歴史全般(金融の歴史除く)

2024年3月12日 (火)

渋沢栄一氏(1840年3月16日~1931年11月11日、享年91歳)のことを調べてみるために、『渋沢史料館』、『晩香盧(ばんこうろ)』、『青淵文庫(せいえんぶんこ)』、『紙の博物館』へ行って来ました~!!

場所は北区王子にあります。これは、

明治維新後、渋沢栄一は、あらゆる事業を盛んにするためには、人々の知識を高める書籍や新聞などの印刷物の普及が必要で、そのためには安価で大量印刷が可能な洋紙製造をすべきと考えます。そして、明治6年、抄紙会社(後の王子製紙株式会社 現・王子ホールディングス株式会社の前身)を創立します。

それが、北区王子にある理由となるようです。

 

『渋沢史料館』より

身長は5尺(151.5cm)、雅号は「青淵」

趣味は特にないが、読書は好きであり、また「書」を書くことは非常に多い

猟・釣りはほとんどせず、「撃剣」は若い時にすこしたしなんだ

碁と将棋は好きだったが、仕事が忙しく時間の無駄になるために我慢をして、明治20年(1887年)頃、渋沢氏47歳の頃にやめた。義太夫や芝居を好む

性格は温和で「怒ということを忘れられたのではないか」と評されることもある

食事は好き嫌いなく何でも食べ、

「旨い不味いは分かるし、料理のことも多少は知っている」

晩年は芋や茄子を好み、オートミールは毎日食べる

また甘いものは好きで、をよく食べる

煙草は若い時に「日本煙草」をたしなんだが病気を患ってやめた

は一橋家出仕時代やフランスから帰国後に少し飲んだが、元々あまり好きではなく、以後は全く飲まなくなった

 

道徳経済合一説(どうとくけいざいごういつせつ)

渋沢氏は、会社を発展させて国を豊かにするために、幼いころから親しんでいる「論語」を拠り所として、道徳と経済の一致をいつも心がけた。そこで、「道徳と経済」「論語と算盤」にたとえ、一見不釣合なこれらは必ず一致しなければならないものであると広く呼びかけた

 

渋沢栄一氏の70歳以降の活躍の源泉となった健康法、食事法は一体どのようなものだったのか、孫の渋沢華子氏の一文にあった。

 

渋沢栄一76歳の時、「実業の世界」(大正5年8月号)の『現代名士の養生ぶり』と題する健康法のアンケートに、筆まめな栄一本人が書いている。

質問は

①平生実行している健康法

②食物の中で何が一番嫌いか。

③朝食はどんなものでご飯は何ばい食べるか。

④昼食は。

⑤夕食は。

⑥お酒は飲むか、何酒が好きか、晩酌はどのくらい飲むか。

以上である。渋沢栄一の答は次の通りである。

 

①『別に特種の健康法はしていないが、事物に屈托せざるのが(ある一つのことばかりが気にかかって他のことが手につかなくなること、くよくよすることをしない)が私の健康法です。

時に、家庭内の意の如くならないことがあり、会社、事業の損失などもありますが、かくの如きは不如意(思うままにならないこと。特に、家計が苦しいこと)は、それが人生なのだと達観し、如何なる不幸に会おうとも決して屈托せず、です。』

②『甘味、脂肪分多い食物を好み、時に菓子をとり、夕食にはテンプラ、ウナギ、ケンチン汁を好んで食するも、又,イモ、ナスなどの野菜を好む。昨今は肉類よりも野菜類を好んでいる。

③『朝食はスープ皿の三分の一ほどにオートミールクリーム約一合(180ミリリットル)をかけ、砂糖を十分に加えて甘くしているものと、スープ一合、玉子の半熟2個、トースト2枚、紅茶、果物等とを食べる。

④「正午は毎日、兜町事務所に出勤するを以て、昼食は第一銀行にて行員と共に食する場合多し。その際は洋食にして鳥、獣の肉一皿、魚肉一皿、麺麹等を摂取するが、果物はたべない。」

⑤「夕食は和食になることあり、洋食なることもあるが、洋食の場合は多く自ら進んで遊食のためにいくのではなく、殆ど毎夜何等かの会合あって招かれるため、日本食は常盤、新喜楽、瓢家等、洋食は帝国ホテル、築地及び上野精養軒、中央亭等にて会食す。」

⑥「日本食の際は米飯三椀を食べるのが普通で、みそ汁もとる。酒類は全く飲まない。」

 この回答を見ると、76歳の老人とは思えない活動ぶりと健啖ぶりである。しかし、この時代はもちろん農薬、防腐剤、添加物などはない、ほんとの自然食品だったし、空気汚染もなかったろうから、今より健康的な日常生活ができたわけであるーと渋沢華子は論評している。

 

渋沢栄一の晩年の日常生活と健康を東大の医学部教授が書いています。

第一は普段の仕事です。1日に15時間仕事をしていました。

第二は節制です。仕事が無理になり過度にならないようにしていました。

性格は春がすみのような笑顔で、快活に愉快に過ごしていたようです。

酒は飲まぬ、タバコは40才頃止めました。

食べ物はえり好みしない。

時間があれば経書(四書五経、「四書」とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つの書物です。 「五経」とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つを指します。を読む。

 

80代からストレッチ運動で健康を維持

 

『晩香盧(ばんこうろ)』より

1917年に渋沢氏の喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設)より贈られて洋風茶室

渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用された

 

『青淵文庫(せいえんぶんこ)』より

1925に渋沢氏の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、竜門社(渋沢氏を師として集まった学びと集団、現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈。書庫にステンドグラスや装飾タイルが彩を与えています。かつ渋沢氏の書庫として、とても堅牢(鋼鉄製書庫)に建てられています

 

渋沢氏は、王子製紙の工場を眼下にする飛鳥山に、明治121879)年、別荘を構え、内外の賓客を招く館として活用、さらに明治341901)年から亡くなる昭和61931)年までは家族と過ごす日常の生活の場にもなっていました。

その居館は「曖依村荘(あいいそんそう)」(空襲で焼失)と呼ばれ、渋沢氏も飛鳥山をこよなく愛していました。

 

「紙の博物館」では、日本における最初の紙幣について、知ることができました。

それは、「山田羽書(やまだはがき)」

山田羽書は日本最古の紙幣で、1610年頃、神都伊勢山田(現伊勢市)の町衆によって生み出され、明治時代まで約250年間に渡り、神都伊勢周辺で流通した紙幣です。

なぜ「山田羽書」が伊勢の地で生まれたのか?

伊勢のまちはその歴史的・地理的な特殊性もあって早くから商業が発達し、また御師(おんし)の信用力が大きく、信用経済的な萌芽の素地が形成されていた。

特に室町時代以降、当地は御師を中心に自治が行われ、神都伊勢の風土に培われた信用力と、自治都市運営に対する町衆の力が相まって、地域経済上、個人の手形的なものが次第に紙幣の形態を整え、独自の紙幣「山田羽書」が生み出されたのであろう。

関東の金遣いと上方の銀遣いという貴金属貨幣の使用の東西差があった江戸期、東西の結節点である伊勢では金銀貨をいずれも使用するという状況下にあり、秤量(しょうりょう)貨幣(かへい)であった丁(ちょう)(ぎん)(慶長銀)の切(きり)銀遣(ぎんづか)いが禁止になった17世紀初頭に小額銀貨の補完を主目的として預(あずかり)手形(てがた)の様式を応用・発展させる形で発生したと考えられる。

 

どうもありがとうございました~! m(_ _)m

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2022年12月28日 (水)

今年のブログ納め!?江戸時代は260年に亘って平和を維持。世界史上まれにみる安定社会でした。「徳川の平和」、別称“パクス・トクガワ”とも言われています。「徳川がつくった先進国日本」 磯田道史著を読んでみました! そして、次になぜ滅んだのかと疑問が湧いてきますネ~!(?_?)

 

試験勉強を頑張ったから!?

しばらくブログ更新ができませんでしたが、今回が今年のブログ納めになるかも!?

30日にはパソコンを修理に出すため、その後しばらく更新できないためです~(^^;

 

“パクス・ロマーナ”は約200年、

それよりも永い、

“パクス・トクガワ” 「徳川の平和」は、どうやって生まれたのか、探検してみたいと思います。

そして、なぜ滅びたのか・・・(?_?)

