的問題である。

ウクライナへのロシアの侵攻も複数の原因はありますが、天然資源も原因の一つですよね・・・

 

ノーベル賞受賞者数について、アメリカが約250人でダントツですが、中国と韓国ではこれまで受賞者がおられなかったんですね・・・

 

政治と経済は不可分であり、政治的に不安定であれば経済の安定も成長もない。逆に、経済が混乱していれば、政治的安定はない。

政治が先か、経済が先か、難しいところであるが、

「恒産無き者は恒心無し」

「衣食足りて礼節を知る」

「貧すれば鈍する」

ということからみれば、少なくとも最低限の経済的安定が先といえよう。

 

関税や非関税障壁(関税以外にも直接的・間接的に輸入を抑制する措置・制度であり、これらの総称)は、国内生産の確保、輸入の抑制を通じて国内産業・雇用を守ろうとするもので、途上国の場合、幼稚産業の保護と言う目的、先進国の場合、衰退産業に統制の時間を与えようという目的がある。ただ、自由で無差別な(どんな国に対しても同じ扱いをする)貿易を理想とする自由貿易の下では、関税・非関税障壁はより慎重に運営しなければならない。

 

金利、株価、金融派生商品

資本は、期待される収益が低いところから高いところへ流れる。原則的に資本移動の規制が無い場合、資本は国境を越えて自由に高収益を求めて移動するが、いつでも為替リスクがある。

各国の金融政策によって短期金利に差があっても必ずしも資本移動が起こるわけではないが、長期金利の差は資本移動の誘因になる。ただ、物価上昇率が多岐(低い)国は通過が弱くなる(強くなる)傾向があるから、実質長期金利差が資本移動の一つの大きな要因と言えるだろう。

1980年代前半や90年代後半のアメリカの相対的に高かった実質金利は、アメリカ経済への信認の高まりと共に、アメリカへの資本流入を増加させ、ドル高の要因にもなった。

金利、株価、為替相場の変動リスクを軽減する手段として、先物、オプション、スワップ取引がある。

 

為替制度

現在の為替制度は、一般的に変動相場制であるといわれている。しかし、世界的に固定為替相場制度が崩壊した後も、多くの国は米ドルやその他の通貨、あるいは自国の輸出入構造に合った複数通貨に対する固定相場制度を維持してきている。国の数では、固定相場制ないしそれに類似の精度を採る国の方が多いが、日米欧など多くの主要国は自由変動相場制を採用している。その意味で現在の制度は変動相場制である。

 

アメリカ経済:相対的強さの保持

具体的には本書に譲りますが、アメリカは先進諸国の中では情勢変化に対する柔軟性と高い対応力によって比較的高い成長を続けてきている。

 

一方、

1992年、市場統合を目指してNAFTA(北米自由貿易協定)を締結した(発効は19941月)。内容は関税を段階的に撤廃し、さらに非関税障壁を取り除き、投資規制も除去するというものだった。

当時、アメリカ、カナダ、メキシコの経済的結びつきは強まり、1994年のメキシコ経済危機が短期で収束したのも、関係強化を背景としたアメリカの助けが大きかった。

しかし、その後のトランプ政権で、協定が自国の貿易赤字拡大をもたらし、アメリカ労働者の職を奪ったとして、協定の見直しを求め、20189月にUSMCA合意となって、NAFTAの改定がされた。

これは、メキシコ、カナダからの年間自動車輸入に数量制限を設けたり、原産地規制を強化したりして、それまでの協定が謳う「自由貿易」の文言を取り払うものであった。

『互恵共存』ということは口で言うほど簡単ではない。

 

1930年代の大恐慌

大恐慌、あるいは世界恐慌は、192910月のアメリカの株価暴落によって始まり、ほとんどの主要国を巻き込み、経済の混乱は、33年、見方によれば、40年代初めまで続いた。

第一次大戦(1914年~1918年)後、アメリカは産業競争力の向上と輸出の増加によって「永遠の繁栄」を謳歌していた。しかし、欧州諸国の経済復興と共に生産や設備の過剰が表面化した。

当時の国際金融システムは金本位制に基づいており、主要各国は20年代末から30年代初めに金本位制に復帰した。ところが、アメリカは流入した金を不胎化(金保有に連動して貨幣を増やさなかった)した。そのため、その他の国は金流出を抑制するため、金利を引き上げることで不況に陥ったり、金準備が枯渇したドイツ、オーストリアでは大銀行が倒産するなどの金融危機が発生した。

日本でも金の流出を契機に昭和恐慌となった。

その後、各国は金本位制度から離脱したが、植民地を持っていた英米仏は高関税による経済のブロック化によって、自国の産業保護に努めた。

これが、日本、ドイツの膨張主義を助長する要因ともなった。

こうした展開となった背景として、英仏を中心とした世界から覇権国がアメリカへ移行する過程で、アメリカにその用意が無かったことを重視する見方もある。

また、当時、恐慌は蓄積された市場のゆがみを調整するために必要不可欠な現象とも捉える向きが多く、政府による財政出動によって有効需要を作り出すという考えは力を得なかった点を強調する見方もある。

さらに、アメリカなどにおける過度の金融引き締めにその理由を求める見方もある

 

結局のところ、世界恐慌の根本原因は何なのか!?

複合的な部分があるということなのでしょうねえ・・・

 

世界の中の日本

今後、どのように停滞局面から脱却していくのか、

また、どのように国際社会に対応していくのか、

日本経済は、これまでと同様、次のような行動をとっていくことが必要ではないか

第一は、経済大国になったが、軍事大国をめざすといった過去の過ちを二度と繰り返さないことである。

そのことを確認することが何よりも大事である。

第二は、国内経済を「整える」ことである。その意味は、インフレ(実質生活水準の切り下げ)デフレ(失業、不完全雇用)もない持続的な安定成長をすること、そしてその過程で「生活の質」に重点を置く経済構造を作ることである。個人に社会的安定感を与えない限り、政治・経済の安定は得られず、国際社会への協力も期待できない。

第三は、経済力による国際社会への貢献である。具体的には、

①国際経済と調和のある国際収支の確保と通貨の安定、

②自由貿易体制の維持

③対外支援の強化。地域的にはアジアを重視し、形態的には資金援助、技術援助に加え、知的支援を行う。

このように「共生と平和」に貢献することが日本の歩むべき道である。

 

ありがとうございました~!m(_ _)m

 

Bkn2hbwhtz6vewfe

2023年5月20日 (土)

「グリード」真山仁著、上下巻読了後、 物語として面白かったが、「世界金融危機」、通称“リーマンショック”の原因となったキーワード、「サブプライム・ローン」、「CDS」、「CDO」の仕組みをもう少し調べてみた!

