歴史

2016年12月25日 (日)

「特別攻撃隊」

先日読んだ「出口のない海」では“回天”、「永遠のゼロ」では“零戦”による特攻隊の話でした。

 

絶対に二度と繰り返してはならない「歴史」として“特攻”について知っておこうと思い少しググってみました。

 

「特別攻撃隊」は、生還の見込みが通常よりも低い決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする必死の攻撃を行う攻撃隊である。略称は「特攻隊」。

 

 

「空」では

「神風特別攻撃隊」、零戦による250500キロの爆弾を搭載しての体当たり攻撃。

神風の由来は、およそ700年前の2度に亘る元寇の際に、2度とも撤退を余儀なくされたときに吹いたとされる暴風(神風)からとったと言われているそうです。

 

「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。

飛行爆弾で、全長6㍍ほどの胴体に幅5㍍ほどの小さな翼をつけた。体当たり自爆用なので、帰還するための脚や車輪など降着装置はない。胴体の頭部が 1.2㌧の大型爆弾、中央部がパイロットの座席、後部に推進用火薬ロケットが収納されているのみ。全重量約2㌧。

 

「地上(海辺)」では

伏龍(ふくりゅう、別名「人間機雷」)は、第二次世界大戦末期の大日本帝国海軍による特攻兵器のひとつ。潜水具を着用し棒付き機雷を手にした兵士により、本土決戦における水際撃滅を狙った特攻兵器として、1944年に開発。

途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかったが、訓練中に二桁以上の死者を出している。

 

「海上」では

「震洋」は、第二次世界大戦の日本海軍の特攻兵器。秘匿名称は「四(の中に四)金物」(マルヨンかなもの)。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸船団に体当たり攻撃することが目標とされた。"

 

「四式肉薄攻撃艇(よんしきにくはくこうげきてい、別名「マルレ」)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の小型攻撃艇。全長5.6 m、全幅1.8 m、喫水0.26 m、満載排水量約1.5 t、主にトヨタ自動車と日産自動車製の60馬力程度の自動車用エンジンを搭載したモーターボートで、艇体後部に250 kgまたは120 kg2個の爆雷を装備していた。最高速力は2325 kt、航続時間は3.5時間。装甲はなくベニヤ製であった。

陸軍のマルレ艇に関しては海軍の震洋と違い元々特攻兵器として開発されたものではなかった。

現代では特攻兵器として認識されているマルレではあるが、「震洋」との大きな違いは最初から特攻兵器として開発されたものではないということがある。従って震洋は艇内に爆薬を搭載しているのに対し、マルレは艇尾に爆雷を懸架する形式になっており、名称が示す通り大挙して高速で敵船団に奇襲をかけ肉薄し、敵船至近に爆雷を投下して離脱するという構想の元に開発されたものである。しかし、太平洋戦争末期においては、この攻撃艇を体当たり特攻艇として使用したほうが至近に爆雷投下して離脱し反復攻撃をかけるより戦果は確実に上がり、また技量もそれほど要らないということで体当たり作戦が採択された。

 

そして、「海中」では 

「回天」は、旧日本海軍の特攻兵器の一つで、人が乗り組み操縦できるよう、九三式三型魚雷(通称「酸素魚雷」)を改造した人間魚雷。炸薬量は1.55トンあり、一撃で戦艦でも撃沈できるとされた。的(てき)、〇六(マルロク)との別称もある。一人乗りである。

二人乗りの「海竜」もある。海竜はマルレと同じく、元々は特攻兵器ではなかったが、戦局悪化に伴い特攻兵器となった。

 

特攻隊員戦死者数 5,836

訓練中の死者を加えれば、更に増えます

 

航空特攻

 海軍航空特攻隊員:2,531

 陸軍航空特攻隊員:1,417

 合計:3,948

 

海中特攻

 回天特攻隊員:104

 特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440

 合計:544

 

海上特攻

 震洋特攻隊員:1,081

 海上挺進戦隊員(マルレ):263

 合計:1,344 

 

