『ねじの回転 February Moment』、「ニ・ニ六事件」を題材とした、恩田陸さん2002年、38歳のときに書かれた物語となります
AIDS(Acquired Immunodeficiency Syndrome:後天性免疫不全症候群は、HIVが人に感染した結果、体の免疫力(病気とたたかう抵抗力)がなくなり重度の日和見感染症や悪性腫瘍などのいろいろな合併症を引き起こす病気)の次に、近未来においてAIDSよりも恐ろしく、致死率が高いHIDS(Historical Immunodeficiency Syndrome、歴史性免疫不全症候群)が流行する。
そこで、HIDSの無い世界にするために、HIDS発生の原因を取り除くために時間を遡行する。
その原因が「二・二六事件」であったと。
時間遡行技術を得て、時間遡行を繰り返したことがHIDSの原因となったために、その技術が生まれない世界とするために。
それは、太平洋戦争で、日本が負けること。
しかも、終戦に向けた努力はせず、完全なる敗北をすることで、日本はアメリガの属州となること。
日本の高度経済成長を阻止することであった。
そして、時間遡行後の修正に失敗をくり返しながらも、最終的には成功する。
日本はアメリカの属州となった。
まあ、日本国として独立していると言いながらも、今もアメリカの属州のような状況ですけどネ(笑)
ここで、「二・二六事件」とは、
政治における政党の力はしだいに小さくなり、逆に軍部と反既成政党・現状打破・革新を主張する勢力(「右翼・革新」)とが政治的発言力を増大させていった。
(中略)
政治的発言権を増した陸軍内の派閥対立(対立していた派閥は、ふつう統制派・皇道派といわれる二派で、前者は永田鉄山(1935年に皇道派の将校相沢三郎に殺害された)、後者は荒木貞夫(犬養・斎藤両内閣の陸相)・真崎甚三郎が中心人物とみられていた。ニ・ニ六事件の青年将校は後者に信服していた。)もからんで、1936年(昭和11年)2月26日、北一輝の思想的影響をうけていた皇道派の一部陸軍青年将校が、約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などをおそい、高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害するに至った(二・二六事件)。
国家改造・軍政府樹立を目指すこのクーデターは失敗し鎮圧されたが、戒厳令のもとで岡田内閣からかわった広田弘毅内閣は閣僚の人選や軍備拡張や国内政治改革などの政策について軍の要求を入れてかろうじて成立し、以後の諸内閣に対する軍の介入の端緒をつくった。
(この内閣は陸軍の要求によって軍部大臣現役武官制を復活させたが、この制度によって、軍は内閣に不満があると軍部大臣を推薦しなかったり辞職をさせたりして、内閣の存立を脅かした)
「二二六事件」で、同じく襲撃をされた、岡田啓介内閣総理大臣・海軍大将、鈴木貫太郎侍従長・海軍大将は生き残ることができ、その後、太平洋戦争末期においては、終戦に向けて尽力した。
物語には、「二・二六事件」に関与した実在の人物も登場しています。
石原莞爾
1889年(明治22年)1月18日〈戸籍の上では17日〉 - 1949年(昭和24年)8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。最終階級は陸軍中将。
帝国陸軍の異端児と呼ばれ、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。
二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。石原は首謀者達を煽った荒木貞夫大将に会い、その時に石原は上司の荒木に「お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけています。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。
東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。
安藤輝三
(1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日、享年31歳)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大尉。 二・二六事件に関与した皇道派の人物で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。
鈴木侍従長を襲撃したが、一命は取りとめた。
鈴木は安藤に親しく歴史観や国家観を説き諭し、安藤は大きな感銘を受けた。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐の深い大人物だ」と語っている。後に鈴木は座右の銘にしたいという安藤の要望に応えて書を送っている。「誠にお気の毒なことを致しました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語った。
