マネジメント

2016年11月23日 (水)

「はじめての課長の教科書」(酒井穣著) を読んで

以前、SNSで質問をさせていただき、コメントをいただいた酒井氏の本!

自分自身は管理職ではありませんが、ブックオフで、200円でゲット!

大事なところは、メモしておこう!

 

異なる価値観を持つ世代がまとまるために必要なのは、どの世代でも変わらない「価値観の共通点」を軸に、世代を超えた議論をすることです。

そうした「共通の価値観」として有効だと思われるのが「顧客第一主義」です。

 

「例外」への柔軟な対応能力が権威を正当化する。

こうした柔軟性のためには、大企業であっても「企業家精神」が必要とされているのです。ここでは、創造力をフルに働かせつつ、その解決を自らの頭で考える力が要求されます。

その中で、まずは理論(先人の知恵)を参照することもできることが必要になります。

 

ただし、経営者にとっても中間管理職にとっても、実際には日常業務の多くがルーティン・ワークであるということは、ここで強調しておかないとなりません。

経営の神様と呼ばれるピーター・ドラッカーは、かって「経営管理の96%は、ルーティン的な定例反復業務である」と喝破し、ルーティン・ワークを格下の退屈な仕事であるかのように考えることは間違いであると警告しました。

 

適度なストレスがある状態は人が良好なパフォーマンスを出すために必要です。

 

年功序列で成功する米サウスウエスト航空!

サウスウエスト航空の経営方針では、誠意の感じられるミスには一切制裁が課せられないことになっています。数字の評価などと関係なく、仲間を温かく励ます気持ちを大切にできる企業文化にもなっています。そして人事制度は、基本的に年功序列をベースにしています。

人事の基本は、従業員の才能を最大限に引き出すことにあります。人事評価などと言うものは、本当は二の次の話なのです。

 

自分がキーマンになることを目指す!

 

優秀な部下に「協調性の大切さ」を教える

協調性がなく生意気でも許されるのは若いうちだけです。

人間として成熟することなしに昇進がありえるのはせいぜい係長までです。大人にならない限り、それ以上の昇進はないと理解させる必要があります。

日露戦勝の直前、当時は退役寸前であった東郷平八郎が連合艦隊の司令長官に抜擢されたのは、順位や功績で言えば、その地位に納まるはずであった日高壮之丞に少なからぬ命令違反の過去があったからだと言います。

 

英語力向上のためには、毎日一定の時間を取って、地道なトレーニングを欠かさないことがとにかく重要です。

♪何事にも言えそうですネ!

 

課長にまでなった人材が職を失うのは、多くの場合、スキルが足りなかったのではなく、業界の不況が原因です。そうしたときは、同業他社でも同時期にリストラが起こっていることが多く、相当優秀な人材でも、新しい職場を見つけるのが難しいものです。

 

知識と実行(行動)を結びつけること 

 

本の読み方の秘訣

これは大切だ!と印象に残るような記述に出会ったときは、ペンでアンダーライン、付箋を付ける、ページを折ってもよい。

 

「読書」。良い文章にたくさん触れることで「情報を解凍する能力」を磨き、良い文章に刺激されてブログなどで文章を書くトレーニングを積んでおけば、「情報を圧縮する技術」も学ぶことができます。

脳内に情報の圧縮、解凍ソフトウエアを組み込み、それを絶え間なくバージョンアップさせていくという作業が、読書のユニークな本質なのではないでしょうか。読書をすればするほど、脳という知識創造プロセッサの能力は高まると信じています。

 

 

ありがとうございました!

m(_ _)m

 

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2016年10月22日 (土)

「チャーチル150の言葉」を読んで

いま、ウインストン・チャーチルの「第二次世界大戦回顧録 抄」を読んでいます。

その過程で、ブックオフで見つけました本になります!200円也!

 

イギリス最大の危機のとき、1940年に66歳で首相に就任、第二次世界大戦を勝利に導くと共に、71歳で首相を辞任。有事に力を発揮された、チャーチル。

その後も、76歳で首相に再任、80歳まで勤めてもいます。

90歳で亡くなられる1965年の前年、1964年まで政治家(下院議員)を勤めています。

そして、生涯、“ウイスキー”と“葉巻”をこよなく愛します。

 

そんなチャーチルの「言葉」ということです。

 

お気に入りを紹介します!