 

明治元年は1868

その前年に「大政奉還」、「王政復古の大号令」があり、

1868年には、江戸無血開城、そして、鳥羽伏見の戦いが1869年まで続く

一連の戦いとして「戊辰戦争」と言われた。

 

その約260年前・・・

 

1600年、天下分け目の「関ケ原の戦い」で、徳川家康が勝利する。

1603年、全大名に対する指揮権の正当性を得るために、征夷大将軍の宣下をうけ、江戸に幕府を開く。

その後も武力行使は続き、

1615年、「大阪冬の陣」、そして「大阪夏の陣」で、豊臣家を滅ぼす

1616年、徳川家康死去(享年74歳)

家康が死去した後も、幕府による諸大名の処分は続きました。二代将軍秀忠から三代家光の時代にかけて、幕府権力の安定化のために大名権力を抑圧するという基本方針は堅持されたのです。

 

まだまだ「武威」こそが、幕府権力の源泉のことでした。

まだまだ命を軽く扱う時代だったようです・・・

 

徳川の平和が本当の意味で訪れるまでには、泰平の世への「助走期間」ともいうべき時間が必要でした。江戸時代初期の約30年間(1608年~1638年)が、まさにその時期に当たると言えるでしょう。

 

それは、1637年に起きた「島原の乱」

 

同年1025、島原藩の代官林兵左衛門が、有馬村の百姓、キリシタン村民によって殺害された。

1027日、天草地方でも、キリシタンが蜂起。

島原半島と天草諸島をあわせて、住民37,000人が蜂起したとされています。

 

一揆の背景には、この地方で数年に及んだ飢饉がありました。飢饉にもかかわらず重い年貢を課した領主に対して農民の不満が爆発したのです。

この乱は、「島原・天草一揆」とも呼ばれています。

この時代はまだ戦国の気風や殺伐とした雰囲気、暴力と殺戮の習慣が社会全体に色濃く残っていました。したがって、領主権力への要求が、武装蜂起という直截なかたちをとることは珍しいことではなかったのです。

島原・天草地方では、キリシタン大名として知られる小西行長(関ケ原の戦いで西軍に付いたため、石田三成と共に処刑された。享年42歳)や有馬晴信(関ケ原の戦いでは東軍に付いたが、1612年死去 享年45歳)らの旧臣が土着して牢人となり、このキリシタン一揆の指導層になったと指摘されています。

つまり、重税に苦しむ農民層の不満と、幕藩体制下の新たな支配層として現れた現在の領主に対する牢人など旧武士層の反発が重なり、そこにキリシタンによる宗教戦争という側面が加わった結果、島原の乱は古今未曽有の大規模な一揆へと広がったのだと、考えられています。

 

125日、諸大名の軍勢からなる総勢124,000の大群をもって、翌年2月末まで、延べ4カ月に及んだ戦闘の末、ついに幕府の討伐軍は一揆勢を鎮圧。籠城していた一揆勢はすべて討ち取られました。女子供に至るまで、殺戮の対象となったのです。その数37,000人・・・

 

もっとも大きな問題となったのは、多大な犠牲者をだした島原・天草のその後です。

これだけの数の領民が一度に亡くなったのですから、島原・天草の人口は激減して農村は荒廃の一途を辿ります。これは幕府にとって大きな教訓となりました。

つまり、領民を殺戮しすぎると領地から年貢を納めてくれる農民がいなくなり、その地を治める武士たちが食えなくなるという、実にシンプルな理屈です。

島原・天草の新たな領地経営のためには、人口を増やすことが不可欠でした。

幕府は移民令を出し、近隣諸藩から島原への入植を図らねばなりませんでした。

さらに移民を促進するため、10年間領地の年貢を減免する措置も行われます。

荒廃したこの地方を再興するためには、膨大なコストを要したわけです。

島原の乱によって、幕府は支配層である武士たちは、多大な代償を払わされることになったのです。

 

「武断」から「仁政」へ

 

島原の乱をきっかけに、むき出しの武力・暴力をもって力づくで領民を従わせるということは、とてつもない代償を伴うということが身に染みて分かった支配層のなかに、「愛民思想」のようなものが広がってきます。

 

この当時の岡山藩主、池田光政は、乱の後、大洪水に襲われて家臣が動揺した時、家臣一同に対して、年貢負担者としての百姓を保護するよう言い渡しています。

 

「百姓を牛馬のように扱うのはまかりならぬ。百姓を大切にしないと反乱がおき、将軍によって領地が召し上げられて国が亡びる。」『池田光政日記』

さらに光政は家臣に対し、「乱世の忠」から「無事の忠」への意識転換を求めています。

 

戦国時代には戦働きに精を出し、主君の馬前で討ち死にするのが忠義(乱世の忠)であったが、泰平の世では領民の統治にあたる武士としてふさわしい「徳」を備えることが大事になってくる。そして、それこそが主君への忠義(無事の忠)であると。

 

島原の乱を境に、明らかに時代の潮目が変わったことは疑いのないところです。

 

その結果、「命」を尊重する(生命の尊重)という価値観が社会に根付いていきました。

 

そして、

次に、「民の生命と財産を維持する」と言う価値観と、「民を守る」という政治意識は、どのように作り上げられたのでしょうか。 

 

八代将軍徳川吉宗は、享保の改革を推進して弛緩した幕府財政・政治の引き締めをはかったことで、歴代将軍のなかでも徳川中興の祖とされます。

吉宗が将軍に就任した当時、すでに幕府財政は非常に逼迫していました。吉宗は財政再建のため、享保の改革を主導。改革の柱となったのは、緊縮財政と農業生産の向上でした。支出を削り、生産向上によって収入を増やすのが、なんといっても改革の王道です。紀元前から現代にいたるまで、財政の立て直しの方法は変わっていません。

吉宗は、緊縮財政を推し進めるために倹約の徹底を図ります。さらに税収を増やすため、二つの政策を断行しました。

 

1つは享保7年(1722年)新田開発令に基づく新田開発であり、

もう1つは年貢の増徴です。

 

検見法(検見取法)と定免法

年貢の数え方を検見法から定免法に変更しました。

検見法とは、毎年の米の収穫に合わせて、納める年貢を決めるというやり方でしたが、それを収穫量に関係なく、毎年同じ量の年貢を納めるように言い渡したのです。これによって幕府は安定した収入を得られるようになりました。

 

一方で年貢を納める農民たちにとっては、豊作であっても不作のであっても納める年貢が同じですので、前者の場合には問題がありませんが、後者の場合には大変な苦労を強いられたようです。

 

同時に、年貢率の引き上げも実行されました。それまで、幕僚の年貢率はおおむね四公六民、すなわち年貢率は40%でしたが、享保12年(1727年)を境に、五公五民へと10%のアップが図られました。

 

その結果、幕僚の年貢総額は、享保元年(1716年)から享保11年(1726年)までは年平均140万石だったのが、享保12年(1727年)から元文元年(1736年)までは156万石となりました。年平均で16万石も増加。

吉宗は米を中心として財政を回復させようとしたことから米将軍の異名をとっています。

江戸の三大改革の中で、一番効力を発揮したのはこの「享保の改革」

しかし、一方では吉宗政権が行った強引な年貢増徴は庶民の不満を増大させ、百姓一揆が頻発する事態を招いてしまいます。こうした動きは、幕府統治を不安定化させるマイナス要因ともなりました。

 

こうした幕府の在り方に根本的な転換をもたらしたのが、天明3年(1783年)に起きた浅間山の大噴火です。

天候不順による凶作が各地で頻発し、関東では春先から雨がちの天気が続いて6月になっても冬物の衣類を着て過ごすほどだったと言われます。

噴火の影響は関東地方に収まらず、東北地方にまで及びます。噴火によって吹き上げられた火山灰は成層圏に達し、太陽の照射を妨げることで気温の低下を招き、各地に冷害をもたらしました。