 

この「世界金融危機」のおかげで!?

“金融工学”とつく書籍が少なくなりましたネ~・・・・っていうか、ブックオフでしか見つけられませんでした・・・

以下、ブックオフでゲットして読んでみました。

 

「金融工学」は何をしてきたのか 今野浩著 200910月初版で、リーマンショックを振り返っていました

金融大崩壊「アメリカ金融帝国」の終焉 水野和夫著 200812月初版で、リーマンショックのことを書かれた書籍でした

金融工学、こんなに面白い 野口悠紀雄著 20009月初版、リーマンショックの影も形もない頃で「金融工学」の火付け役となった1

 

では、「世界金融危機」の原因となったキーワードについて!

 

「サブプライム/サブプライム・ローン」とは、

「サブプライム」とは、「プライム」に対しての言葉です。「サブプライム」は、「サブプライム・ローン」のことであり、要するに一般の人が家を購入する際に借りる「住宅ローン」のことです。

それを米国では、「所得の低い人向けの住宅ローン」を「十分に所得のある人向けの住宅ローン」と区別して「サブプライム・ローン」と呼んでいるのです。

当然、「十分に所得のある人向けの住宅ローン」は「プライム・ローン」となります。実は、米国の一般的な住宅ローンの分類では、「サブプライム・ローン」「プライム・ローン」の中間にAlt-Aというカテゴリーがあります。したがって、米国の「住宅ローン」の分類は信用力の高い順に「プライム」、「Alt-A」、「サブプライム」ということになります。

米国の「住宅ローン」の残高は、「プライム」が最も多く69,000万ドル、「Alt-A」と「サブプライム」はそれぞれ11,000万ドル、15,000万ドルといったところです。住宅ローン全体で95,000万ドル、日本円にして約1,000兆円規模となります。

 

2000年ごろから住宅価格が上昇するにつれて「サブプライム」の利用者が増え、それまでは住宅ローン市場全体の10%以下だったのが、06年から07年にかけては1315%を占めるまでに成長した。

 

成長した理由として

サブプライム・ローンも借りやすくした。

最初の2年は元本の返済が不要。しかも、金利も低めに設定されていた。

最初の2年が過ぎると返済額は上がりますが、その頃には住宅価格も上がっており、住宅を担保に不動産担保融資を受ければ、埋め合わせが可能になります。

もし払えそうになくなった場合、購入した住宅を転売すればよいのです。

また、数年間、延滞しないでローンを返していると、個人の格付けが上昇し、金利が高いそれまでのサブプライム・ローンではなく、ランクアップした「Alt-A」などに切り替えることができ、その分、金利は低く抑えられます。

こうして、2004年頃から急増したサブプライム・ローンは、新規に契約された住宅ローンのなかで2割を占めるようになりました。それまでは1割弱でした。

すべての前提は、住宅価格が上がり続けることでした。

しかし、2006年秋になった住宅価格は下降を始めます。

 

次にサブプライム・ローンを集めて債券化したものが、サブプライム・ローンのモーゲージ債(抵当権付債券)と言います

日本で言うところと、「住宅債券」(通称、つみたてくん、スマイル債)のようなもので、将来住宅購入を検討している人が頭金等の積立に利用し、積み立てられたお金は、住宅金融支援機構(旧住宅金融公庫)が今住宅購入する人への住宅ローン用資金として貸し出しする。

まあ、理にかなった仕組みですが、米国では、所得によって、そのローン金利が異なることには驚きですね。

それだけ、『所得格差がある』、ということだと思います。

日本も従来の修正資本主義ではなく、資本主義化がますます進めば、米国と同様に所得によって、ローン金利が異なってくるのでしょう・・・ざんねんです・・・

 

CDOとは

CDOは、"Collateralized Debt Obligation"の略で、日本語では「債務担保証券」といいます。

これは、サブプライム・ローンのモーゲージ債を含む貸付債権(ローン)や債券(公社債)などから構成される金銭債権を担保として発行される「証券化商品」を指します。

1980年代に米国で初めて債務担保証券(CDOが発行され、その後、欧州や日本などでも発行されて市場が拡大し、2000年代には金融機関や機関投資家などの運用対象として世界的に人気となりました。

とくに銀行がこのビジネスに飛びついた理由は、1990年代に導入されたBIS規制」である。

国際業務を行う銀行は、8%以上の自己資本を持つことを義務づける規制だが、住宅ローン貸出分はリスク資産とみなされるので、これが多いと自己資本比率が小さくなってしまう。一方、証券化してこの債権を売却すれば、自己資本比率が大きくなる。この意味からも、できるだけ多くの住宅ローン債権を証券化して売った方が得であった。(金融工学は何をしてきたのかP148

サブプライム・ローン債を含め、異なる債権で組成しているので、ポートフォリオ効果はある。

また、過去に、全米の不動産が一挙に暴落したことはない、という理由で、格付け機関から高い評価も得た。(グリード 上P92

一方、この種の商品のリスクを計算するのは難しい。金融エンジニアが、「リスク構造がよくわからない商品の価格付けは難しい」と言ったところで、入り口をかじっただけで、金融工学を理解したつもりになっているMBA経営者は耳を貸さない。最期まで「できません」と言ったらクビになる。だからできないことを承知で適当にやる。

格付け会社も全く同じ構造である。

証券化商品の格付けはとても難しい。これらを組み合わせた合成証券の格付けは、難しいの三乗である。しかし「できない」と言ったらクビになる。だから無理を承知で適当にやる。(金融工学は何をしてきたのかP98

また、格付けは「半分“アート”(主観)であり、半分“サイエンス”(客観)である」とも言われていた。(金融工学はなにをしてきたのかP!49

しかしながら、20072009年に米国で起ったサブプライム・ローン問題により、担保となっていたローンが数多く破綻したため、高格付けとして運用されていたCDOも毀損し、世界中の多くの投資家が巨額の損失を計上する結果となりました。