 

持っているすべての「本」を読むことができないなら、せめて手にとってその本に親しもう。気ままにページをめくり、そこで開いたページで最初に目を捕えた文章から読んでみることだ。自分の手で本棚に戻せば、そこに何が書いてあるのか、本の中身全体は分からなくとも、どこに何があるのかは把握できる。「本」を生涯の友としよう。それが無理ならばせめて知り合いくらいにはなるべきだろう。

 

人生において最高の楽しみを経験した者でないかぎり、世界で起こっている最悪のこの深刻な事態を私の代わりに乗り切ることはできないだろう。

 

戦時において贅沢は慎むべきだ。ただし、人生における楽しみは別だ。

 

(チャーチルにとっての最高の楽しみを想像してみる。本を書くこと(ノーベル文学賞受賞者)、読むこと。そして、ウイスキーと葉巻はもちろん、絵も描き、映画も好きで、動物好きとのこと。随分と多趣味だったのかもしれませんネ)

 

「外交」とは相手の感情を損ねることなく、明白な真実を伝える特殊な技術のことだ。

 

政治家として必要な資質とは、明日何が起きようとしているのか、来週、来月、来年まで先を予見する能力。さらに、どうしてそれが起きなかったのかを事後に説明する能力。その両方が必要だ。

 

どんな逆境にあっても、「良心」を持とう。唯一、「良心」こそが自分を守る盾となる。人々の心ない中傷から守る盾となるのは、自らの「良心」に基づいた、清廉潔白で公正な行動なのだから。

 

人類の歴史はそのまま戦争の歴史だ。

戦争が起こる幕間の短い期間を除き、世界に平和が訪れたことは一度もない。

 

全ての「叡智」は新しいものではない。先人から学んだものだ。

 

何のために人生はあるのだろう?

我々が消え去ったあと、この混乱した世界を少しでも良い世界へと変える、その崇高な目的のために努力しないのだとしたら。

 

富とよい趣味は、人生において多くのものをもたらしてくれるが、残念なことに「幸福」は運んで来ない。

 

若い時には挫折することもある。

しかし、人生において痛い目に遭ったり、挫折を知らない者は、将来、大成することは期待できない。

 

若いうちに成功できなかったとしても、人生を落胆することはない。絶えず勤勉に努力を続け、成功を信じ、断固としてやり続けよう。失われた時を取り戻すためのそれが唯一の方法だ。

 

深淵で豊かな知識なくしては、想像力は危険な罠に過ぎない。

 

ためらわずに自己主張しよう。

消極的な美徳など存在しない。もし私が同胞に何かできたのだとしたら、自己を抑えたからではなく、常に自己を表現してきたからだ。

 

年老いたほうが、若い時よりも多くの点で幸福だ。若者はその若さゆえに放蕩にはしるものだが、年老いると人は賢明になる。

 

酒はよくないと人は言うが、私から奪ったものよりも遥かに多くのものを酒は与えてくれた。

 

一杯のシャンパンは気分を高揚させる。

神経は研ぎ澄まされ、想像力は快く喚起され、頭の回転が速くなり機知に富むようになる。一方、驚くべきことに、ボトル一本のシャンパンには正反対の効果がある。

 

私自身について言えば、私は楽天家だ。

それ以外の要素は人生において、さほど必要ではないようだ。

 

 

ありがとうございました!

m(_ _)m

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2016年9月24日 (土)

「管理職の本分」  高杉 良著 を読んで

以前、千代田生命の破綻について書かれた物語、真山仁著「ダブルギアリング」を読みましたが、こちらも千代田生命の破綻、そして2008年のリーマンショック(AIGショックとも言う)までについて書かれた物語でした!

本著は20091月、リーマンショック後の時期に書かれたものとなります。

 

羨ましい!!

 

東邦生命、協栄生命、日産生命の破綻について書かれた「物語」は一つも無いのに、千代田生命だけ二つも!それだけ、物語にできる人物像、興味深さがあったのでしょうネ!

 

主人公は、企画部副参事(上席課長)の友部陽平。

慶応大学経済学部卒。1982年(昭和57年)入社。高校、大学では剣道部で鍛えた体育会系で、三段の腕前。松江支社で営業勤務後、1988年、米国ハーバード大学で社費留学しMBAを取得。TOEICスコアは900点以上。

 

こちらモデルとなった方が居られます!!

話をさせていただいた事もありますが、とても気さくで朴訥で、まじめな方です。スゴイですよね!