さらに、オホーツク海高気圧から吹き付ける「やませ(冷たく湿った北東風)」によう冷害が東北地方を襲ったことでした。

「天明の飢饉」と呼ばれる、空前ともいうべき大惨事はこうして起こってしまったのです。

「天明の飢饉」は、天明3秋の冷害による大凶作を発端とし、翌年にかけて大量の餓死者を出してしまった東北地方を中心とする飢饉のことを指します。

 

江戸時代には全国的な飢饉が 35回あったといわれていますが、その中でも三大飢饉といえば、「享保の飢饉(1732年)」「天明の飢饉(17831787年)」「天保の飢饉(18361837年)」をさしますが、なかでもこの「天明の飢饉」は、被害の大きさ、そして社会的・政治的な影響力からいっても、最大の飢饉だったといっていいでしょう。

 

享保以降、幕府は6年ごとに全国の武家人口を除く人口調査を行っていましたが、その記録によれば、天明の飢饉前の安永9年(1780年)と、飢饉後の天明6年(1786年)の人口を比較してみると、実に92万人余りもの人口減少が起きていることが分かります。そして、その6年後の寛政4年(1792年)には、さらに19万人余りの減少が見られます。このことから、「天明の飢饉」の死者は、全国で100万人以上に上るとの推計がなされています。

 

思えば江戸時代というのは常に飢饉との戦いであり、飢饉による打撃からいかに立ち直るかという繰り返しの時代でもありました。

飢饉→一揆→打ちこわしという一連の連鎖をどう止めるかが大きな課題だったのですが、それはきわめて難しいことでした。

なぜなら、その背景にあるのは、米中心の農業構造です。当時の日本は小さな島国に3千万人の人口を養う、高度に発達した米作社会でした。国土の約7割が山である日本では、大規模農業経営はそもそも少なく、限られた農地を精一杯使って生産される農作物に国民経済が依存していました。

いったん大規模な自然災害が起きれば農業は大打撃を受け、たちまち国民の経済生活は危機に瀕することになってします。当時の日本経済は、災害に最も弱い経済体制だったとも言えるのです。

その脆弱な社会構造に、浅間山噴火と冷害という気候変動が直撃したことから、「天明の飢饉」は起こってしまいました。

しかし、支配層も民衆も、この危機からいくつかの教訓を学びとっていきます。

その一つは、米に依存しすぎる経済体制には限界があるという教訓です。

 

1792年、ロシアから来た使節ラスクマン。根室に来航したラスクマンは、通商関係樹立の交渉のために江戸へ赴きたいと要求してきました。

時の老中松平定信は、将軍のお膝元である江戸が大混乱となるばかりか、幕府の権威自体が大きく損なわれることを危惧しました。そこで、定信は、松前に滞在するラスクマン対し、日本の国法を教え諭す意味の「国法書」を手渡します。そこには、「通信なき異国の船が日本の地に来るときは、召し捕るか、海上にて打ち払うのがいにしえよりの国法である」と記してありました。すなわち、幕府はラスクマンの通商要求を拒絶するかわりとして長崎への入港許可証(信牌)を与え、希望するなら長崎での交渉も可能であることを示唆しました。

 

ラスクマンの帰国から12年後の18049月、かつて幕府がラスクマンに与えた入港許可証を携えたロシア使節団が長崎に現れました。ロシア皇帝から派遣されたニコライ・レザノフの一行です。

 

松平定信は学問好きで外国事情にも詳しく、西洋文明の何たるかを知っている当時としてめずらしい人材でしたが、すでに老中首座から降ろされていました。

対応に悩んだ幕府は、レザノフへの回答をずるずると引き延ばし、ようやく幕府からの回答がレザノフのもとに届いたのは半年後。レザノフに手渡された「教諭書」は、次のような内容でした。

「我が国は中国、朝鮮、琉球、オランダと往来しているが、その他の国とは通信・通商しないのが国是である」

 

半年以上も幽閉さながらの状態に置かれたあげく、手ひどい仕打ちを受けたことに激しく憤り、日本への報復を計画します。

18069月、レザノフは樺太南部の松前藩の施設を襲撃しました。

この事件は鎌倉時代の蒙古襲来、すなわち「元寇」以来の対外危機ということから、「露寇」事件(文化露寇)と呼ばれています。

さらに翌18074月、ロシア軍艦2隻が択捉島に出現し、幕府の警備施設を襲撃します。ここでも水や食料を奪って建物に火を放つなどの狼藉の限りを尽くしました。

 

露寇事件は、結果として開国か鎖国かの議論も活発にさせました。杉田玄白や大槻玄沢といった蘭学者、つまり海外の事情に通じた開明派の人びとは、通商容認の開国論を唱えるようになります。彼らはおおむね、大国ロシアと戦っても勝ち目はないから通商を開いた方がいいという考えでした。対して、国学者の平田篤胤らはロシアを仮想敵国とみなし、断固ロシアと戦うべき立場です。平田国学は、尊王攘夷思想の形成にも大きな影響を与え、明治維新へと進んでゆく思想的な土壌を準備したとされていますが、その篤胤が国学を志すきっかけとなったものーそれが、この露寇事件だったとも言われています。隣国が強くなり、自国に迫ってくると、にわかに愛国心が高まるのは、古今東西、よくみられます。

ロシア船による度重なる襲撃によって、開国論と鎖国論がせめぎあうという、のちの幕末の議論を先取りするような状況がこのときに起きていました。そうした中、幕府は自らの面目を保つために、「鎖国」に傾いていくのです。

 

この時、蝦夷地を統括する松前奉行は「ロシアなど恐れるに足りぬというのは潔く聞こえるが、民命に関わる浅見である」と上申しています。

 

一方、ロシアでは、襲撃の首謀者たちは皇帝の許可を待たずに独断で行動したとして、サハリンで投獄されていました。事件の発端をつくったレザノフは1807年、択捉襲撃が行われたころにはすでに、サンクトペテルブルクに受け手のシベリア横断中に病死。

ロシア船が再び襲撃してくる可能性は無くなっていました。

 

日露戦争のほぼ100年前、「第ゼロ次日露戦争」、「幻の日露戦争」が存在するのです。

 

幕府は、この一連の紛争を通じて対外的危機への備えを固めるようになり、海防体制の強化に乗り出していきます。こうした国防意識の高まりが、結果として、江戸時代後期の繁栄を持続させることにつながったとみることが出来るでしょう。

また、徳川200年の歴史がつくりあげてきた、民の生命財産を尊重する価値観が、文化文政期の都市文化の爛熟につながっていきました。

われわれが時代劇で見る江戸時代は、主に天保(183044年)以後の姿です。

 

露寇事件をきっかけに再認識された「民の生命と財産を維持する」と言う価値観と、「民を守る」という政治意識となります。

 

露寇事件のおよそ50年後、日本は黒船来航、すなわちペリーによる強制的な開国を迎えますが、ロシアとの対外危機を経験したことは、幕府にとって外国の脅威に対する予行演習、いわばワクチン接種のような働きをもたらしました。この経験があったからこそ、まがりなりにも幕末の黒船を迎える心の準備ができたんです。

 

本書の最後には、

渡辺崋山(1793-1841)の言葉に「眼前の繰り回しに100年の計を忘れるなかれ」と言うのがあります。目の前を繰り回すために100年のはかりごとを忘れてしまっては、大きな禍根を残すことになるという意味の警句です。

目の前の問題が大変だからと言っても、100年の計、すなわち長期的な視点を失わないようにしなければなりません。それが、幾多の危険を乗り越えてきた江戸時代の人びとの生き方から学びとることができる、最大・最高の教訓だからです。

 

とありましたが、では、なぜパクス・トクガワが滅びたのか!?

この辺りが、分かりませんでした・・・

100年の計を忘れたのか!?

どうも『50年の計を忘れた』ためのようですネ~!

次は、この辺りを探ってみようと思いますが、今の日本に似ているように感じています!!