CDOという、複雑な証券にしてしまったために、潜在的なリスクがみえにくくなってしまった(グリード 上P91

これを契機に、CDOの担保となっていた資産の不透明さや流動性の低さなどのリスクが改めて認識されることになった。

 

CDSとは

CDSとは、英語表記Credit default swapの略、「クレジット・デフォルト・スワップ」のこと。

企業や国などの破綻リスクを売買するデリバティブ(金融派生商品)で、投資対象の破綻に備えた保険の“機能”を持ちます。

CDSの買い手は売り手に一定の手数料を支払う一方、投資先がデフォルト(債務不履行)となった場合には売り手が損失を肩代わりし「保険金」を支払います。

最初は、1997年にJPモルガン・チェース銀行によって考案された。

CDSとは、貸し倒れリスクを回避するためにかける保険のような金融商品(グリード 上P24

プレミアムも安いし、掛け捨ての自動車保険と思えばよい(グリード 上P28

買い手はモーゲージ債を保有している当事者に必ずしもならない。

また、CDSの期間は基本的に1年、最大で5年程度のようです。保険期間内にサブプライム・ローン債が破綻しない限り、掛け捨てとなる。(グリード 上P31

2008年9月に米リーマン・ブラザーズが破綻した際には、大量のCDSの売り手だった米保険大手アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)が経営危機に陥り、米政府が救済した。

ちなみに、AIGCDSを開発して売り出したのが、2005年の年明け頃とのこと。(※)

(グリード 上P28p323

 

グリード、強欲さが招いた悲劇・・

一方で、このような商品、とくにCDSは、どのようにプライシングしたのか!?

次は、この辺りを調べてみたいと思います。

 

ありがとうございました!!!

m(_ _)m

41gwbp1znal

 

 

 

2023年4月26日 (水)

「グリード」真山仁著、上下巻読了~!! いわゆる“リーマンショック”と言われた「世界金融危機」、この原因となったキーワードに、サブプライムローン、CDS、CDOと言うのがありますが、本書だけでは、その仕組みがよく理解できませんでした~汗

 

「強欲は善だ(Greed is good)、強欲こそがアメリカンドリームの原動力だと、・・・」で物語は始まります。

その“強欲”が「世界金融危機(別名、リーマンショック、あるいはAIGショック)」を招くことになります。

 

本書では、リーマンショックで危機となった会社が実名で書かれています。

まずは、それらを紹介したいと思います~!。m(_ _)m

 

ベアー・スターンズ、全米第5位の名門証券会社であった。

2008314、ベアー・スターンズへ、ニューヨーク連邦準備銀行がJPモルガン・チェースを経由して129億ドルのつなぎ融資を実施した。同日、連銀がモルガンによる買収を斡旋し、ベアー・スターンズの不良債権を分離する受け皿を設立し、連銀がノンリコースローンの枠を290億ドル設定した。

サブプライム関連の損失が膨らむ中でベアー・スターンズは短期の貸し手からの資金引き揚げに見舞われ、2008年3月にJPモルガンに買収されるに至った。

※ノンリコースローンについて、普通のローンでは、金融機関が個人や法人などに直接貸し付けるため、特定の事業から返済できなくなっても、借り手は返済義務を必ず負うことになります。

一方、ノンリコースローンでは、返済は事業からの収益だけに限定されるなど、借り手が返済義務を限定される

 

ファニーメイ(Fannie Maeは、Federal National Mortgage Associationの通称で、「米連邦住宅抵当金庫」とも呼ばれます。

アメリカ合衆国のGSEGovernment Sponsored Enterprises:政府支援法人)」の一つで、住宅ローンの債権買い取りや証券化などが主な業務の金融機関をいいます。

GSE:形式的には民間の株式会社であるが、その債務(発行債券等)には特に明示的な政府保証がないにも関わらず、市場では「暗黙の政府保証」が期待されており、米国政府と同等の信用力が認められている。

ファニーメイは、2000年代後半に米国を揺るがしたサブライム問題により経営が大きく悪化し、2008年に競合関係にあるフレディマックと共に経営破綻し、公的資金が注入されました。

そして、同年成立した米住宅経済復興法(HERA)に基づき、現在は、連邦住宅公社監督局(OFHEO)や連邦住宅金融理事会(FHFB)などを統合して発足した「米連邦住宅金融庁(FHFA)」の監督下に置かれています。

 

フレディマック(Freddie Macは、「米連邦住宅貸付抵当公社」とも呼ばれ、住宅ローンの債権買い取りや証券化などが主な業務の金融機関をいいます。

アメリカ合衆国のGSEの一つで、1970年にファニーメイ(米連邦住宅抵当金庫)を補完し、住宅ローン市場に安定的に資金を供給するため、米議会の公認のもと設立され、その後、ニューヨーク証券取引所に上場しました。

しかしながら、2000年代後半に米国を揺るがしたサブライム問題により経営が大きく悪化し、20107月に上場廃止となり、現在は公的資金が注入され、政府管理下に置かれています。

 

リーマン・ブラザーズ・ホールディングス(英: Lehman Brothers Holdings Inc.)は、かつてアメリカのニューヨークに本社を置いていた大手投資銀行グループ。

ハイリスクハイリターンであるサブプライムローンの証券化を推進し、米国住宅バブルの波に乗って米国第4位の規模を持つ巨大証券会社・名門投資銀行に成長する。

しかし、2000年代後半の住宅バブル崩壊により経営が急速に悪化し、2008915日に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)の適用を連邦裁判所に申請し倒産した。この倒産は世界金融危機顕在化の引き金となり、世界経済に多大な影響を与えることとなる(リーマン・ショック)。倒産するまで格付け機関から信用格付けAAAを受け、世界の経済・金融で重要な存在であった。

 

メリルリンチ

元々は、Merrill Lynch & Co., Inc. は米国三大投資銀行の一つで、国際的に幅広く展開をしていた金融機関だった。投資銀行業を始めとし、世界37カ国・地域に展開していたが、リーマン・ショックで事実上破綻し、200911日にバンク・オブ・アメリカに救済買収された。

2007年のサブプライムショックで巨額の損失を計上し、赤字に転落。その後、スタンレー・オニール会長兼CEOが同年10月に引責辞任し、NYSEユーロネクストのCEOを務めたジョン・セインが同年121日付けで新たな会長兼CEOに就任した。