 

そして、ワンマン経営で会社を潰したとされる「神崎安太郎社長」も、最初から悪であったわけでなく、新人であった友部へ、次の言葉を贈られているようです。

 

1. 初対面では無心で接すること。有能な人間ほど、とかく慢心や偏見があって有心で接しやすい

2. 明るく溌剌としていて、感じがよいこと

3. 話題が多く、ユーモアが分かり、話がおもしろいこと

4. 自分のことばかりしゃべらずに、ひとの話を一所懸命聞くこと

5. 素っ気ない素振りや威張ったりせず、親切で思いやりのあること

6. 批評癖は直して、悪口屋にならないこと

7. 同席のひととうまくやれること。自己顕示欲の強いひとは孤立しやすい

8. もらう一方ではなく、与えることも知っておくこと。物心両面で。

9. 努めて、ひとの美点、長所をみること

10. 好悪を問わずひとに「誠」をつくすこと

 

やはり、「権力」が「腐敗」を呼び起こすのでしょうか!?

本の中でも、

「神崎体制が永く続き過ぎました。権力は必ず腐敗します。」とありました。

 

AIGによる買収時に、46歳以上の従業員は雇用を切られたことも書かれていました。

今だったら、自分も切られることになるのでしょう・・・

 

こちらの物語、千代田生命の友部陽平の破綻までの”頑張り”と、管財人室長となった友部陽平の”頑張り”を書いた物語と思いましたが、半分くらいはそうでしたが、もう半分(いやそれ以上!?)は、著者高杉氏の不満解消に書かれたのでは!?、と感じてしまいました!

 

この点で比較すると、生保社員としては、真山仁氏の「ダブルギアリング」の方が興味深く読むことができました!

 

著者高杉氏の不満解消とは、千代田生命の関連事業として経営をしていた東京都杉並区にあった高級スポーツクラブがあり、そこの会員だったそうです。

千代田生命の破綻により、この高級スポーツクラブは売却、廃止となるわけですが、それに対して反対訴訟を起こされたそうです。

その不満!?が、この物語に書かれています。

 

破綻の際、資産を売却することはやむを得ないと思います。

数多くの資産売却処理があった中で、この高級スポーツクラブにかなり熱いスポットをあてて書かれていましたヨ!

最後に、

イギリスの歴史家であり、思想家であり、政治家でもあったアクトン卿(1834110 - 1902619日)によれば、

「権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する」

 

Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.

という格言が有名であるとのこと。

 

ありがとうございました!

m(_ _)m

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2016年7月30日 (土)

「ポーツマスの旗」(吉村昭著)を読んで その4

ポーツマス条約を結んだ外務大臣「小村寿太郎」の裏の顔について

 

私生活では、大酒し女遊びも激しかった・・・

そして、父親の莫大な借金のため、母親は家を去り、父親の負債は長男の寿太郎に降りかかった。

債権者たちは絶えず家に押しかけて怒声をあげ、役所にもやってきて小村を呼び出し、棒給を奪っていった。

生活は窮した。

友人からは煙草を乞うた。

彼は、借金返済の期日が迫ると家に近寄らず外泊した。同僚や旧知の友人たちの家を泊って歩き、しばしば遊里にも行った。居続けをしながら金も払わぬので、再び行くと素っ気なく追い払われる。役所で弁当を取ろうとしても支払いをしないので断られ、茶を飲んですごすことも多かった。同僚と会食をしても会費を払うことは無く、それでも平然と出席する彼は敬遠された。

債権者の容赦ない督促に、酒を飲み、女を買う荒れた生活が続いた。

 

彼の大きな誤算は、妻の町子であった。かれが町子を妻にめとったのは、その美貌にひかれたからであった。町子は、女子としては珍しく明治女学校卒の高等教育と受けた娘で、留学から帰国したばかりの彼には得がたい娘に思えた。

しかし、結婚後、かれは、妻が家事を一切せぬ女であることを知って愕然とした。女として身につけておかねばならぬ裁縫の針をとることもせず、料理もできない。近くに実家があって、その仕送りで女中を雇い、すべての家事をやらせる。それに、感情が激することが多く荒い言葉を口にしたり、物を投げたりして、小村が腹を立てると、実家の両親の下に行って泣いて訴える。

子供が生まれても、妻の生活態度は変わらなかった。彼女の唯一の趣味は芝居見物で、子どもを女中に託して実家の母などとしばしば外出する。それをなじると、妻は泣き喚いた。町子は幼児のような女であった。食事も気の向いた折にすませ、小村と食膳に向かい合って座ることもない。小村は妻を持て余し、ほとんど口をきくこともしなくなった。

 