絶対に二度と繰り返してはならない「歴史」として

ありがとうございました!

m(_ _)m

2013年12月30日 (月)

「蒲生邸事件」 (宮部みゆき著) を読んで

ニ・ニ六事件について書かれた物語(680頁の長編!ワオ)でした。

 

以前、恩田 陸さんの本で、「ねじの回転」(こちらも上下巻の長編)を読んだことがあります。

これも「二・二六事件」を題材にされている「物語」でした。

2002年に書かれたもので、恩田氏38歳のときの作品。

 

「蒲生邸事件」は、1995年に書かれたもので、宮部氏35歳のときの作品

 

共に、とてもよく調べられているナ~と、そして、30代のときに、ニ・ニ六事件について、ここまで興味を持って調べられていることに、スゴイ!、とても驚きでした!

 

『蒲生邸事件』

 

予備校受験のために上京した受験生・孝史は、二月ニ六日未明、ホテル火災に見舞われた。間一髪で、時間旅行の能力を持つ男、平田に救助されたが、タイムトリップ先は昭和十一年、雪降りしきる帝都・東京は、いままさにニ・ニ六事件が起きようとしていた・・・

 

物語の最初に、予備校生となる孝史について、

「中学や高校の日本史の授業では、現代史についてはほとんど教えない。受験には必要ないからだ。それに、教科書のページ順に縄文式土器のあたりから歴史を解きほぐしてゆくと、明治維新を一通りやり終えて、明治の元勲の名前を覚えてゆくあたりまでたどりついたところで、三学期の期末試験が来てしまう。それだって、相当スピーディーな授業をする先生にあたったらの話だ。孝史が、かって習った中学の社会科の教師は、廃藩置県以降のページは授業では教えられないので、自分で教科書を読んでおけばよろしいと断言したほどだった。

そんな孝史でも、二・ニ六事件が軍部のクーデターであるということぐらいは知っていた・・・というより、白状すれば、今は知っている。平河町一番ホテルで眠りに就く直前、テレビ番組のなかでそう言っていたからだ。

軍のクーデターを起こすということは、それだけの力を持っているということだ。だからこそ、その軍部の方針によって、日本は太平洋戦争に突入していったのだろう。少なくとも、戦争については、孝史はそう教えられて育ってきた。

 

≪参考:田原総一郎著 「日本の戦争」より≫

「昭和維新」と称した事件。青年将校たちを正しい方向へ導くことができなかった、年長者たち。

さらに、これを一つの機として、戦争を望まなかった岡田啓介首相、斎藤実大臣、高橋是清大臣、鈴木貫太郎侍従長らが表舞台より去ったこと、それにより、軍部の発言権がさらに強まった(陸軍大臣現役武官制度の復活など)ことなどにより、「日本」はさらに間違った方向へ進んでいくことになった。 

 

いまもまた「日本」はよくない方向に向かっているように思えています。

 

次に物語の中で、タイムトラベラーの平田が、

「歴史が先か人間が先か。永遠の命題だな。だけど私に言わせれば結論はすでに出ているよ。歴史が先さ。 歴史は自分の行きたいところを目指す。そしてそのために必要な人間を登場させ、要らなくなった人間を舞台から降ろす。だから、個々の人間や事実を変えてみたところでどうにもならない。歴史はそれを自分で補正して、代役を立てて、小さなブレや修正などをすっぽりとのみ込んでしまうことができる。ずっとそうやって流れてきたんだ」

ここでは、例えばヒットラーを歴史上からオミットしたとしても、同様の人間が必ず出てくる、歴史には逆らえないと言われています。

 

いまもまた「日本」はよくない方向に向かっていても、その方向を変えることはできないと言われているようで、やっぱり怖いですよね。

 

また、タイムトラベラーの平田が、なぜ戦前の時代に住みついたのか。

戦前の日本の方が、(戦時中を除けば)現代よりも住みやすかった、と言っています。

孝史自身も、その時代で、おだやかで堅実な生活が営まれていたことを体験します。

 