当初、決起には消極的だったものの、ひとたび起った後には誰よりも強い意志を貫いた。
投降後、安藤はピストルを喉元に発射して昏倒したが、陸軍病院における手術の末一命を取り留めた
栗原保秀
1908年(明治41年)11月17日 - 1936年(昭和11年)7月12日、享年27歳)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍士官学校第41期歩兵科出身。最終階級は歩兵中尉。
磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。
1936年2月26日午前5時頃、岡田啓介総理がいる首相官邸の襲撃を指揮した。
総理の義弟・松尾伝蔵を総理本人と誤認したため、岡田の暗殺には失敗した。
とくに、石原、安藤、栗原の3名については、物語のキーマンであり、その人柄について
石原は、頭がよくて、合理的
安藤も、頭がよく、部下からも慕われていた
栗原も、頭がよいが、二・二六事件を強力に推進。狡猾さを持ち合わせた冷徹な人間としている
ほかにも、次の方々が実名で語られていた。
野中 四郎(1903年(明治36年)10月27日 - 1936年(昭和11年)2月29日)は、日本の陸軍軍人。二・二六事件の中心人物の一人。1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件で約500名の下士官兵を率いて警視庁及び桜田門付近を占拠。29日、山下奉文少将に自決を促され、叛乱の責任を取って陸相官邸で拳銃自殺した、34歳。(上P34)
磯部 浅一(1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、皇道派青年将校。
陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期[1])を経て陸軍歩兵将校となるが、中尉の時に経理部に転科した。陸軍一等主計の時に、陸軍士官学校事件により停職、「粛軍に関する意見書」配布により免官となった。二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。(上P68)
安田 優(1912年(明治45年)2月1日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍砲工学校学生。二・二六事件に参加、他の将校らと内大臣斎藤實、教育総監渡辺錠太郎を相次いで襲撃した。最終階級は砲兵少尉。
1936年(昭和11年)7月 - 叛乱罪(群衆指揮等)で死刑判決。12日、東京陸軍刑務所で死刑執行。25歳。(上P34)
河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日 - 1936年(昭和11年)3月6日)は、日本の陸軍軍人。航空兵大尉。所沢陸軍飛行学校操縦学生。
二・二六事件に参加、湯河原で牧野伸顕を襲撃したが負傷、後に自決した。(上P33)
坂井 直(1910年(明治43年)8月13日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵中尉。二・二六事件に参加した青年将校の一人で、軍法会議で死刑判決を受けて処刑された。
(上P33)
中橋 基明(1907年(明治40年)9月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。栗原と親しかった。
1936年の二・二六事件に決起部隊将校として参加し、軍法会議で死刑判決を受けて処刑された。
(上P34)
香椎 浩平(かしい こうへい、1881年(明治14年)1月25日 - 1954年(昭和29年)12月3日)は、日本陸軍の軍人。 陸士12期、陸大21期。最終階級は陸軍中将。
二・二六事件が発生した当時、香椎は帝都の治安を担う警備司令官の地位にあった。しかし事件は全く寝耳に水で、早朝に電話で知らされて初めて知ったという。同日午後、叛乱を穏便に収める目的で陸軍大臣告示が出されると、この中の「真意」という文言が「行動」に差し替えられたため、叛乱に参加しなかった各部隊が混乱するという不祥事があった。この読み替えは青年将校に同情的であった香椎の指示によるものであったことが明らかになっている。その後も警備命令を発して叛乱部隊を形式的に軍の統帥下に編入させたり、戒厳司令官に任ぜられた後も、28日まで天皇から維新の詔を引き出そうと試みるなど、ぎりぎりまで武力鎮圧をためらっていた。優柔不断な態度が残った(上P91、下P185)
安井 藤治(1885年〈明治18年〉10月11日 - 1970年〈昭和45年〉7月8日)は、明治期から昭和期の陸軍軍人、政治家。従三位勲一等。陸軍中将まで昇った後、鈴木貫太郎内閣の国務大臣(無任所)を務めた。
1936年(昭和11年)の二・二六事件に遭遇。香椎浩平戒厳司令官のもと、戒厳参謀長となり事件の鎮定に尽力する。
事件に当たり、川島義之陸相が軍事参議官と協議のうえ作成した、いわゆる「陸軍大臣告示」を宮中の香椎から電話で伝えられ、第1師団長、近衛師団長に印刷送付する。その後、告示中の「諸子の行動は国体明徴の至情に基くものと認む」が「諸子の真意は・・・」に、いずれの時点か差し代わり、これが正規のものとされて紛議を招いたことで知られている。(上P91)