小村の家庭生活は無残であった。町子が家事を処理する能力に欠けているため、小村は、夏は浴衣一枚、冬は綿入れを着通し、破れてもつくろってもらうこともない。

小村の給与が増して生活が楽になり女中を雇うようになったが、町子は来客があっても顔を出すことはせず、むろん酒肴の用意もしない。そのため小村は、台所に行って女中に肴を指示し、酒を出させたりしていた。

町子の芝居通いはさらに著しくなって、小学校に通う息子と娘も連れてゆく。役者の錦絵、画本を買い集め、新聞も芝居の欄のみ目を通し、役者の手拭も収集する。町子の趣味は子供たちにも伝わり、役者の所作を真似たり、声色を使って遊ぶ。かれらは、女中や書生に芝居の登場人物や役者の名をつけて興じていた。

小村は、町子と諍いをして時には殴りつけることもあった。が、町子の態度はあらたまらず、息子や娘は母の側について小村に近づこうとしない。女中も町子の指示に従い、僅かに書生たちが小村の身の回りの世話をしたが、町子の冷ややかな態度に辟易して去る者が多かった。

小村は、家庭の空気に堪え切れず芸者遊びにふけった。居続けることもあって、待合から出勤することも稀ではなかった。かれの遊興は省内でも話題になっていたが、家庭の事情からやむを得ないと同情する者も多かった。

町子は、外泊する小村に嫉妬をいだき、しばしば尋常さを欠いた行為をとった。待合の女が月末に請求書を持ってくると、町子は、女性の陰部の名称を口にし、そのようなものに夫が接した代金を支払えぬ、と叫んで追いかえす。

さらに、町子は、小村が常時使用する車夫に、遊里へ送った折には必ず自分に告げることを厳命した。或る夜、彼女は、請求書から知った蜂龍という待合に足を向け、小村を待っていた車夫に、なぜ教えぬ、と言って頬を平手でたたき、待合に入った。二階に上った彼女は、小村の笑い声を耳にして部屋の襖をあけ、小火鉢を持ち上げて芸者に投げた。火鉢は背後の金屏風に辺り、炭火と灰が散った。屏風が燃えだし、待合は大騒ぎになったが、その話も蜂龍の女将の口から外務省内に広がった。

小村は、妻や家庭に絶望し、帰宅しても一室にとじこもって家族と顔を合わせることもしなかった。

晩年は、家族とは別居し、激職の末に結核に罹り56歳で亡くなっている。

 

親、そして妻には恵まれなかったが、ここで培った?タフなふてぶてしさが小国日本のために生きた、と言われている。

 

いろいろな人生がありますネ!

ありがとうございました~!

m(_ _)m


2016年7月 2日 (土)

「ポーツマスの旗」(吉村昭著)を読んで その3

『日露戦争は、明治維新と太平洋戦争を結ぶ「分水嶺」』について

司馬遼太郎氏は、「このくにのかたち」の中で、

1905年から1945年を「大勢でこんなバカな40年を持った国があるだろうか。」と言っていた。

・・・・・

そこに、巨大な青みどろの不定形なモノが横たわっている。その粘着質にぬめったモノ、両眼が金色に光り、口中に牙もある。牙は、折れている。かたちは絶えず変化し、とらえようがない。

君はなにかね、ときいてみると、

驚いたことにその異胎は、声を発した。

「日本の近代だ」というのである。

ただし、そのモノがみずからを定義したのは、近代といっても、1905年(明治38年)以前のことではなく、また1945年(昭和20年)以後ということでもない。その間の40年間のことだと明晰にいうのである。つまりこの異胎は、日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの時間が、形になって、山中に捨てられているらしい。

「おれを40年とよんでくれ」と、そのモノはいった。

「君は、生きているのか」

「おれ自身は死んだと思っている。しかし見る人によっては、生きていると言うだろう」

もっとも人里へ降りて行って害をもたらすことはもうあるまいが、ともいった。

歴史もまた一個の人格として見られなくもない。日本史はその肉体も精神も、十分に美しい。ただ、途中、何かの変異がおこって、遺伝学的な連続性を失うことがあるとすれば、

「おれがそれだ」

と、その異胎はいうのである。

そのモノは気味悪く蠕動(ぜんどう)していて、うかつに踏んづければ、そのまま吸い込まれかねない感じもある。私は十分距離を置き、子どものような質問をした。

日本は、日露戦争の勝利以後、形相を一変させた。

「なぜ日本は、勝利後、にわかづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に適合した小さな海軍にもどさなかったのか」ということである。