2008年915日、事実上破綻したためバンク・オブ・アメリカに129ドル、総額500億ドルで救済買収されると発表。200911日、バンク・オブ・アメリカによる買収が完了し、社名をバンクオブアメリカ・メリルリンチに変更した。

2019年225日、バンク・オブ・アメリカは投資銀行事業からメリルリンチの名を外してバンク・オブ・アメリカ・セキュリティーズとする事、またメリル(Merrill)の名はウェルスマネジメント(富裕層向け資産運用)事業で残す事を発表した。

 

AIG 

AIGもサブプライム関連の金融商品を抱えていたため例外ではなく、住宅価格の低下や金融商品の格下げの影響を受け多額の損失を抱えた。損失額は2008年通期で9929000万ドルとなり、アメリカ企業史上最大の赤字額となった。

AIGが破綻することにより4000億ドルのCDSなどが顧客や市場に多大な影響を及ぼすことを危惧したFRBは方針を転換し、AIGの資産を担保とし、最大で850億ドルを融資することを決定した。これと引き換えに、アメリカ政府がAIGの株式の79.9%を取得する権利を確保し、政府の管理下で経営再建が行われることとなった

2008103日には新しい経営方針として、生命保険事業を売却し中核事業の損害保険事業に資源を集中させる方針を発表した。売却して得られた資金はFRBからの借入金の返済に充てられた。

 

モルガンスタンレー:アメリカ・ニューヨークに本拠を置く世界的な金融機関グループである。JPモルガンやゴールドマン・サックス、メリルリンチ等とともに、投資銀行業務の幅広い分野においてリーグテーブル上位に位置する名門投資銀行と言われている。

2007年からの世界金融危機の影響を受けリーマンブラザーズ倒産直後には商用不動産およびレベル3資産を抱える同行に対し、ヘッジファンドを中心とした投資家が連想的な投げ売りを実施した結果、株価が大幅に下落するなど一時的にその余波を大きく受けるも、2008921日に連邦準備制度理事会から金融持株会社への移行が承認され、また翌週には三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)と資本提携し、MUFG宛に90億ドル分の優先株を発行するなど、矢継ぎ早の対応が功を奏し辛うじて復活を遂げる。

 

ゴールドマン・サックスは、アメリカ合衆国の企業であるザ・ゴールドマン・サックス・グループ・インク(The Goldman Sachs Group, Inc.)、または同社を中核とする金融系企業グループを指す。金融グループとして、株式・債券・通貨・不動産取引のブローカー業務、貸付・保険・投資銀行業務にくわえ、プライベート・バンキング等も行う。GPIF年金運用委託先の一つ。

世界金融危機では連邦準備制度からベイルアウトを受けた。

 

本書「グリード」の中では、ゴールドマン・コールズとなって出てきます。

また、本書では、ゴールドマン・コールズの救済方法は、モルガンスタンレーも参考とされているようです。

 

GE(ジェネラルエレクトリック)、ここもメーカーにも関わらず、金融にも手を出していたため“世界金融危機”による影響を受けて、のちに金融事業から撤退することになりますが、本書「グリード」の中では、GEの血を引く会社として“アメリカン・ドリーム社”として出てきます。

 

ベイルアウト(bail-out:経営危機にある金融機関を政府等の第三者が資金を提供することで、破綻から救い出す救済方式のことで、企業救済に税金を投入するため、納税者の大きな反感を買うことが多く、ベイル・イン方式を採用すべきではないかとの議論が世界各国の規制当局によってなされている。

 

次は、なぜ「世界金融危機」が起きたのかを探求してみたいと思います!!

分かるかな~・・・・分かんないかも・・・・(;^_^A

 

ありがとうございました~!!m(_ _)m

 4fda51f0s

2023年3月26日 (日)

「大君の通貨」 佐藤雅美著読了~! 幕末の開国時、為替設定の誤りから、「ハイパーインフレ」と「円安(当時で言えば両安でしょうか)」により、幕府が滅んだということが語られていました。今の日本、異次元的金融緩和によるじわじわと“インフレ”と“円安”、酷似していますよネ!

 

キーワードの一つとして、

「グレシャムの法則」があります。イギリスのトーマス・グレシャム1519-1579、財政家、貿易商)が16世紀に唱えたもので、「悪貨は良貨を駆逐する」ということばで有名な法則。金本位制の経済学の法則の一つ。

当時の日本も、銀貨において、悪貨が良貨を駆逐していました。

ある社会において、貴金属としての素材価値が異なる2種類以上の貨幣が同一額面価格で流通する場合、素材価値の優れた貨幣(良貨)はその価値ゆえに退蔵されたり、溶解されて地金にされたり、輸出されたりなどして流通市場から駆逐され、素材価値の劣悪な貨幣(悪貨)だけが流通するようになることをいう。この現象それ自体は古くから観察されてきたものであるが、それが法則として有名になったのは、グレシャムがエリザベス女王(1世)に貨幣悪鋳の弊害を除去するよう提唱し、のちにHD・マクラウドがその著『政治経済学の諸要素』(1858法則として命名

 

時間軸をベースに日本が滅びることになったファクトを綴ってみます。

結果として、「明治維新」は本当に必要であったのだろうか!?

開国を迫られていた、徳川幕府を、なぜ薩長はもっと協力、助けることができなかったのか、と思いました!

当時は封建制度に基づく、徳川幕府最後の大老“井伊直弼”がダメだと思えば、決起するしかなかったのかもしれませんが・・・

 

18537月、ペリー初来航。このときは開国を促す国書を手渡したまで

 

18542月、ペリー2度目の来航日米和親条約を締結

横浜で締結したことから“神奈川条約”とも呼ぶ。ただし、通貨(為替)問題は未決(未確定)のままであった

 

1856年、タウンゼンド・ハリスが米国の駐日外交代表兼総領事として日本に赴任

 

1857ハリスは赴任早々、下田条約(これは批准を必要としない協約)において、通貨(金貨及び銀貨)の同種同量交換を盛り込んだ。

この時点では、水野忠徳、岩瀬忠震共に、通貨の同種同量交換が、日本の為替設定において、不平等になることを認識できていなかったP263

 

その後、認識した二人は、神奈川条約の追加条約(批准を必要とする)において、1ドル=1分銀という為替レート(日本側の正当な主張)を差し込んだが、18586月の日米修好通商条約における通貨は同種同量交換に吸収されてしまう。