橋本 欣五郎(1890年(明治23年)2月19日 - 1957年(昭和32年)6月29日、享年67歳)は、昭和時代の日本の陸軍軍人(陸軍大佐)、政治家(衆議院議員1期)。右翼活動家。通称「ハシキン」
1936年2月の二・二六事件の際には、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、大佐で予備役へ回される事となる。
生前の彼を知る人物の証言によれば、橋本は非常に短気、ヒステリックで常軌を逸した行動が多く、現役時代の懲罰経験は60回以上にも及んだという。(上P145)
満井 佐吉(1893年(明治26年)5月5日 - 1967年(昭和42年)2月16日、享年73歳)は、日本の陸軍軍人、政治家。
多情多感の熱血漢であり、能弁の士であった。
皇道派に属し、1935年に永田鉄山軍務局長を相沢三郎中佐が斬殺した、いわゆる相沢事件では、軍法会議において陸士同期である相沢の特別弁護人をつとめた。1936年、二・二六事件に関与したとして、禁錮3年の判決を受け免官となった。1942年の翼賛選挙には衆議院議員に無所属(非推薦)で立候補、当選している。戦後は、公職追放となった。(上P145)
亀川 哲也(1891年12月21日 - 1975年6月21日、享年83歳)は、日本の思想家、国家主義者。民間人ではあるが二・二六事件に関与した。(上P145)
迫水 久常(1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日、享年74歳)は、日本の大蔵官僚、弁護士、政治家。
1936年、岳父である岡田内閣総理大臣秘書官在任中に二・二六事件に遭遇し、義弟松尾伝蔵の身代わりで難を逃れ首相官邸の女中部屋に隠れていた岡田首相の救出に同じく秘書官だった福田耕や憲兵の小坂慶助とともに奔走し岡田は無事に救出された。また、終戦時の鈴木貫太郎内閣では早期和平を目指す岡田の強い意向で内閣書記官長に就任し御前会議での聖断に至る事務手続きの責任者などとして終戦工作の一翼を担い、更に終戦詔書の起草にも携わった。(上P192)
真崎 甚三郎(1876年(明治9年)11月27日 - 1956年(昭和31年)8月31日、享年79歳)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。
荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人。皇道派青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。事件後に設けられた軍法会議においては無罪となった。真崎の事件への関与の度合いについては意見が分かれている。
(上P213~)
荒木 貞夫(1877年〈明治10年〉5月26日 - 1966年〈昭和41年〉11月2日、享年89歳)は、日本の陸軍軍人、政治家。
1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。しかし、荒木はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。
石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。皇道派でもそれと対立する統制派でもない石原は、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。
***
陸軍内部の派閥、統制派と皇道派について
軍部が政治支配を確立していく過程において、軍部に統制派と皇道派の派閥対立が見られた。十月事件の失敗後、荒木貞夫、真崎甚三郎を中心とする皇道派は、直接行動を主張する青年将校と結びつき、軍の主導権を握って天皇親政と対ソ主戦論をとなえた。一方、直接行動主義を捨て、政財界と結んで言わば合法的に政権獲得の道を選んだ、陸軍省軍務局長永田鉄山を中心とした統制派は、皇道派を排除し、青年将校のクーデター計画を抑圧していった。そのため、1935年(昭和10年)、真崎教育総監罷免問題から、皇道派の相沢三郎中佐によって、永田が殺害され、さらに二・二六事件が起こされたが、統制派は皇道派の策謀を退け、ニ・ニ六事件の首謀者を厳罰に処した。その後、統制派が軍の主導権を握り、官僚や財界と結びつき戦争体制を確立していった。日米戦争にふみきった東条英機もこの統制派の中心メンバーであった。
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さらに、
「日本の戦争」(田原総一朗著)では、ニ・ニ六事件を“昭和維新”と称して説明をされている。
そして、「昭和史」(半藤一利著)と含めて、北一輝の「日本改造法案大綱」による影響が書かれていた。
ありがとうございました~! m(_ _)m
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