日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるを得なかったことは、「坂の上の雲」を書いたわたしとしては、十分わかっているつもりである。ロシアのウラジオストックにおける艦隊を討ち、かつ欧露から回航されてくる大艦隊を戦うには、やむなく大海軍であることを必要とした。その応急の必要にせまられて、日本は開戦前、78年の間に、世界有数の大海軍を建設した。

ロシア海軍はこれによってほぼ壊滅し、再建には半世紀以上かかるだろうと言われた。

「戦後、多数の海軍軍人が残った」

そのモノは、ただそれだけで答えた。

日本海海戦のような近代海戦史に類の無い勝利をおさめた栄光の海軍が、みずからの両手にかかえてしまった大海軍を減らすはずが無く、むしろ組織というのは、たとえ目的が無くても細胞のように自己増殖をのみ考えるものだ、という意味のことを言っているのだろうか。

 

参謀本部は、ロシアがかならず報復のための第二次日露戦争を仕掛けてくると思っていた」

日露戦争が終わり、明治41年(1908年)、参謀本部は、関係条例が大きく改正され、内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて、参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想(明治憲法が三権分立である以上、統帥権は超憲法的である)を持つにいたるのだが、この時期にはまだこの思想はそこまでは成熟していない。だから、日韓合併の時期では、のちの満州事変のように、国政の中軸のあずかり知らぬうちに外国に対する侵略戦争が“参謀”たちの謀略によっておこされるという具合ではなかった。

しかし、将来の対露戦の必要から、韓国から国家であることを奪ったとすれば、そういう思想の卸元は参謀本部であったとしか言いようがない。

(中略)

要するに、日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。

調子狂いはここからはじまった。

大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。

講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。

ついに日比谷公園で開かれた全国大会は、参集する者3万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令をしかざるを得なくなったほどであった。

私は、この大会と暴動こそ、むこう40年の間の季節への出発点ではなかったかと考えている。

この大群衆の熱気が多量に・・・たとえば参謀本部に・・・蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。

一人のヒトラーも出ずに、大勢でこんなバカな40年を持った国があるだろうか。

・・・・・

自分も国民の一人として、情報を正確に捉え、好戦家にはならず、非戦論者としてありたいと思いました!

 

ありがとうございました~

 

m(_ _)m

 

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2016年6月19日 (日)

「ポーツマスの旗」(吉村昭著)を読んで その2

『日露戦争は、明治維新と太平洋戦争を結ぶ「分水嶺」』について

 

著者の「あとがき」より、

終戦の年の暮に病死した父は明治24年生まれで、夕食後などにしばしば日露戦争の折の思い出話をした。旅順戦、日本海海戦の話もしたが、繰返し口にしたのは、講和成立時に起きた東京市内の騒擾(そうじょう)事件であった。講和条約の内容に憤激した市民が、内相官邸、新聞社を襲い、市内の警察署、分署、巡査派出所に次々と放火、市内は大混乱を呈した。全権として条約締結の任にあたった外相小村寿太郎は、屈辱外交を行ったとして非難され、その後も小村は批判にさらされつづけたという。

7年前、日本に遠征してきたロシア艦隊と日本艦隊の海戦を「海の史劇」と題して小説に書いた折、日露講和条約締結のことにもふれた。参考にしたのは外務省編「小村外交史」であったが、それが決して屈辱外交の所産ではなく、妥当な条約成立であったことを知った。

と同時に、戦争と民衆との係り合いの異様さに関心をいだき、また、講和成立が、後の太平洋戦争への“起点”になっていることにも気づいた。つまり、明治維新と太平洋戦争を結ぶ歴史の「分水嶺」であることを知ったのである。

 

この点について、歴史学者 加藤 陽子氏の「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」にも、同様のことが書かれていた。

***

1905年(明示38年)1125日に発効したポーツマス条約ですが、時代的にも明治が始まった1868年と1937年の日中戦争のちょうど中間あたりに位置します。

歴史的な出来事は一朝一夕に起きるのではなく、様々な物事が積み重なって、大きな事態へと発展していくわけです。

選挙によって選ばれた政治家が国家を動かしている国においては、畢竟国民(ひっきょう、最終的には国民)の多くの関心によって、政治が動き、それによって国が動いています。

 

辛うじてロシアに勝った日本という軍隊の実態も理解できないままに、戦争に勝ったのだから、多くの賠償金と領土を要求すべきだろうと強く非難して、多くの政府施設、警察施設に投石、放火を繰り返した民衆は、結果として太平洋戦争で負けることがわかっていても戦争がやめられなかった

***

 

さらに、さらに、この点について、「坂の上の雲」で日露戦争のことを書かれた、司馬遼太郎氏も「このくにのかたち」の中で、同様のことが書かれていました。

 

自分を含め国民の一人一人が、正確に情報を捉えて、好戦家にはならず、戦争をせずにどう解決していくかを考えていく必要があると思いました!