 

m(_ _)m

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2022年6月24日 (金)

『魂の変革者 吉田松陰の言葉』 (童門冬二著)を読んで。学んだことは、机上で終わらせず、全て実行に移す行動力。そして、僕は師ではない。君たちと同等の学ぶ学徒だと“学僕”の立場を貫いた「吉田松陰」その生涯は29年・・・

 

吉田 松陰(文政1384日〈1830920日〉 - 安政61027日〈18591121日〉、享年満29歳)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾(その運営は2年に満たない)」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。

 

12歳のときにすでに藩公の前で漢学を講義している。普通の人のやることの前倒し人生であった。

 

松陰が生涯座右に置いていた本は『孟子』である。

孟子の主要テーマである「忍びざる心、他人の不幸や悲しみに目をつぶれない。見るに忍びない。なんとかしたい」ということを重んじたのであろう。

そして、情熱家であり、「生涯学習を貫いた努力人」

 

松陰は24歳のときに、海外を学ぶために渡航を企てて失敗、以降牢獄生活が多くなるわけですが、「牢獄内で学ぶ意義」として、

「僕は忠義をなすつもり、(他のものは功業をなすつもりなのだ)。どんなに激しい荒波に襲われようと、それを乗り越えるのが真の忠義なのだ」

「絶望時の読書こそ真の読書だ」あくまでも二度と日の目は見られない、ということをしっかりと腹に据えての読書である。「朝に道聞けば、夕べに死んでも後悔しない」へと繋がる。

 

孟子には有名な「性善説」がある。それは、「人間には“忍びざるの心”があるからだ」と説明する。

この人の不幸を見逃しにできない心は、さらに仁義礼智の四端に繋がっていくという。忍びないということは、つまり、惻隠(他人の不幸を痛ましく思う気持ち)のことだ。よく「惻隠の情」といわれる、「他人への思いやりの気持ち」のことだ。

あわれみの心がないものは、人間ではない。悪を恥じ憎む心のないものは人間ではない。譲りあう心のないものは人間ではない。善し悪しを見分ける心のないものは人間ではない。あわれみの心は仁の芽生え(萌芽)であり、悪を恥じ憎む心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見分ける心は智の芽生えである。人間にはこの4つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど4本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。

だから人間たるもの、生れるときから自分に具わっているこの心の4つの芽生えを育て上げて、立派なものにしたいものだと自ら覚れば、ちょうど火がつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがては大火となり、大河ともなるようにいくらでも大きくなるものだ。

 

 

「政治家よ、民の父母となれ」

先に実践したのが、江戸中期に名君と言われた米沢藩主上杉鷹山。鷹山は学師として細井平洲に学んだが、平洲は常に、「民の父母になってください」と頼み続けた。鷹山の改革の成功はすべて、

「民の立場に立ってその喜怒哀楽を考え、どうすればいいか親の気持ちになって行おう」という信念を貫いたからである。

松陰上杉鷹山、そして師として招いた細井平洲先生を尊信された態度に共感をしている。

 

「人を疑ってだますより、信じてだまされろ」

「騙されてもいい、自分は人間を信じる」

日本の歴史でも、源頼朝が弟の範頼や義経を信じて兵を任せたときに、これが成功して平家を滅亡させることが出来た。あるいは木曾義仲を倒すことができた。ところが後に頼朝は弟たちを疑った。特に義経を疑った。しかしそれが災いして、結局は源氏の将軍家は3代で滅び、家臣であった北条家に政権を奪われてしまったのである。

 

人の道については、古代の聖人(孔子)賢者(孟子)が説き尽くし、行い尽くしている。いまの学者がいっていることは、ほとんど聖賢の書物を見て口真似をするだけだ。別に、聖賢を超えるような新しい発見や見識があるわけではない。そう考えれば、いま師と呼ばれる人物も、弟と呼ばれる存在も、ともに「聖賢の門徒」といってよくて、立場は同じである。

松下村塾において吉田松陰はこの説を実行した。彼はいつも、自分のことを「僕」と称していた。これは、「学問の僕、すなわち学僕」のことだろう。だから、「僕は君たちの師ではない。同じ学友だ。共に学ぼう」と告げていた。

 

人を動かすのは「至誠」の二字だ

人の心は目を見ればわかる

 

当時において、学問における「帰納法」「演繹法」も語られていた

 

「あの名執権といわれた北条時頼でさえ、一日蓮を制することができなかった」と言う。

鎌倉の辻に立って、反対者から石を投げられて、肉体のあちこちを傷つけられ、血を流しながら辻説法をやめなかった日蓮の雄姿に、松陰は自分の姿を重ねたのかもしれない。

 

ものごとの道理を悟ったときは、それを友人同士お互いに確かめあうべきで、これは必ずできることでしょう。ですから、そういうことに1人沈黙を守るという人は、自分で得たことを他人に語るほどのものでないという場合か、あるいは相手を語るに足りない人物だと軽視していることになります。

少しでも語ることがあれば、どんな人にたいしても一緒に話し合うべきです。まして同学の友人なら、なおさらのことです。

「それぞれが、自分を常に高く評価し、謙虚に生きなさい」

この言葉は一見矛盾に見えるが矛盾ではない。

「不易流行」

不易とは、どんなに世の中が変わろうと、絶対に変わらないもの、あるいは変えてはいけないもの」をいう。

流行とは、めまぐるしく変化する社会状況に適確に対応していくこと」だ。

これも一見矛盾する二つの事柄を「同根」であると言った。

不易とは、

「自分が学び得て、これだけは絶対に大切だと思うことはどんなときでも譲ってはならない」という非妥協の精神

「そうはいっても、社会は目まぐるしく変化する。その変化に全く対応しないようでは、完全に時代に取り残されてしまう」

“不易”と言うのは「自分に対する自信」、そして“流行”というのは「ある面においては、妥協し協調していく」という柔軟性のある生き方である。

 

ありがとうございました!

 

m(_ _)m

 

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2022年6月 6日 (月)

戦後『反省をせねば』と執筆活動を止められた後の最初の著書で1948年9月から1949年3月まで読売新聞に連載された生涯キリシタン大名の『高山右近』(吉川英治著)を読んでみたが、途中で執筆を中断し再開することの無かった作品でしたねえ~!

 

高山右近(1552年~161523日)キリシタン大名。

キリスト教を禁教とし激動する時代の波に翻弄され続けたかにみえるその生涯、しかし、右近自身は、確固とした信仰者へと成長し、それを生き抜いた人であった。

黒田官兵衛(孝高)、細川ガラシャがキリスト教信者になる影響も与えた。

 

1598秀吉逝去後、黒田官兵衛は関ヶ原の戦い1600年)で徳川家康に付くも1604に逝去(享年57歳)。高山右近はその後も生きましたが、1612年の徳川家康による「大禁教令」により、日本国外マニラに追放となっていますが、最期まで信仰を捨てなかった確固とした信仰の人でした。

 

徳川幕府の「大禁教令」のもと、高山右近は、1614118日、長崎を出帆。小型の老朽船に100名以上がつめこまれて、多すぎる乗員。暴風・逆風に悩まされ、普通の船で、順風ならば10日ほどで行けるところを、実に34日もかかって、フィリピンのマニラに到着します。右近たちが、信仰ゆえに、祖国を追放されてくるという話は、すでに伝えられていましたので、総督のファン・デ・シルバをはじめ、市民たちは、一行を敬意をもって、大歓迎しました。 右近たち一行は、上陸後、総督官邸に入り、丁重な歓迎を受けます。その後、護衛兵付きの総督の馬車で宿舎に向かう途中、マニラ大聖堂と、サン・オーガスチン教会で馬車を降り、祈りをささげました。

真冬の金沢を捕われの姿で出発し、雪でおおわれた険しい山々を越え、常に不自由で欠乏の長崎までの旅。

つづく狭い船での、長くて苦しい航海。肉体的には、右近は限界に来ていたようです。

マニラに到着後、40日ほどで、ひどい熱病にかかります。モレホン神父や、若い5人の孫たち、遺された者たちに対する、別れの言葉・遺言は感動的です。数日後、病状は悪化し、「わが魂(アニマ)は、天地万物の御(ご)作者なる御(おん)主を、ひたすら慕い奉る。」と、繰り返し、主イエス・キリストの御(み)名をとなえながら、161523日未明、静かに天に召されていきました。63歳。洗礼を受けてから、50年の生涯でした。

 

「髙山右近は誠に思慮深く、かつ傑出した人物である。その人となりは勇敢無双、教養あり、また廉直である。」(前田利家)

「明晰な知性を持ち、稀に見る天賦の才能ある青年で、ミヤコ地方全キリシタンの柱石である。」(宣教師フロイス)