これは、例えば、

1937年(昭和12年)に書かれた「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)を読んでも明らかだと思います。その時代がよく書かれていて、また、戦前の発刊規制がある中で、素晴らしい内容と思っています。

おそらく、この本に基づいて、2009年に書かれた、鶴見俊輔氏と重松清氏の共著「ぼくはこう生きている、君はどうか」に受け継がれているんだろうナ、と思っています。

 

これもまた、NHKでテレビ化(1998年)されていたんですネ。知りませんでした。

主人公の孝史に、いしだ壱成氏。孝史がタイムトリップ先で好きになったふき役に奥菜恵氏。何となくで恐縮ですが、「再生巨流」とちがい、これはイメージピッタリです!

観てみたいと思いましたが、こちらはネット上に動画はありませんでした。ざんねん!

 

ありがとうございました~! m(_ _)m

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孝史とふきです
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2010年2月21日 (日)

「官僚川路聖謨の生涯」 著者 佐藤雅美 より歴史を感じて

「幕末」からの歴史は、れきじょと同様に、中高年にも大変興味のある時代です。

「川路聖謨」の時代は、幕末の少し前からの話となるが、幕末を理解する上では貴重だと思っている。ちなみに、現在の山川の教科書には、一箇所に記載があるのみでした。

そこには、「ペリー来航によって、幕臣からは永井尚志、岩瀬忠震、川路聖謨らを登用して対外交渉にあたらせた」、という一文でした。

永井尚志、岩瀬忠震、ともに、歴史に名を残していますが、一番貧乏からスタートしているのは、川路聖謨になります。

川路聖謨の官僚としての階段を上がるための“最初”を築いてくれたのは、聖謨の父親 内藤吉兵衛であり、母親であり、そして、必要な資金を提供してくれた、母親の父、日田代官所手付高橋小太夫がいたからだと思います。おそらく出世に対して、より貪欲であったのは、聖謨の父親であり、この父親が居なければ、聖謨自身だけでは、その実直な性格から、出世欲までは芽生えなかったのではないかと思います。

また、上司が部下の「生殺与奪の権利」を持っている時代であり、また、幕府落日に向かう時代でした。そのような中において、さまざまな上司が登場しますが、聖謨の頭脳明晰、人間性の高さ、実直さ、愚直さ、清廉潔白、則をわきまえた行動により、信頼を得てきたのだろうと思います。

官僚生活のスタートとなる法律を司る公事方の役人に推挙してくれた、勘定奉行石川主水正。また、そこで能力を発揮した聖謨を引き上げてもいきました。

布衣 久須美六郎座左衛門、寺社奉行 脇坂中務大輔、老中 大久保加賀守、老中の大久保加賀守氏は、政治的手腕は水野忠邦に一歩譲るとありますが、二宮金次郎を引き立てた人でもあります。友人、同僚としては、藤田東湖、横井小楠、渡辺崋山がいたとあります。

ここで、勝海舟は氷川清話の人物評において、西郷隆盛を自分よりも高く評価をしている中で、藤田東湖、川路聖謨らをあまり評価されていない。一方、西郷隆盛は藤田東湖を高く評価していたりする。人間関係の興味深さを感じたりもできます。

また、外交交渉では、プチャーチンに随行していたイワン・ゴンチャロフは次のように書いています。

「川路を私達はみな気に入っていた。(中略)川路は非常に聡明であった。彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」

プチャーチンは帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書いています。

著者である佐藤雅美評では、「群を抜いて優秀な官僚であった。官僚の鑑であり、接待は受けず、間違ってもただ酒は飲まなかった。」とあり、

もう1冊、川路聖謨について書かれている 吉村昭評では、「川路は、幕末に閃光のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物である。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登りつめたことでもあきらかなように、頭脳、判断力、人格ともに卓越した幕吏であった・・・私が川路に魅せられたのは、幕末の功労者であるとともに、豊かな人間性にある」とあります。

幕末に向かい、そして、その後の日本を変えていった(好きな)歴史上の人物をブログで書いてみたいと思います。

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