 

ありがとうございました~!

次回に続く・・・

m(_ _)m

ポーツマス講和条約の写真

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2016年5月22日 (日)

「ポーツマスの旗」(吉村昭著)を読んで

最初に、主人公の小村寿太郎について

 

ポーツマス条約を結んだ外務大臣。小村寿太郎にとって、ロシア帝国と結んだ「ポーツマス条約」が一生の正念場であった。

日本の国民は日露戦争でロシア帝国に勝ったと思っていたが、実際には、ロシア帝国には、まだまだ強大な軍隊が残っており、戦争を続けることができる状態であった。一方、日本はロシア帝国の旅順要塞を落とし、バルチック艦隊を全滅させたとはいえ、これ以上の戦争はできない状態であった。日露戦争の結果は、日本、ロシア帝国ともに痛み分けといったところだったのである。そのため、日本はロシア帝国から賠償金を取ることができなかった。

このことが、国民の不満に火をつけ、ポーツマス条約反対の焼きうちなどがおこった。だが、小村寿太郎は、このような状況の中で、ねばり強く話し合い、ロシア帝国から最大限の物を獲得していると考える。小村寿太郎のねばり強い態度を賞賛したい。

※小中学生のための学習教材の部屋 知識の泉より

 

陸奥宗光に拾われるまで、不遇という言葉は彼のためにあるといっていいほど、小村は絵に描いたように不遇だった。彼は、父親から相続した多重債務と、わがまま美人妻のヒステリーと、外務省のリストラの三重奏をBGMに、酒を飲み、女を買った。 いや、買ったというのは正確ではない。彼にはそんなカネはなく、いつも踏み倒したのだから。 雨の日には、傘がないから濡れて歩いた。 座布団が二枚しかない自宅に客が来てタバコを吸いはじめると、もらいタバコをうれしそうに吸った。 カネもないのに、同僚たちの飲み会に平然と参加し顰蹙(ひんしゅく)を買った。

だがのち、このタフなふてぶてしさが小国日本のために生きた。小村寿太郎の名は、今でも日本外交史上に燦然と輝いている。

※クリック20世紀より

 

「ポーツマスの旗」あとがきより

戦争と民衆との係り合いの異様さに関心をいだき、また、講和成立が、後の太平洋戦争への起点になっていることにも気づいた。つまり、明治維新と太平洋戦争を結ぶ『分水嶺』であることを知ったのでる。

 

大変興味深く読むことができました!

続く・・・

 

m(_ _)m

 

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2016年4月30日 (土)

「清貧と復興 土光敏夫 100の言葉」(出町譲著) を読んで その3

1986626日、「臨時行政改革推進審議会」終結のときの土光氏のメッセージになります。

 

国民の皆様へ

 

明日をもって、行革審はその任期を終え、解散いたします。顧みれば、昭和563月鈴木内閣によって、臨調が設置され、中曽根内閣に引き継がれ、さらに行革審となって、今日まで53ヶ月約2,000日になります。

この間、国民の皆様方の絶大なご支援を得て、臨調・行革審は、全国民的課題である行政改革の推進に努めて参りました。臨調発足当時、行政は肥大化し、財政はまさに危機的状況にありました。このままでは、戦後のめざましい復興を成し遂げ、自由世界第二位の経済対策を実現してきた国民の活力が、失われてしまうのではないかと、私は深く憂慮しておりました。

我が国の将来にとって、国民の活力を維持・発展させるとともに国際社会の一員として責任を果たすことが何よりも必要であり、それはまさに国家の存立と盛衰にかかわる重大事であります。その意味で、臨調は「活力ある福祉社会の建設」と「国際社会に対する積極的貢献」という行政の二大目標を提示したのであります。

この目標実現の前提として、「増税なき財政再建」の基本方針を厳守し、国民負担比率の上昇を極力抑制しつつ、「行財政の改革」をやり遂げることが不可欠であります。それは、行政には抜本的な制度・施策の見直しと厳しい削減努力を要請するものであり、国民の皆様には行政に対する甘えを捨て「自立自助の努力」を求めるものであります。