 

さて、次は、講談社吉川英治文庫所収の文庫本「高山右近」の表紙に書かれていた内容紹介である。

 

「高山右近」は著者にとって戦後の沈黙を破る最初の新聞小説であった。

大衆文壇の大御所が数百万の読者のまえにどういう題材を出すのか、緊張と期待が大きかった。

当時(昭和23年)の日本の世相を想うとき、高山右近は歴史の睡りから呼び醒ますべき人物であった。

切支丹大名として異端視された右近を見直すときは来ていた。開巻第一、著者は16歳の右近を登場さす。しかも戦国の世では破格の“自由都市“堺において、雄渾な序曲である。

永禄11年、畿内では三好一党の時代は終わり、代わった松永久秀も安定政権ではなかった。前年美濃の斎藤龍興を倒した織田信長が京師にまで勢威を張ってきた。わけて木下籐吉郎は、その尖兵である。

掌(たなごころ)をさすような時代描写は圧巻であるが、「高山右近」の執筆動機のひとつは、戦後の乱脈な男女関係にあったようである。右近の若く未熟な心もまた、清純な町娘お由利と爛熟した歌い妓のおもんの間で激しく動揺し暴走する。

 

この小説(物語)は、高山右近の16歳から19歳までの青春の恋を描いています。

右近は12歳で、すでに洗礼を受けていてキリシタンではあったのですが、それよりもこの時代を放浪徘徊していた一人の青年像として描かれている。

巻末の吉田満氏の「解説」によると、この小説は未完であったという。

井伏鱒二へ語ったところでは「右近の続きは書かないかもしれぬ。キリシタンものを書くのは厄介だからね。」という。

当時、“高山右近を聖人に”ということで、列聖運動が取り組まれている時期でした。

運動を進めていた神父から、強い抗議が 繰り返されたようで、高山右近に関する史料を持ってきて、 「参考にしてください。」 というわけです。

 「よく分からない日本語で、半日以上も座り込まれて、談議を聞かされるのは、たまらないよ。まったく、厄介だ。こういう人たちが多くては、作家は書けない。僕も、あれは、中途でやめてしまった。」

 

また、元より、高山右近の若き日の姿・21歳で高槻城主となる頃までのことは、ほとんど記録がないわけですので、高山右近が高山右近になる前の「物語」ということになると思います。

 

その中でも、戦後の反省を踏まえて、平和への強い思いを感じることはできました!

 

右近の父の友人、細川藤孝がくれた「新古今和歌集」

この書が編まれた後鳥羽上皇の頃も、世は決して泰平ではなかった。今にもまさる戦乱と闇黒がつづき、その常闇を、西行法師は、ああいう風に、寂蓮や藤原定家なども、歌詠みとして、生き抜いた。

少なくとも、生命を愛し、自然を愛し、人間らしく。それと、もう一つのことは。

右近自身が、この国の、四季とりどりな、自然の美と、自然の情とを、いつか心にうつし、眼に観ることを、それを生活にもつことを、教えられていたことだった。

 

千宗易の言葉

「個人の場合で言えば、先行き、何が起こるかしれぬ長い暗闇道中に丸腰でいくがいいか、一腰差して歩くべきか、ということになりますな。わたくしならば、丸腰で参ります。なぜならば、いざ、腰の一刀に、ものを云わせる必要が起こったとすると、相手は必ず、武力にかけては、私以上、強いに違いないからです。

丸裸、丸腰、無防備。こうお考えになるから、不安にとらわれます。が、元々、武の真髄は、愛でなければ、最後の勝利に到らないものです。武力の目的は、武力なき人間世界を作ることにありましょう。武門の世界は、すべて興亡です、輪廻です。今日勝つも、明日は分かりません。勝利の翌日から、もう一歩一歩、滅亡へ突き進んでいるやも知れぬ儚さのものです。剣の極致というものを、剣の達人に聞きますと、一致して申します。剣の極意は“無刀”なりと。ただ、無刀の身は、無刀の心に、また謙虚と、誠意と、中道の理性に、よく徹しなければなりませんな。そこにも安心できなければ、今の世では、人間をやめるか、山の中で仙人にでもなる修行をするしかありますまい。」

 

右近の言葉

「悪事をする者の心底には、自分の生命を粗雑にする考え方が潜んでいます。自分の生命に心から愛をもつのが、ほかの生命をも愛する心の始まりだと思います」

 

宣教師ロレンソについて、「かれは、楽しいのだ。困難そのものが、である」

 

平家物語は、一時代の地上の縮図だ。この国の風土のにおいがあり、その中の人間の本質がある。過去と後世とにもつながる運命観、栄華や名利のはかなさ。また、人間葛藤のおろかしさ。おろかしさにもかかわらず、この修羅の業から抜けられない人間宿命の姿が、絵巻か詩のように、そくそくと人にものを思わせる。

 

物語自体は中途半端を禁じえませんが、吉川氏の平和への希求は感じることができたこと、そして、その後の超大作「新・平家物語」への布石のようにも感じました。

 

 

ありがとうございました!

m(_ _)m

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2022年5月16日 (月)

昭和18年、日本がミッドウェー海戦で敗北し、ガダルカナルで大敗、アッツ島玉砕、連合艦隊司令長官山本五十六氏戦死と日本の敗戦が分かる人には分かる頃の吉川英治氏51歳のときの作品「黒田如水」を読んでみた!

 

吉川英治氏は、敗戦(昭和20年、1945年)の後、その衝撃から約2年間、筆を執ることができなくなってしまった(“反省しなくてはいけない。まず僕自身が反省しなくてはならない”とも話したと言われています)、とあるので、戦前の昭和18「黒田如水」(以下、官兵衛)執筆時においては、まだ敗戦することに気づかれてはいなかったのかもしれません。

この物語自体も、戦国時代という戦乱の世の中、人ひとりではどうすることもできない時代であり、戦争の悲惨なこと(官兵衛自らの土牢への幽閉、信長の荒木村重一族への処分など)は伝えつつも、戦争を否定的に説明されているところを感じることはありませんでした。

“やむを得ない”、という考え方の頃だったのかもしれません

 

黒田官兵衛1546年~1604年(享年58歳、病死))の生涯において、一番輝きを放っている時期、29歳(1575年)~35歳(1581年)までの物語となっていました。

 

この時期は、竹中半兵衛1544年~1579年(享年35歳、病死(結核)))と親交が深まり、豊臣秀吉1537年~1598年(享年61歳))との信頼関係が一番深かった時期にもなります。

この三人で一席を設けたときの、半兵衛の官兵衛への言葉

 与君一夕話(君といっせき話(わ))

 勝読十年読(読むに勝る、十年の書)

 意味は、「十年かけて、勉強したり、読んだ書より、君と一晩語り尽くした方がずっとよい」

 

そんな人になれたら凄いですが、とっても難しいことだと思いましたヨ!

 

翌年1582年に「本能寺の変」が起こり、この時、官兵衛は「これで殿(秀吉)のご運が開けましたな」と信長の死を悼むよりも先に耳元で囁いたということで、「油断ならない奴」と秀吉を恐れさせたと言われています。

その後、秀吉は官兵衛に対して、警戒心を強めていくことになります。

 

葉室麟氏の「解説」より

どう生きたらいいのか・・・

 

戦に明け暮れる動乱の世にあって、黒田官兵衛は自らの信念により、織田方についた。

織田家の羽柴秀吉のもとで竹中半兵衛とともに智謀をめぐらしながら、人間的な側面を失わずに活躍していく。

戦争賛美ではないと思う。戦争という自らの力がおよばぬ歴史の激動に巻き込まれた人間の苦悩。

だからこそ、運命の転変の中でどう生きていけばいいのか、という問いかけが、物語の中に込められている。

幽閉され、死を思うまでに追い詰められた官兵衛は、ふと牢獄の高窓に藤蔓(づる)が伸びているのに気づく。

そして、ある朝、紫の藤の花を見て感動する。それは『死ぬな』という天の啓示だと受け止める。

それは戦の無い世を告げる瑞兆(良い事が起こる前兆。吉兆。吉事の前兆を示唆するとされる)だったのかもしれない。朝の光の中で輝くばかりに美しい藤の花には、戦争が終わり、だれもが自由に生きることが出来る時代への期待が込められていた気がする。

それは、平和への祈りと呼んでも差し支えないとわたしは思う。

 

 

戦後2年間、執筆活動を止められた後、最初に書かれた本が『高山右近』(1949年)、どんな心境で書かれているのか興味が湧きましたので、ぜひ読んでみたいと思います!