 

ハリスはイギリスやフランスが日本に大艦隊を派遣したら、日本はアメリカとの条約よりはるかに過酷な条件を迫られるに違いないのだから早く調印するといい、と言うのですが、天皇がゴーサインを出さないため延期せざるを得ない状況です。そして、朝廷が拒否すると、おそらく戦争になるからです。そうなると、アヘン戦争による清国のようにボロボロにされてしまいます。そうなっては困ると井伊直弼は悩みますが、彼はもともと国学者の家庭教師につき、非常に天皇家を重視する立場の人です。そのため、天皇を無視できません。他方で、岩瀬忠震は育ちが良く、国益を考えたら調印しかないのではないかと言います。戦争になったら大変だということを念頭に、さまざまな議論がされました。

 

結局、最後には切羽詰まって、孝明天皇の勅許なしで調印ということになり、安政5年(1858年)619日に、日米修好通商条約は勅許のないまま戦艦ポーハタン艦上で調印されました。アメリカ側はハリス、日本側は岩瀬と井上清直でした。その後、710日には日本とオランダ、711日には日本とロシア、720日には日本とイギリス、93日には日本とフランスということで、立て続けに条約が調印されました。これらは「安政の5条約」といいますが、1年間に一気に実現したのです。これにより、日本は通商国になりました。

 

18586月、日米修好通商条約について

江戸で当時大老の井伊直弼の指示で、とても優秀であったが、中間管理職の井上清直と岩瀬忠震が調印したことで“江戸条約”とも呼ぶ。

岩瀬、井上は神奈川条約の追加条約を主張したが、受け入れられず、通貨は同種同量交換となった。

日本経済に疎く、条約を急いだ井伊直弼の大失策であった。

「大君の通貨」は、この頃18593月から186212月までの話になる。

この当時の事実として、日本は“金本位制”であったが“銀本位制”ではなくなっていた。

日本の銀貨(“一分銀”と言う)は刻印を打つことで通用させている代用貨幣(“銀”本来の価値よりも刻印を打つことで高く評価していた。例えば、日本の一万円札と同じで、一万円札を作るコストは30円だが、価値は一万円となります)であって、日本だけで通用する通貨であった。

そこで、米国のハリス、イギリスのオールコックへの通貨の同種同量交換という要請に合わせるため、新たにニ朱銀(一分銀より、1.5倍ある銀貨であるが、一分銀の1/2の価値。つまり、“一分銀”は本来の銀の価値よりも3倍(=1.5×2)の価値を持たせていたのです

 

ハリスは、その事実を認識しながら私腹を肥やすために、新たな二朱銀を認めず、つまり、米国ほか条約を締結した各国は、日本のモノをすべて、実質価格の1/3で手に入れることができるようになった。

海外需要が沸騰し、日本国内ではハイパーインフレとなります。

 

それに対して、徹底抗戦したのが、

当時の中間管理職、水野筑後守忠徳(ただのり)1810年~18688、享年58歳)でした。

禄高500石の旗本であったが、天保15年(1844年)、時の老中・阿部正弘に認められ、西丸目付に登用される。以後、使番・御先手組火付盗賊改方加役を経て、嘉永5415日(185262日)に浦賀奉行、嘉永6426日(185362日)に長崎奉行に任ぜられた。

貨幣に関しては有数の理論家であり、幕末における金貨の流失を安政二朱銀の発行により防ごうとした立役者である。

 

しかし、経済に疎い井伊は、水野のことを理解できず、閑職へと追いやります。

 

1858年~1859年、安政の大獄、井伊直弼は幕政を批判する諸勢力を弾圧。これも大失策。

幕府を中心とする佐幕開国派と朝廷を中心とする尊王攘夷派との対立を更に深めただけでした。

 

愚策はさらに続き、代用通貨のはずの一分銀を銀本位の価値に引き下げるため、1860221日には、小判1両を金価格で3.375倍に引き上げる措置を行った。

これは、物価上昇に火をつけることになります。

現代で言うと、今まで10,000円で買えたものが、33,750円出さないと買えなくなるように誘導するわけです。

 

一方、インフレに抵抗力のない下級武士、浪人、中小商工業者、小作者は給与、収入が増えるわけではないため、幕藩制度に対し憎悪に近い反発を抱き、徳川政権は目に見えて傾いていくことになります。

 

そして、1860324、安政の大獄に対して「桜田門外の変」、井伊直弼が桜田門外で待ち伏せしていた浪士団の要撃を受け、首をはねられた。

 

長年にわたり代用貨幣を発行することで得ていた、設定された貨幣価値とその実態価値との差益が無くなり幕府の金庫は底をつき、一方でけたたましいインフレによる、恨み、つらみの声を一身に集め、ミシミシと音を立てて崩れるように幕府は瓦解した。(P274

 

ハイパーインフレは、1866年、ドルと一分の相場がほぼ重さ通りに均衡するまで、つまり物価が3倍上昇し、貨幣価値が3分の1になるまで、続いたそうです。

 

186834月、江戸城無血開城、江戸幕府の終焉。

 

為替設定の間違いを認識し、抵抗し、阻止しようとしたにも関わらず、井伊により左遷された。

井伊死後は、再び江戸城内で睨みを利かせていたが、攘夷派には疎まれた。

そして、その後、江戸幕府は滅んでしまった。

江戸幕府存続を願っていたからだと思うが、水野忠徳は、江戸城無血開城の年の8月、記録では「病死した」とあるが、おそらく狂い死ぬように死んだのだろう、と語られていました。享年58歳。

 

もう鎖国している時代ではなかった。時流を見極める必要があったのだと思います。

そして、他国と付き合う場合に“経済”無知であってはいけなかった。

当時“攘夷”を表明していた人たちは、無知であったと言えるように思います。

当初、オランダとは物々交換による同価値交換でよかったのですが、貨幣を利用する場合に、井伊直弼のように経済無知ではいけなかったのだと思いました。

 

そして、現在の日本は管理通貨制度とは言え、2013年からの異次元的金融緩和により、マネタリーベースで3倍どころか、2013年比で4.3倍の貨幣流通量です。物価が4倍になっても不思議はないのかもしれません。

そして、そのお金はどこへ行っているのでしょうか!?