これまで政府・国会、地方公共団体は、全力を挙げて行政改革に取り組まれ、医療・年金・電電改革等みるべき成果を上げてこられました。しかしながら、国鉄改革をはじめ中央・地方の肥大化した行政の役割の見直し・規制緩和等なお多くの問題が残されております。また、公債依存度はある程度減少したとはいえ、赤字国債依存脱却という当面の財政再建目標の達成はなお困難な状況にあります。

行政改革に倦み(疲れ)、歳出抑制に疲れ、また国際収支の不均衡是正や内需拡大を重視するあまり、行財政改革路線の転換を強く主張する向きも無いわけではありません。しかし、市場開放と民間活力の発揮が強く要請されている現在、思い切った行政改革の断行がまさに必要なのであります。いま、ここで行財政の改革をあきらめられるならば、これまでの努力は水泡に帰し、行財政は再び肥大化の道をたどり、ようやくほの見えてきた明るい希望も消え去るでありましょう。私はそのことが心配でならないのであります。

行政改革は、21世紀を目指した新しい国作りの基礎作業であります。私は、これまで老骨に鞭打って、行政改革に全力を挙げて取り組んで参りました。私自身は21世紀の日本を見ることはないでありましょう。しかし、新しい世代である私たちの孫や曾孫の時代に、わが国が活力に富んだ明るい社会であり、国際的にも立派な国であることを、心から願わずにはいられないのであります。

行政改革を遂行する責任を負っているのは、政府・国会及び地方公共団体であります。政府が不退転の決意を持って行政改革を遂行され、国会が国権の最高機関として政府の努力を鞭撻するとともに率先して国会改革・政治改革に取り組まれることを、私は強く願っております。また、地方公共団体においても、自らの責任において行政改革に邁進されることを念願してやみません。

行政改革の成否は、一に、国民の皆様の支持と熱意にかかっております。私は、より良き明日を拓くため、皆さまが、政府・国会及び地方公共団体の改革努力を厳しく見守るとともに、たとえ苦しくとももう一段の痛みに耐えて、行政改革というこの国家の大事業を最後までやり遂げてくださることを、心からお願い致します。

この時、土光氏90歳。

その後、土光氏は、198712月に東芝中央病人に入院されたが、衰弱は激しく、19888月に息を引き取られた。

 

山口氏が「年金の鬼」と呼ばれ、土光氏は「行革の鬼」と呼ばれた。

二人とも命を賭けて「日本」を立て直しに邁進された!

 

スゴイですネ!!

少しでも見習いたいです!!

 

いまの「日本」は残念ながら、とっても残念な状況と言わざるを得ない。

土光氏の遺言とも言える、この国民へのメッセージは、受け継がれなかった・・・

土光氏がいるときは頑張れたのに、いなくなれば頑張れない、我慢できない、易きに流れる日本人・・・

厳しさの足りない自分自身もいるし・・・

(_ _*)ハンセイ・・・

 

山口氏、土光氏のような、命を賭けて「日本」を立て直せるひとが求められているときと思いました!

 

ありがとうございました!

m(_ _)m

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土光氏
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2016年4月29日 (金)

「清貧と復興 土光敏夫 100の言葉」(出町譲著) を読んで その2

土光さんに関する本を読んでみたいと思っていたので、とても興味深く読むことができました!

ありがとうございました。

 

「清貧のひと」であり、1988年、91歳で亡くなられるのですが、1986年まで、臨時行政改革推進審議会会長を務められていました。スゴイですネ!

 

まず、「臨時行政調査会」とは、

行政改革のため、内閣総理大臣の諮問機関として設置された審議会。略称は臨調。196164年まで池田内閣のもとに置かれた第1次臨調と、198183年まで鈴木内閣・中曽根内閣のもとに置かれた第2次臨調とがある。

そして、「臨時行政改革推進審議会」とは、「臨時行政調査会」(臨調19811983年 昭和5658)の答申についての政府の対応を監視するとともに、具体的推進のための方策を話し合う機関。

土光さんは、ここに関わり、19866月まで会長を務められたということです。

その、実施提言は、

赤字国債ゼロ

官業民営化

 国鉄分割民営化

 日本電信電話公社

 日本専売公社

3K赤字(コメ、国鉄、健康保険)の解消

 

このときの歳出の削減努力などで、一般財政赤字がGDP3.5ポイント改善、これに対して民間投資は横ばいとなり、民間余剰が高どまる中で財政赤字が減少し、財・サービス収支の黒字が拡大、とくに85年には、原油価格が大幅に下落したため、エネルギー価格の低下によって、家計や企業の資金余剰が拡大したことも、財・サービス収支黒字を増大させる要因となったそうです。

 