 

ほかにも興味が湧いた人物として、

宇喜多(浮田)直家P169179)。こちらは、垣根涼介氏の著書「涅槃」で読んでみたい!

山中鹿之助幸盛P142148P177-8)。こちらは、城山三郎氏が男っぷりの良さを褒められていた人物ですが、戦国の世、若干39歳で亡くなられていたのですね。

 

 

どうもありがとうございました~!

m(_ _)m

 

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2022年4月23日 (土)

「真田幸村」を書いた本を読んでみようと思うと長編が多く、池波正太郎氏の「真田太平記」は単行本で18巻まであったというから驚きです。なんとか1冊にまとめた文庫本「真田信繁(幸村)」野中信二著を見つけて、読んでみた!

 

それでも400頁の文庫本でした・・・(^^;

秀吉による北条氏が滅亡する小田原攻めの1590年から、幸村が討死する大阪夏の陣の1615年までの約25年間を書かれていました。

これが山川出版の日本史の教科書ではナ・ナ・ナント1頁に収まってしまっていました!

当然に真田幸村どころか、「真田」という文字も出てきません・・・

学校の勉強では、内容が淡白となり、歴史に興味を持つことは、なかなか厳しいかもしれませんネ~。

 

自分自身も高校時代は、歴史に対する興味は希薄だったと思います。だから、理系だったのでしょう。

どうして興味を持ったのか・・・大学に入って、本を読むことが面白く感じられたからかもです。

本を1冊読むと、その中で次に読みたくなる本が書かれていたり、本の中に共感を覚えた人物に関する本を読んでみたくなったり、そうこうしているうちに、歴史を辿るようにもなったと思いました。

詳しいわけではありませんが・・・(^^;

 

この物語の主人公は真田信繁(以下、幸村)1569年~16156月 最期は大阪夏の陣で討死 享年46歳)

 

真田家を辿ると幸村の祖父 真田幸綱(晩年は幸隆と改名、1513年~1574年、享年61歳)となり、風林火山で有名な武田信玄152112月~15735月 享年51歳)の“武田24将”の1人でした。

そして、幸村の父 真田昌幸1546年~1611年 享年65歳)も戦国時代きっての知将と言われて、武田家に仕えていましたが、武田信玄1573年に健康には気をつけていた(温泉健康法、丹田健康法など)が、周りにも気を使い過ぎたのか、ここは戦国の世、疲れも多く、肺結核(あるいは胃癌)と言われているが病死する。

その後、信玄の息子武田勝頼1546年~1582年、享年36歳)が後を継ぐが、ここは戦国の世、織田信長に攻められ、1582年、武田勝頼、そして、その息子信勝1567年~1582年、享年15歳)と共に自害。甲斐の武田家は滅びることとなった。

 

この中で真田家は生き延びた・・・・ココ大事ですよネ。

幸村の父 真田昌幸は偉いと思いました!

武田家の中で、祖父は武田24将の1人でしたが、この時は亡くなられており、昌幸は勝頼と同じ歳であり、家臣としては中間管理職レベルであったのでしょう。生き延びる結果となった!

 

その後、真田家は生き延びるために、上杉家に付いたり、その後は豊臣家の家臣となる!

 

ここで徳川家康と共に家臣となるわけですが、昌幸はどうも陰気な家康とは肌が合わなかった。陽気な秀吉の方が好きであった、とのこと。

ここが、つねに父昌幸のそばにいた幸村が、最後に生き延びることを選択しなかった一因かもしれないと思いました。

そして、

1590年、秀吉、家康と共に小田原攻め(北条家滅亡)

本の物語はここに至る少し前から始まっています。

 

昌幸「秀吉公は城攻めの名人だ。さすがの北条も内部から斬り壊されてゆく。上に立つ者が時代の流れを読めないと、滅ぼされる見本だ。幸村、お前も心してよく見ておけ。家が滅亡する時は内から腐ってくるのだ。」

 

この年、昌幸の長男信幸は、徳川家康四天王の1人、本多忠勝の娘を正室に迎えた。

家康は、信幸を父の昌幸と比べて真面目で扱い易いと観察していた。

そして、次男幸村は、秀吉に可愛がられており、秀吉の信頼が厚い重臣、大谷吉継の娘を正室に迎えた。(九度山配流中の1604年頃、秀吉の姉の子、秀次の娘も側室へ迎え入れている)

 

その後、秀吉は二度の朝鮮出兵などで無理がたたり、この頃より急に体力の衰えが目立つようになり、北条家滅亡より8年後の1598年に秀吉は死去した。享年61歳。

ついに、

1600年、関ケ原の戦い

ここで、昌幸は真田家を残すことを最優先に考え、どちらが勝っても残る作戦。

兄 信幸は家康の東軍へ

父 昌幸は、幸村と共に、石田三成の西軍に付いた。

結果は東軍の勝利。大谷吉継も西軍であり、関ケ原の戦いで散っている。

 

兄 信幸が真田家を残す結果となった。

 

昌幸と幸村は助命嘆願が認められ、和歌山県北部にある九度山へ配流となった。

しかし、配流期間は長く、

その間の1611年、父昌幸は病死。享年65

 

その後、幸村は息子大助(1600年~1615)と共に、豊臣秀頼(1593年~1615)、秀頼の母 淀殿(1569年~1615、秀吉の側室)、秀頼の息子国松(1608年~1615)のいる大阪城に入場。

 

そして、徳川勢との決戦

1614年、大阪冬の陣

この戦いで和睦をするが、次に闘えば勝ち目が無い(大阪城は和睦の約束として一部取り壊された)と分かっていたのに、なぜ戦ったのか!?

「逃げるは恥だが役に立つ」ではないのか!?禅の哲学、乞食をしてでも生きるではないのか!?

プライドが邪魔をするのか!? そして、最終決戦へ

1615年、大阪夏の陣幸村討死。享年46

息子大助、豊臣秀頼、淀殿、秀頼の息子国松は助命認められずに処刑となり、豊臣家は滅びた。

 

大阪冬の陣、夏の陣では病気のため出陣ができなかった、真田家の兄 信幸、この頃より病気がちでありながら、ナ・ナ・ナント92歳まで生きられ、その後の江戸時代において、藩主も勤められて真田家を引き継がれた(1566年~1658年 享年ナント92歳)

 

幸村よりも、生き延びることを選んだ、信幸に共感しましたとさ!!

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

 

 

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2022年1月 6日 (木)

読書初め!ブックオフでゲット!2014年初版刊行の『勝ち上がりの条件(軍師・参謀の作法)』、おそらく2014年の大河ドラマが「軍師官兵衛」でしたので、それに乗じたものと思いますが、半藤一利氏、磯田道史氏の共著、構成石田陽子氏は、とても面白そうと思いましたので、読んでみた!