企業で言えば、きっと軍事産業。個人で言えば、お金持ち、資産家の皆様に、偏ってしまっているのですよね・・・偏っているために、お金が日本全体に行き渡らずに、急にはインフレがやってこない状況と思いますが、予断は許さないと思いました。

 

ありがとうございました~!!

m(_ _)m

51f0o7vobel

2022年10月15日 (土)

高杉良氏、46歳、1985年の著書、日本生命を舞台にイイ感じに書かれた小説「いのちの風」を読了!一方、その約20年後、66歳の頃に書かれた「腐蝕生保」では、日本生命を叩きに叩いてますネ~!どうしてしまったのだろう!?分かりません~!?

 

本書の主人公の父親、弘世現(ひろせ げん、1904521 - 1996110日)は、日本生命社長。同社の創業者であり、「中興の祖」と呼ばれた弘世助三郎の娘婿。

娘の準子はサントリー名誉会長・鳥井道夫の妻で、孫の夫はパナソニック副会長・松下正幸と、経営者の家族ですね。

 

東京大学経済学部卒業後、最初は三井物産に入社、16年間勤務した。1944年、40歳前に日本生命の取締役として転身した。株式会社であった日本生命が相互会社として1947年に再出発するに当たり専務となり、1948年、44歳の時、5代目社長に就任。1982年まで35年間にわたり社長を務めた。社長時代の197411月、勲一等瑞宝章受章。生保業界の重鎮とも呼ばれ、1976年に、オハイオ州立大学内にある保険殿堂入りを果たした。また、浅利慶太や石原慎太郎のスポンサーとなり、日生劇場の生みの親でもある。

1983年から1996まで、松下幸之助の後任として伊勢神宮崇敬会第4代会長。その他には、朝日放送、近畿日本鉄道、髙島屋などの取締役をそれぞれ務めた。

 

1996110日、死去。享年91

 

ここで、「中興の祖(ちゅうこうのそ)」とは、一般に「名君」と称される君主または統治者のうち、長期王朝、長期政権の中途、かつ危機的状況後に政権を担当して危機からの回復を達成し、政権の安定化や維持に多大な功績があったと歴史的評価を受ける者をいう。

 

そして、本書『いのちの風』の主人公は、その日本生命社長 弘世現氏の長男、

弘世源太郎氏(1930-1975)の物語になります。

日本生命元常務、弱冠44歳で死去。妻は松方正義の曾孫・信子氏。

 

弘世源太郎氏も、父親と同じく、慶応大学法学部を卒業後、三井物産に入社、そして39歳のときに、父親の現氏に強く薦められて、日本生命に取締役として中途入社をする。

おそらく、19691970年頃と思われます。

入社後、最初の8カ月間は、様々な部署を知るための充電期間となり、そして、営業を知らずして重役が務まるのか、ということで、自ら営業を志願し、京橋支社長を約1年半務めた。

ここまでは、取締役としてというよりは、いろいろと学ぶため、生命保険の知識、経験を蓄積する期間だったように思いました。

 

ここからが、日本生命取締役として、頑張ったところのように感じました。

歴史で言えば、1972年から1975年の日本生命の頃となります。すでに生命保険のリーディングカンパニーであり、日本生命に入社することは、どれだけ優秀であっても難しかったと思います。とても優秀な人が集まっているわけで、そこに中途入社で、いきなり取締役です。

そのプレッシャーは計り知れないだろうと思いました。

 

支社長を務めた後、三井物産時代の海外留学経験、その語学力を活かして、アメリカのトラベラーズ社との提携をした、とのことでした。

残念ながら、現在、日本生命とトラベラーズ社との提携はされていません。

1972年頃では、生命保険会社による海外事業戦略は、“これから”と言う段階だったと思われます。

※遡れば、1965年より、生命保険会社の国際化論が始まっていますが、最初に日本生命が米国日本生命を立ち上げるのは1991年を待つことになります

 

次に、取締役企業保険部長として、個人保険を中心に販売をする営業職員とは別に、団体保険、企業年金保険を中心に販売をする「法人営業部門」の立ち上げに貢献した、ということでした。

1973年~1974年の頃と思われますが、

1962年には、企業年金保険を販売、1966年には、厚生年金基金の販売を開始しています。

団体定期保険に至っては、1948年以降、企業の福祉制度として販売を促進してきました。

 

歴史の流れに基づけば、「法人営業部門」を立ち上げについては、どの生命保険会社も必然の道であったように思いますが、会社員としてチーム一丸となって尽力されたのだと感じました。

 

その後、体調を崩されます。

中途入社で、いきなり取締役からスタート。そのプレッシャーは並々ならぬものであったと思います。そして、

仕事の無理、運動不足、不規則な食生活で肥満にもなられたようで、心筋梗塞により、弱冠44歳という若さでこの世を去ることになります。

 

読後感は、とても良かったですヨ!

 

「解説」でも、ジャーナリストで城山三郎氏、遠藤周作氏、阿川弘之氏とも親交のあった、金田浩一呂氏が、次のように語られていました。

 

私は、高杉さんの小説を冗談に“元気の出る小説”と呼んだことがありますが、夢も希望も無くしがちなサラリーマン生活に、人間捨てたもんじゃありませんよ、こんな人たちもいるんですよ、と励ましてくれる昨今珍しい小説です。

人間の悪意を書いた小説など掃いて捨てるほどあり、それだけが昨今のリアリティだと思われているのは、20世紀文明に毒された可哀想な小説観ではないでしょうか。

類は友を呼ぶとか、朱にまじわれば赤くなる、とか言いますが、源太郎の周りに集まり、彼を助けるのは決して善意の固まりの人たちではありません。

源太郎の誠意に、自分の中の善意の部分が感応するのです。

先に新卒から日本生命に入り、役員ではなく部長であった、源太郎の従兄慶一郎、嫉妬があってもおかしくないのですが、「ほかの連中なら入社を反対するかもしれないが、君では賛成するしかない」と語ることになります。

 

苛酷な企業競争の中でも誠実に生きていきたい、と思っている人をこれだけ勇気づける言葉があるでしょうか。

 

この小説は弘世源太郎・日本生命元常務をモデルにしています。

モデル小説と言う制約の中で、よくこれだけ生き生きと人間像を描けたものだと、あらためて著者の手腕に敬意を表します。

 

「解説」からもそうですが、高杉良氏(1939年~)は、弘世源太郎氏の9歳年下になりますが、どこかで接点があったのでしょうか!?べた褒めとも思えますよネ!