これは「年金改革の原点」にも関連します。

〔「山口新一郎追悼録刊行会編1986」、新川氏2005論文より〕

1985年改革によって、国民年金は、発足から四半世紀を経て「国民全体」をカバーする制度へと拡充されることになった。

被用者とそれ以外の就業者の定額年金が統合されただけでなく、それまで任意加入であった被用者の配偶者もまた「第三号被保険者」として強制加入となり、文字通り社会的=国民的連帯の枠組が生まれることになった。ただ制度的統一がなされたといっても、実際には国民年金と被用者保険の支給開始年齢の違いや徴収方法の違いなどはそのまま残り、「基礎年金」といっても、実は異なる制度間の財政調整の仕組みが生まれたというのが正確なところであった。

1985年改革の目玉は“基礎年金という新制度の導入”であり、その決定は第二臨調を通じて政治的になされたということができる。第二臨調行財政改革という政治目標実現のために設置された、日常的な行政的決定手続きとは異なる「政治的」決定メカニズムである。しかし基礎年金導入そのものは、国民年金導入時と同じように、あるいはそれ以上に行政主導で行われた。

1985年改革を実際に指揮したのは厚生省、なかでも山口新一郎年金局長であった。「年金の鬼」、「年金の神様」とも呼ばれた山口は、改革に向けた勉強会を若手と積み重ね、省内の態勢固めを行うとともに、年金局長となってからは、マスコミ対策もこまめに展開した。世論の流れを創るうえで決定的な役割を果たした有識者に対するアンケート調査は、山口の決断による。

このように世論形成を含めて官僚が取り仕切ったのが、1985年改革の特徴であるが、それは政治ができるだけ自らの可視性を低下させようとした結果でもあった。

1985年改革では、従来のできるだけ保険料引上げを抑えて給付を引上げるという大盤振る舞いから保険料の引上げと給付抑制という拠出給付関係の見直し政策へと移行した。このことは年金政策が人気政策から不人気政策に変わったことを意味する。政治家にとって不人気政策にコミットするのはリスクが高い。したがって彼らは臨調官僚に実権を委ねたのである。

 

課題もありましたが、それを超える成果。この“行動”がなければ、いま「国民年金」は無かったかもしれません。

1983年から1986年にかけて、政府純債務残高(いわゆる国の借金)を減少させています!

http://ecodb.net/country/JP/imf_ggxwd.html

※日本の政府債務残高推移(対GDP比、純債務残高に観て取れますネ!)

 

ただ、日本人のよくない癖!?山口氏、土光氏の目が届かなくなると!?いい気になってバブル(198612月から、19914月まで53カ月に渡るバブルバブルへ)に突入してしまいましたが、この辺りの話は置いておきましょう。

 

少なくとも、現在のバラマキ財政ではダメで、緊縮財政も行いながら、景気回復を推進する必要があると思いました。

 

続く・・・

m(_ _)m

 

2016年4月25日 (月)

「清貧と復興 土光敏夫 100の言葉」(出町譲著) を読んで その1

最初に土光さんの人柄について、少し調べてみる。

「質素倹約、清廉潔白、質実剛健」


華やかな経歴とは裏腹に土光の私生活は「清貧」そのものであった。

 

「知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!

 

但し、松下幸之助氏はこの言葉に批判しており、「『まずは汗を出せ、それが出来ぬ者は去れ!』と云うべきやね。本当の知恵と言うものは汗から出るものや」と秘書を務めた部下の江口克彦に語っている、と言われている。

 

7年間で東芝の立て直しに成功している。特に社長就任の際に役員を一喝した言葉は経済界でも語り草となっている。

「社員諸君には、これまでの3倍働いてもらう。役員は10倍働け。私はそれ以上に働く」

働きぶりは猛烈で「土光タービン」と称されたほど。

 

いざ動くとなったら、猛きこと火のごとし、だれの追随も許さぬ強い信念で難局を打開していった。だからこそ、厳格な土光に多くの人が従っていったのだ。

 

「やるべきことが決まったならば、執念をもって、とことんまで押しつめよ。問題は能力の限界ではなく、執念の欠如である。」

 

「必要以上の正確は、時間と経費のロスである。」

 

「一日一日にけじめをつけていこう。今日のことは、今日やってしまおう。これは、忙しいとか暇があるとかの時間の問題ではない。志の問題である。」

 

「この世の中で一番大切なことは、「人間関係」ですよ。」

 

土光は現場を廻っていて、責任者に「どうかね、調子は」と軽い調子で問いかける。

 

続く・・・

m(_ _)m

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