 

参謀に必要な能力

参謀には三つの能力、知識と発想力と洞察力とが必要。しかもそれぞれ常人以上のレベルで。

まずは知識。知識量は必要です。知識を得るためには好奇心と、それを蓄積する記憶力も必要となります。

参謀には、さまざまな領域の情報を根こそぎ集めて、しかも記憶していることが求められる。これを合わせて「知識」ということになるわけです。

知識のピースを結びつけて、大事な何かを発見できるかどうか。これが洞察力です。

ひとつ例を挙げるならこういうことです。

例えば戦争が始まるときには大量の輸血用血液の売買をやっている会社にこっそりある国の人たちが通い詰めて契約しているのを知った時、この国が開戦準備をしている可能性がある、と。そういうことに気づく力、これが洞察力なのです。

微細な情報から大きな動きをすぐに認識できる力。じつはこれを持っている人が存外少ない。知識量を誇る人間の数に比べて、はるかに少ない。

「桐一葉落ちて天下の秋を知る」(中国の故事、桐一葉は誰にも見える。けれど枝を離れた瞬間に秋が来ると気づく人は少ない)と言いますが、それが難しい。

さらには洞察ができただけでもまだ足りなくて、過去に誰も思いついていない戦い方を、発想できなくてはいけません。

アイデアです。存在していないものを見つけて、存在し得ないような結果をもたらす発想力。秋山真之はこれを全部持っていました。

日本海海戦はこういうかたちになるだろうと洞察し、卓越したイマジネーションで独自の戦略を発想した。機動性が重要と気づいて信号ひとつ、旗ひとつで明解な指示が行き渡るようなアイデアを生み出した。

しかも日露戦争以前に「空軍万能の時代になる」と、つぎの太平洋戦争の様相を、あたかも見てきたように語っていたのは、常人の域をはるかに超越していたと、言わざるを得ません。

井上成美が「もう日本海海戦のような艦隊決戦はない。航空基地争奪の戦いになる」といった、対米戦争の30年ほども前に、それを断言しているのですから、恐れ入るしかないですね。

 

この中で優先順位をつけるとすれば、一番簡単なのは知識量でしょう。努力すれば獲得できる。発想力も、場合によっては当てずっぽうでも構わないからさほど難しくはない。一番難しいのは洞察力でしょう。

思い返してみると優秀な作家と言うのは、坂口安吾さんにしろ、松本清張さんにしろ、司馬遼太郎さんもそうでしたが、みんな洞察力に凄みがありました。例えば、226事件の資料を持っていくと、清張さん、パッパッパッと見ながら、「大事なのはここだね」とすぐさま指摘しました。その指摘がことごとく当たっていて、まず例外なく大事なポイントでした。「やっぱり清張さんは凄いなあ」と思いましたね。

洞察力を得るためには、坂口安吾氏「資料を読んで歴史がわかったつもりになってはいけない。たくさんの資料を読み比べて、それらのあいだに何があるか、隠されたものはないかを考えろ。そうした思考からしか歴史的真実というのは浮かび上がってこない」

横井小楠氏「学問を致すに、知ると合点とは異なる。読後に本からの知識を一度なげうち、脳がちぎれるほど思考せよ」

 

これらが備われば『大局観』がつき、願望と現実を見極める力がつくとネ!

 

一方で、大将というものは使える人物を知っていればいいのです。よしんば大局観が無くても構わない。人事こそが大将の仕事です。この人に任せて大丈夫かどうかをじっくり考えて、任せると決めた以上は任せる。昔から「人事と金を握れば天下は取れる」とも言います。

 

成功率の高い改革法。それは、屋台骨はそのままに、別館を建てよ(アネックス方式)

変われない日本型組織を変えるためには、別館を建てて併存させる。新旧併存となれば、コストの節約にはならないが、新しいことを根付かせる最も賢い方法。これを勝海舟は実行した。

 

本書に出てきた印象に残った名参謀は、

小早川隆景:大局観に秀でた名参謀(P45

黒田官兵衛:願望と現実を見極められた名参謀(P50

真田昌幸(父)、真田幸村(次男):大局観に秀でた人物(P57

豊臣秀吉:参謀と言うよりも、大将として、人を見る目があった(P61

本田正信:家康の頭脳(P98

松平信綱:徳川幕府を磐石とした(P107

勝海舟:オールジャパンの海軍を造った(P130

大村益次郎:屈指の天才(P154

山県有朋:戦に弱く、計数に強い実務タイプの参謀。しかし、異常なほど私腹を肥やした(P162

川上操六:大秀才、陸軍の至宝(P208

伊地知正治:天才肌の参謀(P208

秋山真之:明治の天才参謀(P234

児玉源太郎:破格のカリスマ参謀(P239

 

 

大河ドラマ「軍師官兵衛」の時流に合わせて『勝ち上がりの条件(軍師・参謀の作法)』としていますが、『半藤一利氏+礒田道史氏 日本の歴代“参謀”を語る』でよいと思いましたヨ!!

 

 

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

 

 

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2021年12月30日 (木)

司馬遼太郎ファンの作家たち半藤一利氏、磯田道史氏たちが「司馬遼太郎 リーダーの条件」という本の中で、司馬遼太郎の本、どれが好き!?それは「坂の上の雲」と感じました。そして、幻の第9巻を書いて欲しかったと・・・そこで、最終巻第8巻(だけ)を読んでみた~!


半藤さんは司馬さんがご存命のころ、よく申し上げたのは、「坂の上の雲」は一巻たりないのではありませんか、ということを。

この作品は文庫版で八巻(単行本で6巻)ありますが、あと一巻分、書くべきことがあるのではないか、と思うのです。

なぜかというと、日露戦争まではあれだけ輝いていた登場人物たちが、戦争がおわったとたん、みんな悪くなってしまう。

彼らは勲章や爵位のため、歴史の改竄をはじめました。司馬さんも「あとがき」のなかでそのことに触れ、日露戦争後の日本、とくに陸軍は「リアリズムを失った」と書いています。

 

彼らは明治40年(1907年)にそろって爵位をもらい、東郷さんなどは、二階級特進で、いきなり伯爵になった。

東郷さんにはそれなりの勲功があるからまだいいとして、たとえば第三軍、乃木希典の参謀長だった伊地知幸介までもが男爵になっています。彼が爵位をもらうためには、あれだけ無能無策の連続だった旅順攻撃を、美化して書かなくてはならない。そうやって歴史の事実は捻じ曲げられていきました。そういう、だめになっていく日本を書いてこそ「坂の上の雲」は完結するのではありませんか、というのが編集者としての私の思いでした。

結局、9巻目はまぼろしでおわったのですが、登場人物の多くが変節をしていくなかで、最後まで真面目さを失わず、小説のとおりに生きたのが、秋山好古です。彼は大将に昇進しますが、爵位などもらわず、予備役に入った晩年を、故郷、松山の中学校長として過ごしました。

 

司馬さん、一時は、「それなら次は参謀本部を主人公にした小説を書く」といわれていました。

とくに、日露戦争後、おかしくなった陸軍の象徴として、ノモンハン事件のときの参謀本部を取り上げると。

ところが、いつのまにかその話もされなくなりました・・・

司馬さんは、軍人を主人公にして小説を書くことの難しさについて、いろいろ考えていたのだと思います。

これも「あとがき」に出てきますが、「坂の上の雲」は明治という時代を書いたのであって、決して個人の英雄物語や成功譚を書いたのではないということは何度も言っていました。

 

「坂の上の雲」 2巻のあとがきより ※単行本は6巻までのため、あとがきも6までになる

民衆はつねに景気のいいほうでさわぐ。

ロシアはみずから(自国の内情)に敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。

戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期にはいる。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか40年のちのことである。

敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。

 

「坂の上の雲」 4巻のあとがきより 

この日露戦争の勝利後、日本陸軍はたしかに変質し、別の集団になったとしか思えないが、その戦後の最初の愚行は、官修の「日露戦史」においてすべて都合のわるいことは隠蔽したことである。参謀本部編「日露戦史」十巻は量的には膨大な書物である。戦後すぐ委員会が設けられ、1914/大正三年をもって終了したもの(日露戦争は1905年に終わっているので、9年もかかっている)のだが、それだけのエネルギーを使ったものとしては各巻につけられている多数の地図をのぞいては、ほとんど書物としての価値をもたない。作戦についての価値判断がほとんどなされておらず、それを回避し抜いて平板な平面叙述のみに終わってしまっている。その理由は、戦後の論功行賞にあった。伊地知幸介にさえ男爵をあたえるという戦勝国特有の総花式のそれをやったため、官修戦史において作戦の当否や価値論評をおこなうわけにゆかなくなったのである。執筆者はそれでもなお左遷された。

これによって国民は何事も知らされず、むしろ日本が神秘的な強国であるということを教えられるのみであり、小学校教育によってそのように信じさせられた世代が、やがて昭和陸軍の幹部になり、日露戦争当時の軍人とはまるでちがった質の人間軍というか、ともかく狂暴としか言いようのない自己肥大の集団をつくって昭和日本の運命を途方もない方角へひきずってゆくのである。

 