 

一方、それから20年後・・・

高杉氏、66歳前後のときに、この物語の続編を『小説・巨大生保王国の崩壊』と題して2004年から2006年にかけて週刊誌に連載、その後、『腐食生保』と改題して単行本にしている。そこでは、広岡俊が社長や会長の座に固執したのは、厳太郎の遺児を社長にしようという思惑があったからだと書かれている。しかし、「理想の上司」を失った巨大生保は、トップにへつらう人間が出世し、改革派は排除される組織に変貌していた。

源太郎氏以外は、叩きに叩きますネ~・・・

更に、本書「いのちの風」も、原題がよかったと思うのですが、2020年に「世襲人事」と改題していますが、改悪ですよね・・・

 

解説を書かれた、金田氏の言葉を借りれば、

昨今の高杉氏の小説は、

“人間の悪意を書いた小説など掃いて捨てるほどある”、そんな小説になってしまっているように感じています。

ざんねんです・・・

 

本書は、とてもよかったと思います。ありがとうございました!

m(_ _)m

 

R_20221015215301

2021年10月21日 (木)

財務省の現役事務次官の矢野氏は、文藝春秋11月号に、新型コロナウイルスの経済対策にまつわる政策論争を「バラマキ合戦」と言及。このままでは国家財政が破綻する可能性があると寄稿。これに対して、元大蔵省官僚の高橋洋一氏は真っ向から否定。さてどちらが正しいのか。個人的には矢野氏に1票!!

 

初めて文藝春秋を買いました!

好きな作家の一人、半藤一利氏が編集長を務められていた月刊誌であり、親しみは感じているのでした~。

 

内容は、安倍元首相、高市議員、そして表題の元大蔵省官僚の高橋洋一氏など、リフレ派と呼ばれる方々からは批判を受けていますが、個人的には本寄稿に1票です!

 

☆「リフレ派」とは、リフレーションを望む人たちのこと。リフレーションとはアメリカのアーヴィング・フィッシャーという経済学者が提唱した経済政策で、はじめに目標とする物価上昇率を定めて、それを達成するために金融緩和を行って市場に流通するお金を増やし、物価を上昇させる政策です。最初に物価上昇率を定めることを「インフレターゲット」と言うそうです。

 

矢野氏は、恒常的に、税収を超える支出を継続している。(支出)―(税収)の額は年々増えており、ワニの口の如く広がってきている。このようなことを継続していれば、いずれ国家は破綻する、と言われています。

それを数値として、「債務残高÷GDP比」という数値が、年々増えていることでも説明をされていました。

この数値(現在256.2%)は、国家破綻したギリシャよりも悪く、先進国の中でもずば抜けて大きな借金を抱えていると言います。

 

今の日本の状況を喩えれば、

タイタニック号が氷山に向かって突進していうるようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかが分からない。また、衝突するまでの距離も分からない。そのため、衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです。

 

強大な古代ローマ帝国もバラマキで滅亡した。その「パンとサーカス」でも例えていました。

パンとサーカスとは、無償で「パンとサーカス」の供給を受け、権利を主張するが権利や義務を負うことを忘れて遊民家したローマの市民大衆は、その途端に、恐るべき精神的、道徳的退廃と衰弱を開始した。

ローマの市民大衆が働かずして無償の「パンとサーカス」を「権利」として手にいれることができるようになり、繁栄と福祉の絶頂に達したと錯覚しているときに、ローマ社会の芯は腐り始め、ローマ人の魂は衰弱し、ローマの没落への至ったのであると。

 

現在の日本も、日本銀行が何の担保もなくお金を刷りまくり、市中にバラまく(日本の場合は、株式市場に投入したり、軍事企業に投入しているため、一般市民には届かず、富裕層、企業に持っていかれているのが現実だと思います)

 

年々借金が膨張を続けていけば、どこかで破綻する。

とても分かりやすい説明だと思いました。

 

一方、リフレ派の代表として、高橋氏によれば、日本政府の特別会計も入れた連結バランスシートを取り上げて、説明をされていました。

・日本政府は、負債合計が2,000兆円あるが、資産も約1,500兆円ある

・日本銀行負債の銀行券は紙幣発行分だが、これは形式負債(日本銀行が刷った紙幣であり、利息が付かないため)のため、外せる

・よって、資産と負債は1,500兆円でバランスしているので、赤字国債を発行しても問題ないし、破綻もしない

 

↓日本政府の特別会計も入れた連結バランスシート


資産


負債


 

資産 1,000兆円

 


 

国債 1,500兆円


国債 500兆円

(日本銀行資産)


 


 


銀行券等 500兆円

(日本銀行負債)

 

ちょっと腑に落ちません・・・

 

銀行券を形式負債として外すのはよいですが、その場合、日本銀行の資産も外す必要があるのでは?と思いました。

理由としては、日本銀行は紙幣を刷る分、負債も資産も同じだけ増えるわけで、その負債は形式負債として外し、刷った分だけ増えた資産を残せば、いくらでもバランスさせることが可能になるため、です。

日本銀行のバランスシートを外せば、やはり500兆円の債務超過になるのではないでしょうか?

一般企業がこのような状態であったら、すでに破産をしていると思いました。

 

矢野氏の説明の方が、納得感があると思いました。

 

でも、このような債務超過に陥っていても、日本が破綻せずにきているのはなぜか?