「坂の上の雲」 6巻のあとがきより

日本の場合は明治維新によって、国民国家の祖型が成立した。その三十余年後に行われた日露戦争は、日本史の過去やその後のいかなる時代にも見られないところの国民戦争として遂行された。勝利の最大の要因はそのあたりにあるにちがいないが、しかしその戦勝はかならずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず、たとえば軍部は公的であるべきその戦史をなんの罪悪感もなく私有するという態度を平然ととった。もしこの膨大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに15年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史は、いますこし違ったものになっていたにちがいない。

 

文庫本の8巻だけを読みましたが、決して英雄物語ではなくて、戦争の悲惨さも書かれていると感じました。例えば、日本海海戦初日が過ぎたところでの主人公の1人秋山真之について

真之は艦橋から降りた後、艦内を一巡した。いたるところに弾痕があり、あの軽やかな濃灰色で装われた艦体は砲火と爆炎にさらされたためにひどく薄汚い姿になっていた。

負傷者が充満している上甲板は、真之が子どものころに母親からきかされておびえた地獄の光景そのままだった。どの負傷者も大きな砲弾の弾片でやられているために負傷というよりこわれもので、ある者は両脚をもぎとられ、ある者は腕のつけねから無く、ある者は背を大きく割られていた。どの人間も、母親が彼をおびえさせた地獄の亡者の形容よりも凄まじかった。

かれは、昼間、艦橋上からみた敵のオスラーピアが、艦体をことごとく炎にして、のたうちまわる姿の凄さも同時に思い出した。真之はあの光景をみたとき、このことばかりは誰にも言えないことであったが、体中の骨が震えだしたような衝撃を覚えた。

秋山真之という、日本海軍がそののちまで天才という賞賛を送り続けた男であったが、戦後、彼は僧になるつもりで行動を開始した。しかし、友人らの懸命な押しとどめにあって、思いと止まりはしたものの、結局、戦後に出生した長男を僧にすべくしつこく教育し、真之が大正7年(1918年)に病没するとき、この長男にかたくそのことを遺言した。そして、実際に無宗派の僧となられている。

 

司馬さんは、日露戦争後の日本を調べながらも、筆が動かなかったのでしょうネ~。

日本が、日本人が好きだから、狂ってしまった日本、日本人を書くことはできなかったように感じました。

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

 

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2021年11月13日 (土)

本の名前は「司馬遼太郎 リーダーの条件」とあるが、中身は、司馬遼太郎ファンの作家たち半藤一利氏、磯田道史氏たちが、司馬遼太郎の本、どれが好き!?そこにでてくる登場人物、誰が好き!?という大座談会!とても楽しく読ませていただいた!


そして、何度か精読しているうちに、本をどこかに置き忘れてしまいました~!!!(´;ω;`)ウッ…

 

何という事でしょう・・・(´;ω;`)ウゥゥ

しかも、この本、もう新刊では売ってないし~~(´;ω;`)ウゥゥ

 

忘れないうちに、印象に残ったところを書き留めるておきたいと思います!

 

司馬遼太郎ファンの半藤一利氏、磯田道史氏、中曾根康弘氏などなど著名な方々が、司馬遼太郎の本、どれが好き!?そこに出てくる人、誰が好き!?を語る本でした!!

 

好きな「本」ということでは、

やはり?「坂の上の雲」のように感じました。

これは、1968年(昭和43年)4月から1972年(昭和47年)8月まで、産経新聞に連載された歴史小説になります。

明治維新を経て近代国家として歩みだした日本が勝てないと言われていたロシアに日露戦争で勝利するまでの勃興期の明治日本を描いた内容です

 

ちょうど日本の高度経済成長時期(195412月(第一次鳩山内閣)~197311月(第2次田中角栄内閣まで)と相俟って、当時、中曽根氏は防衛庁長官、通産大臣を歴任されていた頃で、とても参考にしており、大ファンであったと言われていました。

 

半藤氏もファンではあったのですが、司馬さんには、幻の第9巻を是非書いて欲しかったと言われていました。

それは何故か・・・?

 

この時期をピークとして、日本は転げ落ちていくわけです。

日露戦争の勝利が日本の「分水嶺」とも言われています。

 

その後、「坂の上の雲」にでていた登場人物の大半も、勲章や権威を欲しがった。

例外は秋山好古とのこと。

そこで、その後の日本も書いて欲しかったと言われていました。

 

半藤氏は、日本の栄枯盛衰は40年サイクルで巡ってくるとも言われていました。

最初が、明治維新に向けて幕府が弱体化した1865年まで(底)

次が近代国家として日露戦争に勝利した1905年まで(天井)

そして、太平洋戦争で敗戦した1945年まで(底)

ここから、連合国占領下となり、1951年にサンフランシスコ講和条約で日本が復建、ここからの40年、バブル最高潮までの1991年(天井)

 

そうなると、2030年位までは底になるとのこと・・・

 

2030年・・・

生きているうちは、“よくなる日本”のために前向きに生きて、“よくなる日本”を楽しみにしたいと思いましたとさ!!

 

ありがとうございました~!

m(_ _)m

 

 

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2021年9月25日 (土)

1630年生まれで84歳手前まで長生きされた貝原益軒氏、その約200年後の1823年生まれで76歳手前まで長生きされた勝海舟氏、同時期で1万円札の肖像画にもなられています「福沢諭吉」は66歳と3人の中では短命。健康法の違いについて検証をしてみました!

 

貝原益軒(16301217日~1714105日、享年84歳1歩手前

勝海舟(1823312日~1899121日、享年76歳1歩手前

福澤諭吉(1835110日~190123日、享年66歳

福澤諭吉さんは、明治期の日本の啓蒙思想家、教育者。

何と言っても、1万円札の肖像に選ばれています!また、一番後にも生まれています!

それでも?一番若くして亡くなられていました。

 

何故か?

本人が「福翁自伝」に自ら書かれていましたが、

今でいう未成年、子供時代から酒を飲み、酒量も相当なものでした。加えてタバコも吸っており、脳卒中を発症しても無理のない生活習慣だったようです。

 

福澤諭吉の飲酒・喫煙について。

福澤諭吉は、緒方洪庵の蘭学塾に通っていたころから、大酒飲みで有名。

「私の悪いことを申せば、生来酒をたしなむというのが一大欠点」と自ら「福翁自伝」でも語っています。

 

禁酒を何度か試みている中で、気を紛らわそうと、友人がタバコを勧めます。

諭吉はそれまでタバコを非常に嫌っており、塾生の喫煙には批判的だったのです。しかし酒を飲めない辛さから、ついには自身もタバコを吸い始めてしまいます。

これが24歳の時。

 

では禁酒は続いたのかというと、そうではありませんでした。

結局我慢できずにまた飲み始めてしまい、60歳で最後の禁酒するまで飲み続けました。

タバコは一生吸い続けています。

 

1898563歳の時に脳卒中で倒れてしまいます。

一時危篤になりますが、奇跡的に回復。

 

しかし3年後にまた脳卒中の発作が起き、帰らぬ人となりました。

190123日、66歳でした。

 

おそらく、貝原氏、勝氏、福澤氏、お三方共、からだは生来丈夫な方であったと思いますが、

健康に対して謙虚であった貝原氏が一番長生きをされ、健康に慢心(あまり運動はせず、食事にも気をつけていなかった)があった勝氏がその後に続き、更に、お酒と煙草が止められなかった福澤氏が一番早く亡くなられていました。

 

お酒はほどほどに、タバコは吸わないなど、現代は薬もありますが、血圧を上げないための生活習慣が必要ですネ。

 

ところで、自分自身は、煙草は吸っておりませんが、毎日お酒はそれなりに?いただいておりました。

その中で、今年5月から、禁酒ではありませんが、節酒、微酔までとするようにしたところ、この9月の健康診断の血圧測定では、120代となっており、一発クリアでした。

昨年までの健康診断では、150から180まで記録していたのにです。ここで慢心せず、引き続き努めていきたいと思います。

 

お酒は好きで、その効用(とくにストレス解消)も認めておりますが、ここまで血圧に影響していたとは意外でした。(-_-;)

 

次は新一万円札の渋沢栄一(91歳まで生きられました)について、調べてみたいと思いましたとさ!?

 

ありがとうございました~! m(_ _)m

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