 

1つは、高橋氏も言われていますが、日本には資産も1,000兆円あること。

それと、国民金融資産が約1,900兆円あることも一因になるのでは、と思っています。

 

いざとなれば、戦後行った「預金封鎖」と「新銀行券発行」をすれば、日本政府の借金はゼロに戻せるからです。

やり方はシンプルです。

明日から銀行預金を下ろせなくすること。そして、新銀行券発行とともに、手元にある旧紙幣を利用不可、紙屑とすること。

そして、下ろせなくした銀行預金で日本政府の借金を返済する。

これで日本国全体としては、破綻しない、沈没しませんよネ・・・

 

戦後直後に実際にあった事ですが、今こんな事をしたら、国民全員一律貧乏のどん底になります。

戦後直後は、国民のほとんどが、貧乏のどん底状態でしたので取られるものは少なく、お金持ち(財閥など)から金融資産を吸い上げて戦争による国家負債に充当する目的があったと思います。

 

そして、矢野氏が書かれていました。

 

本当に巨額の経済対策が必要なのか、その経済対策は本当に有効なのか。そのコストや弊害も含めて、よく吟味する必要があります。海外の動向に鑑みて、国内経済の実態に鑑みて、日本の経済生産性・国際競争力に鑑みて、国民の差し迫った実需に鑑みて、冷静に議論する必要があります、と。

紙幣をいくらでも刷りまくっていれば、どこかで紙幣に対する信用が落ち、ハイパーインフレーションを招くことになると思います。

矢野氏が、総選挙前に寄稿し公表したことは、私たち一人一人にきちんと考えなさい、というイイ機会を与えてくれたことにも、感謝です。

※ワニの口、2020年は開きすぎて、おかしな状態ですね・・・

ありがとうございました!!!

m(_ _)m         

P03

2021年5月 5日 (水)

戦前1938年から戦後1946年まで8年間、第一生命社長を務められた石坂泰三氏のことを書いた「もう、きみには頼まない」(城山三郎氏著)を読んで。禅僧から聞いたという「無事是貴人」(何事も無いのが最上の人生)なる言葉を好んだと言う

 

作家城山三郎氏、経済小説の大家であり、著書はほとんど読みましたが、面白かった中の一つに「もうきみには頼まない」があります。

その主人公が、石坂泰三氏(1886年(明治19年)63 - 1975年(昭和50年)36日)になります。

 

「平々凡々の人生」が最高だと。

「無事是貴人」なる言葉を好んだ。

「何事も無いのが最上の人生」というわけである。

 

太平洋戦争をご経験されていることも、あるのかもしれませんネ。

次男さんを戦争で亡くされています。

 

また、内村鑑三の学生訓「善学善遊」も好きな言葉とのこと。

 

第一生命時代の石坂泰三氏は、オーナーや創業者でもない、れっきとしたサラリーマンであったが、社長となられて、その社長業を8年間務められたスゴイ方であります。

 

アクチュアリーであれば、日本アクチュアリー会創設に尽力し、その会長も務められて、日本で初めて「相互会社」として第一生命を創立した、矢野恒太氏を知っているわけです。

・・・まあ自分はアクチュアリーではありませんが・・・・(´;ω;`)ウゥゥ

 

創立当初、第一生命は、40社ほどあった生命保険会社の中で、1213位。社員は営業職員を含めて70名であった会社を、戦争が原因とはいえ、経営責任をとって、194612月に当時会長の矢野氏、社長の石坂氏両名が辞められる前まで二人三脚で、営業職員を含めて4,000名近くの業界トップレベルの生命保険会社にまで押し上げられた方になります。

 

戦後に連合国軍総司令部が入ったことで有名な「日比谷の第一生命ビル」の建設を手掛けたのも、石坂氏であり、第一生命では、とくに資産運用での貢献が大きかったと書かれていました。

 

1938年(昭和13年)11月、52歳で第一生命取締役社長に就任し、1946年(昭和21年)年12月、60歳で辞任するまで、8年間社長をされていました。この間、矢野氏は会長を務められています。

 

その後、社長を退き「毎日が日曜日」の身となった昭和224月の日記に記されている。

私の今日迄60年の生活は一日として独立自主の境涯ではなかった。

私は思うことがハッキリ言えなかった。また、したいと思うことができなかった。それは私の辛抱と自重から来たのであるが、若し私が自分の思い通りのことをイイ、自分の意見のとおり率直に実行したら、私はとっくに第一生命の人ではなかった事だけは確実である。或いはその方がよかったかも知れなかったが、実際は60を超すまで辛抱してしまった、と。

 

その後の石坂氏。

第一生命時代が人生の前半戦であり、その後の後半戦もスゴイのです!

 

1948年12月、62歳の時に東京芝浦電気(現・東芝)に取締役として入り、翌年には社長に就任されて、1953年(昭和28年)までに、戦後の影響で瀕死の状態にあった東芝を再建の軌道に乗せた。そして、1957年まで東芝の成長を牽引しました。

その間にも、第2代経済団体連合会(経団連)会長(1956年(昭和31年)221日~1968年(昭和43年)524日)を計4期、12年、70歳から82歳までの間になります。

経団連会長の異名 「財界総理」は政治家嫌いでもあった石坂泰三の嚆矢(こうし、物事のはじまり)にもなったわけです。

1965年には日本万国博覧会協会会長を引き受けて、19703月(~9月まで)、高度経済成長の日本を象徴するように見事に成功を収めています。

これが、80歳から85歳の間になります。

 

他にも、石油の無い日本に石油をということで、アラビア石油の立ち上げにも関わり、石油を掘り当てられなければ、自己破産というリスクを背負いながら、見事に石油を掘り当ててしまう。

運にも恵まれていたのかもしれません。

そして、88歳で亡くなられるまで、宮内庁参与、日本ボーイスカウト連盟総裁などいくつもの要職を務められました。

 

同じ生命保険業界で働く身として、同じ業界に、これほど素晴らしい方が居たことは、とても嬉しく感じました。

 

(ピタウ神父の石坂評)

腹の中から笑い、生きるよろこびを持っていた人。一分一分を楽しみながら、その中で、日本のために国際的に奉仕する人で、一緒に居るのが実に楽しかった

 

(土光敏夫の石坂評)

特別に好きな人で、私はこの人にどれだけ教わったか、はかり知れない。知識の深さ、人をみる目、すばらしい大局観など、学ぶことは、何もかもであった。驚くほど広く人間を知っており、近くにいるだけで人を熱くさせる非常にボルテージの高い人であった

 

(デビッド・ロックフェラーの石坂評)

あたたかくて、とても元気で、印象的な人でした。役員会には、いつもノートを用意して出席をされました。啓発される意見が多く、いつも皆が耳を澄ましたものです。とにかく視野が広く、先見性があり、さらにユーモアがあった

 

僅かでも見習えるようにガンバロ~!ありがとうございました!

m(_ _”m)

 

5121gxntlfl_sx354_bo1204203200_

より以前の記事一覧

フォト

最近の記事

2024年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

最近のコメント

最近のトラックバック

ウェブページ

無料ブログはココログ

Twitter

  • twitter

このブログ内で検索